聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

2019-07-14 15:20:47 | 聖書の物語の全体像

2019/7/14 出エジプト記20章1~17節「十のことばに生かされる 聖書の全体像20」

 聖書の物語の全体像をお話しして来て、今日は

「十のことば」

を取り上げます。神はこの世界に大きくて深いご計画を持っています。神に背いた人間を回復するために、神は一つの民族を選びました。それがアブラハムの一族であり、その子孫のイスラエルの民でした。今から三千五百年ほど前、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル人を、神は救い出してくださって、エジプトから海を渡って、約束の地へと旅立たせました。その時に与えられたのが、今日読みました「十のことば」(十戒)です[1]。この「十戒」は契約そのものと言われます。

申命記4:13主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書き記された。[2]

 二枚の石の板にかき込まれた「十のことば」がそのまま「主…の契約」と言われています。ここには、主がイスラエルの民に与えられた新しい関係、契約のエッセンスがあるのです。

 これはただの戒めや規則ではありません。「この言葉を守らなければ救われない、一つでも破れば神の怒りを買う」というような規則ではありません。何しろこの言葉が与えられたのはエジプトでの苦しみから解放された後です。エジプト軍が追いかけてきても、神は海に道を開いて、彼らを救って、エジプト軍を海に投げ込んでしまう、大いなる救出が行われた後でした。既に彼らは自由にされて、神のものとなっていたのです。ですから、2節の序文が肝心です。

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 主が先に奴隷の家から導き出してくださり、「あなたの神、主」となってくださった。この恵みの出来事が土台となって、その上で生き方が語られていきます。「人が律法を守ることが土台となって、神の恵みが約束される-人の生き方が揺らげば、神の恵みも取り上げられる」ではないのです。神の一方的な恵みによる解放が先にありました。そして、それに続く十の約束も、規則や禁止という以上に解放の言葉、驚くべき主の宣言でもあるのです。例えば、

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない

はどうでしょう。人を奴隷とする社会から連れ出された神、主。この方は、ご自分の他に神はいないと強く言われます。翻って、エジプトでは、ファラオや高官たちが神の名を借りて、イスラエルや外国人を働かせていました。その苦しみの叫びを封じ込めていました。神である主はそのようなエジプトで用いられる「神々」が無力であることを、あの葦の海の奇蹟で示しました。そして、これからもイスラエルの民の中には、ご自分以外に神があってはならないと言われます。国家や集団の指導者が、神のように振る舞って、人を奴隷のように従わせることはよく起こります。神はそのような在り方を厳重に禁じます。王や大祭司も、牧師や長老も、親や教師も、神の名を騙って人を踏みつけることが厳しく禁じられるのです。

 またこの「十の言葉」の中で一番長いのは、8節から11節の

「安息日」

です。六日は働いて、週に一度は休むことが言われます。あれをせよ、役に立て、怠けるな、より「休みなさい」が一番強調されています。それも自分が何もしない、というだけでなく、奴隷や家畜や外国人もともに休んで息をつき、解放感を味わい、神が造られた世界を全身で喜ぶ。これも、「十の言葉」の持っているメッセージが、人間社会の陥る思考やシステムを引っ繰り返す事実です。

 12節以下の

「父と母を敬え。殺してはならない」

も無条件です。エジプトでは、親子の関係にファラオの命令が介入して、生まれた子どもをナイルに捨てよと言われていました。主は、そういう関係を禁じます。父と母との関係を重んじる。勿論、父母を神だと思って従え、ではありませんが、父と母より神を敬え、とも言われません。主は親子関係に尊敬を回復させます。殺してはならない、も革命的です。日本の士農工商、インドのカースト制度、身分が低ければ、命の重みなどないも同然という中で、神は殺人を無条件に禁じました。また、

姦淫してはならない

と言われて、結婚を聖別しました。引いては、一切の性的虐待や性の商品化を禁止します。

 こうして少し考えただけでも、「十のことば」が束縛どころか、人間が本当に人間らしく生きる国を示していると分かります。ただの道徳ではなく、神が神である国、人を解放してくださる神だけが神とされる国のビジョンです。言い換えれば、これが神の契約なのです。

