聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヘブル書8章1~6節「神からの祭司 聖書の全体像22」

2019-07-28 21:09:41 | 聖書の物語の全体像

2019/7/28 ヘブル書8章1~6節「神からの祭司 聖書の全体像22」

 今日のヘブル書8章で

「私たちにはこのような大祭司がおられるということです」

と言っています。これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは私たちの大祭司である。そして

よりすぐれた契約の仲介者」

である。この事から振り返ると、モーセ契約において、神が大祭司を立ててくださった事が、とても大切な出来事であったと改めて思うのです[1]。今日はモーセ契約の最後として、神がここで大祭司を立ててくださったメッセージを覚えます。

 祭司は、民を代表して神に仕え、生贄を捧げたり、主からの神託を告げたりする働きをする人です。モーセの時代まで、イスラエルに祭司はいませんでした。アブラハムやヤコブが祭司のような働きをすることはあっても、祭司と呼ばれる人はいなかったのです。祭司は人間からは立てられず、神から与えられて初めて、神と人間の間の祭司となれるのです。そして、神はモーセの兄アロンを選んで大祭司として、アロンの子孫を祭司の家系としました。神は人に祭司を送ってくださる。神と人間との間を取り持つ存在を、神の方から遣わしてくださって、私たちとの関係を回復してくださる。神との間を執り成し、「あなたの罪は赦された。あなたはきよい」と宣言してくれる祭司を立ててくれるのです[2]。キリストは、私たちの大祭司として永遠に、完全に、私たちを神に結びつけてくださいます。その1500年前に大祭司が立てられたことは、やがて完全な大祭司キリストがおいでになることの印でした。

 ですから祭司に選ばれたからと自惚れて、アロンたちが思い上がることは常に窘(たしな)められました。聖く生きる生活管理が求められ、入念な儀式の執行が求められました。一番ハッキリ書かれているのは大祭司の「祭服」です。出エジプト記28章には、大祭司の祭服について詳しく書かれています。頭にはターバン、そこには「主の聖なるもの」と書かれた札をつけていました。体には長服の上に、青い上服を着、その上に「エポデ」と呼ばれる祭司の特別な前掛けをつけ、更にイスラエルの全十二部族に因(ちな)んだ宝石を並べた胸当てを付けていました。他にも胸当てや肩当て等があり、これらは一つ一つ意味があり、栄光と美を現していました[3]

 ただし、それはこの煌(きら)びやかな服は大祭司の立派さを飾り立てるためではありません。私たちが思い描く神官や王は権力を誇示する華やかな衣装を着ますが、大祭司の場合は別です。大祭司が最初に着るのは

「ももひき」

です[4]。見えませんが、裸を覆えと言われています。人はエデンの園で神との約束を破って以来、裸を隠さなければならなりませんでした[5]。人間の罪の姿を大祭司も持っているからです。大祭司が服を着るというのは

「覆う」

という言葉です。

創世記3:21神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

とあるあの言葉です[6]。大祭司は「ももひき」から着て、自分が裸で神の前に立てないこと、神からの衣を着せて戴いて立つことを現します。また、その履き物については何も言われていませんから、裸足なのでしょう。靴を脱ぐこともまた、神の前に謙って、自分の権力、特権意識、プライドを明け渡すことを表しました。大祭司は、神と人との間を執り成す特別な役割に任命されるわけですが、祭司の儀式に特別な力があったわけではありません。大祭司が生贄を捧げるのでなしに、自分自身を神の怒りに差し出すことで執り成しを果たす事件もあります[7]。逆に生贄によっても永遠に赦されないと言われる場合もあります[8]。詩篇では、「主が喜ぶのは生贄ではなく、砕かれた心だ」と何度も明言されています[9]。大祭司こそは、最も砕かれた心、傲り高ぶらない心が求められました。民の問題や、生贄を必要とする罪に対しても、蔑みや上から目線でなく、「自分も裸では主の前に立てない、同じ罪人だ」と自覚するのが祭司でした。何より、本当の大祭司キリストが来るまでの「つなぎ」に過ぎなかったのです。

 そして本当の「大祭司キリスト」が来られました。主イエスは私たちの大祭司です。しかし、一度もあの大祭司の服は着ませんでした。反対に、イエスが大祭司だという十字架において、イエスは裸でした。上着も下着も奪われて、裸のまま死にました。それは従来の祭司としてはあり得ないことでした。しかし神の目からは、それこそ本当の生贄でした。イエスが全く罪のない、裸を隠す必要の無い、聖いお方だったからです。その方がご自分を丸ごと私たちに捧げてくださいました。隠すべき罪が全くないイエスは、最も砕かれた心、最も憐れみ深い方です。

ヘブル書2:17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

 大祭司の要件は「憐れみ深さ」です。ヘブル書では「憐れみ」が3度繰り返されて、大祭司が憐れみ深い方で、私たちは大祭司を通して憐れみを戴けることが強調されています[10]。「イエスは罪がなく聖いのなら私たちに同情できないだろう」と思いそうになっても、聖書はイエスに罪がないからこそ、私たちに深く同情して、私たちのために裸の恥も十字架の苦しみも厭わなかったと言い切るのです。イエスは、私たちを決して見下したり軽蔑したりせず、私たちを救ってくださいます。イエスは人のすべての罪をご存じの上で、人を愛し、憐れんで、救いたいと願って、ご自分を献げてくださったのです。このイエスの、ご自身を一度捧げた執り成しだけが、神が私たちの罪を赦して、再び神に結びつけ、互いを結びつける働きなのです。

