聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヘブル書9章1~14節「キリストを示す幕屋 聖書の全体像21」

2019-07-28 06:22:01 | 聖書の物語の全体像

2019/7/21 ヘブル書9章1~14節「キリストを示す幕屋 聖書の全体像21」

 聖書の物語の全体像をお話しして、しばらく「モーセ契約」を見ています。神は、エジプトで虐げられていたイスラエル人を救い出し、神の祝福を受け継ぐ民としてくださいました。それは、イスラエルだけを救うためではなくて、全世界に対する祝福を現す模範としてでした[1]

 神はイスラエルに、新しい生き方を示す「十の言葉(十戒)」を初めとする律法だけでなく、「幕屋」という建物を下さいました。それは、間口4m半、奥行き13m、高さ4m半の聖所(この会堂だと、礼拝堂の長椅子の両端ぐらいと、奥行きが礼拝堂より少し長いくらいです)。そして、その聖所の前に洗い場の水溜(洗盤)と生贄を焼く祭壇があり、周りを44m×22mの幕で覆って庭としている構造でした(鳴門教会の敷地があるブロックの三分の二ぐらい)。

  出エジプト記は、この幕屋の設計図や建設のことが詳しく記されています[2]。エジプトを脱出するまでの経緯や、十の言葉のような律法(規則)よりも詳しく、丁寧にたっぷりと書いているのです。それぐらい、幕屋はモーセ契約にとって大事ですし、今日のヘブル書によれば、新約の時代の私たちにとっても、幕屋は大切なことを教えてくれるのです。

 何よりも、モーセ契約は、神が戒めを与えるだけでなく、幕屋(そして大祭司)を与える契約でした。御言葉を守れない人間の限界も十分に弁(わきま)えて汲(く)み取る契約でした。勿論、律法そのものが人間の間違いや社会のいざこざを想定しています。決して規則だけで縛ってはいません。聖書は、神の民がユートピアであるとは思わず、イスラエルも教会も、人の集まりである以上、いつも問題に対処しなければならない現実を前提としています。幕屋は祭司たちが生贄を捧げて、人が罪を犯したらそこにいって決められた償いをして、主の赦しを得るようにしていました。罪を犯した時だけでなく、朝晩、生贄が捧げられ、毎週、毎月、毎年と折々に儀式や記念のお祭りがありました。また、秋には「贖いの日」という大きな祭りがあり、すべての罪の赦しのために、大祭司が聖所の奥にまで入ることになっていました。こうして、主の大きな恵みの中に自分たちが支えられている。主の憐れみがあって、今ここにある事実を、幕屋の儀式を通して、目で見るように思い起こしていたのです。

 幕屋で大祭司が生贄を捧げることは、自分たちに罪があることを認めさせるものでした。そして、その罪は適当に解決して済ませるのではなく、神の前に持って行くことが必要だとも幕屋は示していました。そして、幕屋の中の「第二の垂れ幕」の後ろの至聖所には、大祭司でさえ一年に一度しか入れなかったのです。それは人間の罪が、聖なる神の前に相応しくないからですし、幕屋そのものが持っている限界をも示していました。先のヘブル書にこうありました。

ヘブル9:7…第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。

聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。

 当時の大祭司は、自分も罪がありましたから自分のためにも生贄が必要でしたし、その生贄もまた動物の生贄で、神の前に完全な生贄ではあり得なかったので、至聖所に入るには中途半端でしかなかったのです。ですから、繰り返して動物の生贄が捧げられ、大祭司も年に一度しか奥の至聖所にまで入ることは出来ませんでした。それでも幕屋は、人々に対して、神が私たちに罪があるにもかかわらず、私たちを受け入れてくださること、私たちの罪を怒って罰するのではなく、赦しや解決、和解を備えてくださることを確かに示していました。手続きはいろいろあるにせよ、主は赦そうと待っていてくださる。悔い改めるなら、受け入れてくださる。その事を、モーセ契約は幕屋を通して語っていました。モーセ契約の結び、申命記には、

申命記33:27いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。…

 神は私たちの家となってくださり、私たちの下に永遠の腕があって、何があっても私たちを支えてくださる。そんな安心を告白することに、幕屋は繋がったのです。「幕屋」という言葉自体が「住む」から来た言葉です[3]。神が私たちの内に住んでくださる、私たちの中に幕屋を張って、ともにいてくださる。まだ神と私たちとの間には解決しなければならない罪や様々な問題があるけれども、それでも神が私たちと一緒にいてくださる。そう示されたのです。