 「十のことば」は「してはならない」というより、元々は「○○しない」と言い切る文です。

他の神がない。
偶像を造らない。
御名をみだりに口にしない。
安息日を覚える。
父と母を敬う。
殺さない。
姦淫しない。
盗まない。
偽りの証言をしない。
隣人の家を欲しがらない

 そういう神の国の自由な生き方を神は示して下さいました。だからといって、イスラエルの民はこれに従えず、逆らいました。欲に流されて、奴隷やバベルの塔を再建するような生き方をしてしまいました。私たちも今、主の愛を戴いて、それに憧れながら、まだ見えるものに流されたり、見慣れない人や出来事に脅威を抱いたりして、恵みとは真逆の言葉を言ってしまうものです。律法が束縛なのでは無くて、罪が私たちの心も考えも縛って、神の恵みから遠ざけているのです。そういう私たちに、御言葉は正反対の生き方を照らします。ですから、ダビデは詩篇で、度々、御言葉を賛美すると言います。御言葉、つまり十戒が私を生かすと言います。

詩119:50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。

 主の言葉は、灯火、光[3]、金銀や蜂蜜[4]と歌うのです。私たちが神の戒めを守らなければならない、という以上に、神の言葉が私たちを守って、誘惑や絶望から、罪や愚かさから救い出してくれる。本来は、それが「十の言葉」という契約の祝福だったのです。

 この時から一千五百年ほど後、イエス・キリストがおいでになった頃、当時のユダヤ教社会では律法が丸きり逆の規則として扱われていました。それを守れば永遠のいのちをもらえる、という苦行やエリートだけが守れる規則だと考えられていました。ですから民衆はイエスに、律法を廃棄することを期待しました。しかしイエスはご自分が律法を「廃棄するためではなく成就するために来た」と仰いました。そして、律法の中で一番大事な戒めを問われて、

『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』[5]

 律法の肝が愛することなら、それは、救われるためにとか神に認められるためにの手段ではありえません。救いは、最初から神の一方的な恵みでした。そして、それは私たちが神を愛し、隣人を自分自身のように愛する生き方への救いでした。やがて御子イエスを地上に人として遣わす予定でした。最初から、神の契約はイエスによる新しい生き方を目標としていたのです。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。[6]

 新改訳第三版では「キリストが律法を終わらせられたので」でした。この「テロス」はゴールという意味での終わりなのです。十戒の序言が「わたしはあなたを奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主」という土台であるように、キリストは律法の目指すもの、ゴールです。イエスは私たちを愛し、ご自分のいのちをもって私たちを救ってくださいました。その恵みが目指す新しい生き方を「十のことば」や御言葉が豊かに教えてくれます。それは私たちの努力とか頭の中での作業ではありません。イエスが、私たちのうちに神の国を造り、導いて、今ここでも、神を愛し、互いに愛し合う生き方を造っておられる。そのために、私たちが御言葉を開いたり、互いに教え合ったり、失敗しては傲慢に気づかされて謙虚にさせられて、それをも包む主の恵みを戴いて、ますますイエスを仰がせてくださっている。そして、やがては必ず、神だけが神とされて、お互いが上下も嘘偽りもなく、一切妬むことのない御国を来たらせてくださる。そう信じて今ここでも、御言葉に守られて、神の国の民として歩んでいるのです。

「世界の王なる主よ。あなたが一方的な恵みによって私たちを救い、戒めによっても私たちを守って、教え諭してくださることを感謝します。あなたの恵みの力で、私たちを新しくしてください。御言葉により私たちを守り、あなただけを心から崇め、人も自分も同じように愛する心をお恵みください。私たちを通して、あなたの祝福を、希望を、この地に表してください」



[1] 聖書には「十戒」という言葉ではなく「十のことば」という表現が出て来ます。出エジプト記34:28「モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」、申命記10:4「主はそれらの板に、あの集まりの日に、山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書き記された。主はそれを私に与えられた。」

[2] 他に、申命記9:9、11「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。…11こうして四十日四十夜の終わりに、主はその二枚の石の板、すなわち契約の板を私に授けてくださった。」

[3] 詩篇119:105「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

[4] 詩篇19:10「それらは 金よりも  多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」、119:72「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります。」

[5] マタイ伝22:37-39。

[6] ローマ書10:4。

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