聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

出エジプト記14章21~31節「海に道が出来る 聖書の全体像19」

2019-07-07 17:14:15 | 聖書の物語の全体像

2019/7/7 出エジプト記14章21~31節「海に道が出来る 聖書の全体像19」

 今日の箇所は、モーセたちイスラエル人が

「葦の海」

に出来た道を通った奇蹟です[i]。聖書は私たちに、海の中に道を開くことも、全世界を造って支えることもなさる神を示しています。そして、その神が私たちを救い、私たちの神となることを語るのです。

 エジプトで奴隷とされていたイスラエル人の叫びを、神は聞いてくださり、モーセを遣わしてイスラエルを救い出しました。前回12章で子羊を屠って、その血を家の玄関に塗る「過越」の出来事があったことを見ました。神は、奴隷とされて苦しむ、声なき叫びを聞かれる。人が人を縛り付け、扱き使い、虐げる社会を神は終わらせ、新しく、自由で祝福に満ちた「神の民」としてくださる。四百年にわたる奴隷生活から、神の民、自由な民の歩みを下さったのです。

 ところがイスラエル人がちょうど海辺に宿営していますと、エジプト軍が来たのです。エジプトの王は惜しくなって、奴隷を連れ戻そうと追いかけてきました。前は海、後ろからはエジプトの戦車。絶体絶命と思われて、イスラエルの民はたちまちパニックになり、叫びました。

11…エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12…実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 ひどい恨み節です。オロオロ、グチグチで、希望も信仰もありません。しかしモーセは

13恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。14主があなたがたのために戦われるのだ。…

 そして主の言葉通り、モーセが手を海に伸ばすと、風が強く吹いて海の中に道が造られて、イスラエルはその中を進んで無事に渡り、エジプト人はそこで海の藻屑となるのです。

30こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

と言われます。神が自分たちを救われた大いなる御力を見たのがこの出来事でした。旧約聖書ではこの出来事が直接だけでも十四回引用されて、主への信頼を呼び覚ましています[ii]。神は力強いお方。その神が私たちの神であられる。それをハッキリと見て、彼らは主を信じたのです。次の15章は祝いと喜びに溢れた「モーセの歌」が歌われます。特に11節、

15:11主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。12あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。13あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。

 20節21節ではモーセの姉ミリアムと女たちが、一緒にタンバリンを叩き躍りながら、この歌を歌っています。本当に喜ばしく、歓喜して賛美しています。神である主は、私たちを救い出し、私たちのために闘ってくださり、私たちに喜びの歌を歌わせ踊らせてくださいます。神は絶体絶命に思える状況にも、思いがけない道を開くことが出来る。神は力強く、何一つ出来ないことのないお方。世界を造られた神は、海も人の命も治める、全能の神。聖であり輝いて、讃えられ恐れられ、奇しい業を行われる。贖われた民を、恵みをもって導き、御力で必ずご自分の住まいに伴ってくださる。どんな力にも妨げられることなく私たちを救い出して、ご自身のものとして贖われた私たちを導き、神の住まいに入れてくださる。また、その神を侮って、神に成り代わって振る舞おうとするどんな人や国や勢力も、決してこの神に勝つことは出来ない。人を虐げて神のように支配しようとする権力者、有力者、国の王や戦車や軍隊の力をも打ち負かす方です。葦の海の奇蹟は、神が私たちを必ず守り、奴隷や苦しみ、人が人として扱われない状態から救い出してくださるという希望を与えます。こうして、イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活を後にして、神の民として新しい生活へ、旅立っていったのですね。

 そう、「葦の海」の奇蹟は、ただ「神様には何でも出来る」という以上に旅の始まりでした。神が人を新しい歩み、神と共に歩む旅へと旅立たせた始まりでした。そんな力があるなら、わざわざ海を通らずに、エジプト軍をやっつけることが出来たとしても、神はイスラエルの民に海へと進ませられたのです。海は古代世界では、人を飲み込んでしまう恐ろしく強いもの、死をも象徴する場所でした。そこに出来た道を通ることには、並大抵でない勇気がいる踏み出しだったはずです。「どうせなら、海なんか通らない方法で助けよう。危険を取り除いて、慣れ親しんだエジプトに帰らせてあげてもいいな」とは神は考えませんでした。神は、道があるなどと思わない海に道を造って、そこを通らせます。慣れ親しんだ生活に背を向けて、新しい生活に進ませるのです。そうして始まった出エジプトの旅でした。そして、これは始まりに過ぎませんでした。この奇蹟でイスラエルの生き方や心がすっかり変わったわけではありません。この華々しく力強い大奇跡や、15章で喜び歌い踊った熱意は、直ぐ後で冷めていきます。

詩篇106:13しかし 彼らはすぐに みわざを忘れ 主のさとしを待ち望まなかった。

 「エジプトに帰りたい、昔は良かった、出て来なければ良かったのに」と言い続けるこの後、神の民としての生き方を十戒で示されても、彼らの生き方は変わりません。やがて、主よりも、富や繁栄や神殿を神として、弱者や外国人を顧みない国を造っていきます。人の心根は、どんな奇蹟や大きな体験によっても変わらない。でも神は、エジプトで禍を起こし、ファラオの心を頑なにもし、葦の海をも開く力ある神は、確かに民の心の中に働いてくださり、人を変えてくださる。長い旅路をずっとともにしてくださり、じっくり人に関わり、心に働きかけ、人を新しくなさるのです。神は、人間が造り上げた奴隷社会からも、人間の心の様々な偶像崇拝からも、私たちを引き出されます。行き詰まった状況を変えたり、起死回生の解決を見せたりする以上に、新しい道に踏み出す勇気、神を信頼して今までの在り方を手放す潔さも、人や私自身の心に与えてくださるお方です。私たちを変えて、神ならぬものを神とする生き方や、変化を受け入れない心を柔らかくしてくださる。人間が考えもしない意味で「全能の神」なのです。