 神が私たちを結び合わせてくださるのは、ご自身との関係だけではありません。すべての関係は三位一体の神がこの世界に表している神の栄光です。引力や自然法則も、食物連鎖やコミュニケーションも、神の支えなくしてはつながれません。そして、神は私たちを愛するゆえに、ご自身とだけで無く、あらゆる関係、特に人と人との関係に働かれます。今日交読した詩篇一三三篇は、たった3節ですが、都に上る巡礼で、兄弟がともにいる喜びを歌っていました。

詩篇一三三見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。それは 頭に注がれた貴い油のようだ。それは ひげに アロンのひげに流れて 衣の端にまで流れ滴る。

 「兄弟たちが一つになってともに生きる」姿が大祭司の任職で頭に注がれ「アロンのひげに流れ」る「貴い油」に重ねられています。兄弟(家族か仲間か)が一緒にいる。ともに生きる。その幸せは大祭司の任職に通じます。家族が一緒にいることさえ、決して当たり前ではありません。色んな理由で別れ別れにもなり、すれ違って顔を合わせられなくもなる。けれどもその間に、主イエスが来て立ってくださる。神はイエスを送り、イエスは聖霊を遣わし、分断の狭間に立たせてくださる。憐れみ深い神は、私たちに祭司を遣わし、罪の赦しも、和解や一つともにおる幸せもくださるのです。赦す心、謝る言葉、心を繫ぐ言葉を語らせてくださる。一三三篇は、イスラエルの民謡でも歌われますし、教会では聖餐式において読まれる詩です。実に今ここで私たちが主にある兄弟姉妹としてともに生きていること、一つ食卓を囲み、祈り合い、分かち合い、一緒に笑ったり嘆いたり楽しむことは、大祭司イエスの御霊による恵みなのです。

 神が祭司を送って、私たちを一つにしてくださる方です。私たちのために、イエスを立てて下さった。それも神々しい神官でなく、憐れみ深い大祭司として、ご自分を生贄としてくださった。お高くとまった神官が立派な祭服で自分を覆って畏まるのとは正反対に、裸で十字架に死ぬことも憎しみや恥をも厭わずに、私たちに和解を与えてくださいました。モーセ契約を通して始まった大祭司の働きを、完全な大祭司であるイエスは完成してくれました。そして、今も私たちと父なる神との橋わたしをして、永遠に大祭司として執り成していてくださいます。それが、神のご計画全体の中で、祭司たちに託された御業です。その主の業を受け取りましょう。それが更に、私たちの家族の中に、周囲の人に、働いていくことを祈りましょう。人と人との間にイエスを見ましょう。そして、自分が主の憐れみによって満たされて、砕かれた心、愛のある言葉、どこでも主にある希望を見ていくよう整えられていただきましょう。

「主が大祭司を遣わし、イエスの完全な仲裁を示してくださったことを感謝します。どうぞその執り成しの中に、赦された喜びと永遠の和解の希望を日々戴かせてください。そして私たちの間に、世界の破綻や分断に、どうぞ憐れみを注いで、和解をお与えください。裁き合い非難し合う関係から、和解を信じ将来に希望を育て合う関係へと、私たちを育んでください」[11]



[1] 聖書の全体像は、天地創造から将来の新しい天と地の完成という大きな物語です。神は、神から離れた人間にも回復を計画されて、それを様々な形で示されました。その大きな節目の一つが、モーセを通して果たされた奴隷生活からの解放と、新しい生き方です。それは、律法(十の言葉)において示されましたが、神は律法という規則だけではなく、神の住まいである「幕屋」と、幕屋に不可欠な、いけにえや捧げ物をする「祭司」も神は立ててくださいました。

[2] この事は、ヨブ記やサムエル記にも見て取れる思想です。ヨブ記19章25節以下「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。26私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。27この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」、Ⅱサムエル記12章23節以下「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。24ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。」

[3] 出エジプト記28:2「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」

[4] 同28:42「彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。」ももひきについての考察は、「牧師の書斎 亜麻布のももひき」を参照。

[5] 創世記3章。それは、十戒のすぐ後でも、祭壇を階段で作ってはならない、裸が見えないためである、と言われています。出エジプト記20章。

[6] 出エジプト記28:41「これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。」、29:5、8、30、40:13、14も同じ。参照、「イエスは大祭司 牧師の書斎」。

[7] 民数記16章48節など。

[8] Ⅰサムエル記3章14節、イザヤ書22章14節。

[9] 詩篇40篇(6節)、50篇(8~14節)、など。

[10] ヘブル2:17(既出)、4:16「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」、8:12「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[11] この大きな愛を受けた者として、私たちがこの世界に置かれています。イエスが大祭司として私たちに完全な赦しと和解を与らせ、そのことによって私たちも憐れみ深い者となる。そうした私たちの歩みを通して、周囲が主の恵みを知り、あらゆる意味で神の民は「祭司」となる使命が与えられています。イエスが憐れみ深い大祭司であるように、私たちも祭司のように、人と人とを結びつける役割を与えられています。「そうしなければならない」ということではなく、神はそもそも人間を祭司的な働きをするよう創造された、ということです。このことを、出エジプト記でも新約のペテロ書でも「祭司の王国」と読んでいます。イスラエルにはアロンが大祭司として立てられるに先立って、こう言われました。出エジプト記19:6「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」。イスラエルそのものが世界の中に「祭司の王国」として置かれたのです。他の国々にとっても神がイスラエルに罰や恐怖ではなく、赦しや回復や楽しみ、幸せを与えてくださることがメッセージとなる。そのために、イスラエルは選ばれました。この言葉は新約に引き継がれます。Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」、ヨハネの黙示録1:5~6「また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、6また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」

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