出25:8「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」

 幕屋は神の「家」でした。神がご自分の家を、私たちの中に造れと言われたとは、驚くべきことですね。特に、その至聖所の手前の幕には、ケルビムという御使いの模様が織り込まれていました。それは、エデンの園でアダムとエバが神との約束を破って追放された時、エデンへの道をケルビムが塞いだことを思い起こさせます。神がこの世界を造られた時のエデンの園、神と親しく交わり、罪がなかったエデンの園を思い起こさせる幕屋は、聖書の最初の天地創造へと記憶を呼び覚まして、将来には、再び神との親しい交わりが、エデンの園が現していたこの世界の姿が完成される日が来ることを待ち望ませるものでもあったのです。

 この幕屋は、後に神殿という立派な建物にとって変わられますが、それ自体は主から命じられた事ではなく、ダビデやソロモンの思いつきで、功罪両面がありました。主のために立派な神殿を建てたい、という動機は純粋であっても、やがて建物そのものが偶像になりかねませんし、実際、イエスがおいでになった時には建物が誇られていましたし、初代教会は、神殿を冒涜したという罪状で捕らえられたり殉教に至ったりしたのです。しかし、本来の幕屋は、キリストがおいでになることを示していました。祭壇の犠牲や「第一の幕屋」での儀式は、イエスがご自分をおささげになったことによって完了しました。イエスが、十字架に架けられて、息を引き取った時、神殿の幕が裂けたとあります。幕屋の覆い、隔ての垂れ幕が裂けたのです。

マタイ27:50しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。51すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、…

 大祭司も年に一度しか入れなかった、神との間を仕切る聖所の幕が裂けて、私たちは今イエスによって神のおられるところに近づくことが出来るのです。神殿や幕屋は、イエスの十字架によって、その役割を果たし終えたのです。しかし、幕屋のイメージは新約でも続いています。

ヨハネ1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た…[4]

 この「住まわれた」は「幕屋を張る」という言葉なのです。イエスのおいでが、私たちの間に幕屋を張って住まわれる、イエスご自身が私たちの幕屋というイメージなのです。また、

ヨハネの黙示録7:15「それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。」

21:3…「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」[5]

と幕屋のイメージで、神が私たちとともにいることが語られます。幕屋はエデンの園を振り返らせもし、将来の黙示録の描く終末にまで広がる、神がともにおられる事のシンボルです[6]。思い描いてください。イエスが来て私たちの上に幕屋を広げて、一緒に過ごそうと仰る。神は私たちといてくださる。私たちの問題や、神や自分をどう考えていようと、神は私たちとともにいたい。天の御殿や宮殿にデーンと住まうよりも、私たちとともにテント暮らしをしたい神。私たちに色々問題はあっても、神の子イエスが命を捧げて、その問題の片を付けて、私たちが幕屋の奥まで入れるようにしてくださった。そういう願いを、主イエスが来る一千五百年も前から、幕屋に託して伝えておられました。ここにも、主の贖いの物語が見事に現されています。

「主よ、幕屋において示された、あなたの臨在、罪の赦しの必要、そして将来の約束を有難うございます。あなたは私たちとともに住まうことを喜ばれ、約束してくださいました。今ここでも、主が私たちと旅を共にしてくださっています。下には永遠の腕があることに励まされ、御言葉に従い、神の民として歩ませてください。あなたの愛によって日々新しくしてください」



[1] 出エジプト記19章3~6節「モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。4『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」」

[2] 出エジプト記が、1~15章「エジプト脱出」、16~23章「律法付与」、そして24章から40章までを「幕屋建設」に当てている構造、とも読めます。この読み方ですと、32~34章の「金の子牛」の出来事さえ、「幕屋」との関係の中で見ることになります。興味深い視座です。

[3] ヘブル語「ミシュカン」の語根は「シャーカン(住む)」です。申命記34:27の「住む家」は違うヘブル語ですが、33:28「こうしてイスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉だけが穀物と新しいぶどう酒の地を満たす。天も露を滴らす。」は、シャーカンです。

[4] ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

[5] その他、ヨハネの黙示録12:12「それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。」」、13:6「獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。」、

[6] ヨハネの黙示録では、21:22-23「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」と、神殿も太陽も、神と子羊(イエス)とがおられることで無用となると言われています。それを援用すれば、「幕屋」も神がともにいますことの表現に他ならないでしょう。

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