 過越が十字架の予告であるように、「葦の海」は復活の予告です。全能の神であるイエスは、ご自分の十字架によって、すべての悪や支配を終わらせました[iii]。でも、キリストは死なずに勝利するのではなく、死や辱めや苦しみをも引き受けました。主は、全能の力で問題を解決して、華々しい勝利を収める、という道ではなく、死や苦難、絶望の中に道を開くことで、全能の御力を現される、不思議なお方です[iv]。私たちはこのキリストに結ばれて、新しい生き方、新しい旅路を進み、私たちの心や生き方を、神の恵みによって新しくされていくのです[v]

 パウロはこの葦の海の出来事を「洗礼」と重ねています[vi]。洗礼の水は、葦の海を思い起こさせ、イエスが死に踏み出した事実とも重なって、私たちも神の招きに飛び込んだ旅路にあることを現すのです。神は、しばしば人の生活を安泰にするよりも、死や八方塞がりな状況に置かれます。でもそこに、神は人が考えるよりも、遥かに大きく、尊い命を用意されています。そうして、私たちの心の奥深くに触れてくださいます。真実な主が、道なき所にも脱出の道を備えておられる。私たちのために戦って、人を奴隷や足蹴(あしげ)にする社会を引っ繰り返される[vii]。私たちがオタオタし、神に不信仰な言葉を吐いても、神は力強く導いてくださる。私たちはそう信じ、そして踏み出すのです。「葦の海」は上辺の大奇跡以上に、イエスの復活の予告です。その復活の命によって、神が私たちを生かしてくださっているのです。

「主よ。海に道を開き、私たちのための道となってくださった御力を賛美します。解放の喜びと、歌い踊る賛美を下さる御心を感謝します。今はそれが信じがたく、道が見えない思いをし、疑い叫ぶ思いをもあなたは聴き、知ってくださる憐れみも有難うございます。主の聖晩餐に与ります。どうぞ、私たちを主のいのちによって養い、今ここで神の民として歩ませてください」



[i] 以前は「紅海」とされて、出エジプトをテーマにした映画でも大きな紅海が舞台に描かれますが、今では、もっと小さな「葦の海」だろうと考えられています。とはいえ、それでこの奇跡が説明できるわけではありません。いずれにせよ、神の大いなる御力を現した一大事なのです。

[ii] 出エジプト14、15章以外に、民数記33:8「ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。」、ヨシュア4:23「あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。」、ネヘミヤ9:11「あなたは私たちの先祖の前で海を裂き、彼らは海の真ん中の乾いた地面を渡りました。追っ手は、奔流に吞み込まれる石のように、あなたが海の深みに投げ込まれました。」、詩篇66:6「神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ 私たちは神にあって喜ぼう。」、77:19「あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。」、78:13「海を分けて 彼らを通らせ 堰のように水を立てられた。」、78:53「神が安らかに導かれたので 彼らは恐れなかった。しかし彼らの敵は 海がおおい隠した。」、106:8「しかし主は 御名のゆえに 彼らを救われた。ご自分の力を知らせるために。主が葦の海を叱ると 海は干上がり 主は彼らに深みの底を歩かせられた。 まるで荒野を行くように。10主は 憎む者の手から彼らを救い 敵の手から彼らを贖われた。11水は彼らの敵を包み 彼らの一人さえも残らなかった。」、114:3「海は見て逃げ去り ヨルダン川は引き返した。」、136:13「葦の海を二つに分けられた方に感謝せよ。 主の恵みはとこしえまで。14こうして 主はイスラエルにその中を通らせた。 主の恵みはとこしえまで。15ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。 主の恵みはとこしえまで。」、イザヤ10:26「オレブの岩でミディアンを打ったときのように、万軍の主が彼にむちを振り上げる。杖を海にかざして、エジプトにしたようにそれを上げる。」、43:16「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、17戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、灯芯のように消え失せる。」、51:10「海を、大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々が通るようにしたのは、あなたではないか。」、63:12「その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、」。以上旧約。この他、新約ではⅠコリント10:1「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。」、ヘブル11:29「信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」で直接言及されています。また、ヨシュア3:16のヨルダン渡河、Ⅱ列王2:8は、このアレンジ。

[iii] コロサイ2章12節以下「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。13背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、14私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。15そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」

[iv] 全世界を造り支えて、海を分け軍隊も滅ぼせる方が、人となる道を選びました。神と人との間の、道などないところに、自らが道となって来られました。病を癒やし、死者をよみがえらせた方が、疎外された人と一緒に疎外され、冒涜者の汚名を着せられ、犯罪者と一緒に十字架に付けられました。もっと他の道だっていくらでも創造できたでしょうに、全能のイエスは、すべてを手放して、死に踏み込まれました。ご自分を全く惜しまず私たちに与えて神の愛を示し、罪の赦しを宣言し、すべての悪や支配を終わらせ、私たちとともにいると約束されました。

[v] 聖書は、この世界を造られた神が、今もこの世界に良い計画を持っておられ、必ずそれを完成させてくださる、という物語を語ります。私たちもそこに招かれています。それが見えなくて絶望する時も、私たちのために戦われる神、海に道を開く神、正義へと続く旅を導く神なのです。

[vi] Ⅰコリント書10章1節以下「10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。…13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

[vii] アモス5章24節「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」、また、ヨハネの黙示録15章3節4節の「モーセの歌」は、出エジプト記15章11節を踏まえて、黙示録の描く終末的な悪の支配者への勝利を歌っています。「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。4主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。」

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