聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/29 マタイ伝13章24~30節「早まらず、時を待つ」

2020-11-28 11:15:17 | マタイの福音書講解
2020/11/29 マタイ伝13章24~30節「早まらず、時を待つ」[1]

前  奏 
招  詞  ヨハネの福音書3章16節
祈  祷
賛  美  讃美歌94「久しく待ちにし」①②
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  イザヤ書11章(36)
 賛  美  讃美歌97「朝日は昇りて」①②
聖  書  マタイの福音書13章24~30節
説  教  「早まらず時を待つ」古川和男牧師
賛  美  讃美歌113「御空を馳せゆく」①④
献  金
感謝祈祷
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌542「世を挙りて」
*祝  祷
*後  奏

 今日のたとえは、36~43節で「畑の毒麦のたとえ」として解説されています。37節以下に、
…良い種を蒔く人は人の子です。38畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。39毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
 このように親切に、丁寧に解説してくれています。これで譬えの意味に迷う必要はなくなります。ただし、譬えに出てくるのに説明されていないものがあります。それは「しもべ」です。
 畑に良い種を主人が蒔いたのを知っているしもべ、主人と一緒に働いて、昼は畑も家も管理してきたしもべたち。畑に毒麦が現れた時、首をひねったり憤慨したりして、主人の所に行き、
27…『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』
 こう訝(いぶか)って説明を求めるしもべたちが何を表しているかと言えば、イエスに説明を求めた弟子たちでしょう。主イエスの働きを一番近くで見てきた弟子たちです。その働きを見ながら、蒔いた覚えの無いドクムギが出始めている。41節で言えば
「つまずきと不法」
が起きてくる。
 勿論、主人やしもべが日中は畑を管理し世話していたように、主も弟子を教えたり窘(たしな)めたり、訓練して、躓きや不法を除こうとされていました。教会もその責任はあります[2]。それでも、なお教会にも問題が起きます。躓かせるような事はどうしても起きる[3]。
「良い種を蒔かれたなら、真面目に働いてきたなら、毒麦が生え、問題なんか起きないはずだ」
と言いたくても、「どうして?」という出来事は起こる。このしもべたちは弟子たちの姿であり、私たちも重なる姿です[4]。
 このしもべの疑問に、主人はしれっとこう答えます。
28…『敵がしたことだ。』…
 冷静で慌てません[5]。ちゃんと計算済みと余裕で、収穫への期待はちっとも揺らぎません。すると、
28…しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』29しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
 早まらず、収穫の時を待つよう言われるのです。
 「毒麦」は新約聖書でここだけに出てくる植物です。その名の通り、実には毒性がありますが、実をつけるまでは麦とよく似ていて間違いのだそうです。根も麦と絡んでいるので、毒麦を抜こうとしたら、麦も犠牲になってしまう[6]。畑の主人はそれを惜しみます。ここで「毒麦」は複数形ですが、「麦」は単数形で、多くの毒麦を抜こうとして良い麦を一本でも一緒に抜くことを惜しむ心が窺えます。それより、
30だから、収穫の時まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」
 収穫の時には、良い麦と毒麦の違いは一目瞭然なのです。実の形が違いますし、小麦はたわわに実るので重くなって穂がしな垂れるのです。真っ直ぐに穂を立てるものを見れば、毒麦だと分かるのです。ですから収穫の時に、まず真っ直ぐに立っている毒麦を刈り取って集めて焼き、麦の穂を拾い集めて、倉に納めればよい。

 収穫は、敵の邪魔や毒麦の混入が避けられないとしても、少しも損なわれることが無い。神の国は、そのような力に溢れたものなのです!
 その事を強調するのに、31節から
 「小さいからし種が大きな木となる」
譬え、33節で
「パン種が40kgの小麦粉を膨らませる」
譬えが続きます。神の国が持っている豊かな生命力を思い描かせてくださいます。その上で、36節から毒麦の譬えの説明がされる流れなのです[7]。

 この譬えの焦点は、主の刈り入れを信じて、今、毒麦が出たり躓きや問題に悩まされたりしても、それを抜き取ろうと早まらないこと。聖書の描く世界の理想ばかりに目を奪われると、その理想と違う現実に私たちは心が囚われてしまいます。この譬えの説明を聞いたら聞いたで、「あの人はきっと毒麦だ」とか「敵の仕業だ」と決めつけたくなります。そうして毒麦を抜こうとして、他の良い麦まで傷つけてしまう。周りの誰か一人を巻き添えにすることは、主の御心ではない。そうしもべたちの早合点を主人は引き留めた、という譬えでした。それよりも
 「両方とも育つままにしておきなさい」。
 よい種を育てなさい、それが毒麦まで育てるとしても、神の国の栄養でたっぷり育てなさい。みことばの糧を与えて、天の父のあわれみを味わわせなさい。やがて良い麦は良い実を豊かに結ぶ[8]。穂が撓(たわ)む程の実りになる。天の父への賛美と感謝が大きくなり、撓(しな)っていきます。謙るというのは「私は毒麦のような者です」と謙遜するよりも「すべては大いなる主の恵みです」と主を褒め称えることです[9]。それは人目には隠れても、確かに御国の実りになり、私たちを謙らせてくれ、やがて刈り取りの時には、
43そのとき、正しい人たち[神との関係をいただいている人たち]は彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

 躓きに心が痛くて、収穫なんか無理じゃないか、神様の良いご計画が台無しではないか、いっそ強引に抜いた方がいいのではないか、と思いたくなる時、この譬えに立ち帰りましょう[10]。やがて、すべての躓きが取り除かれ、神の子らは太陽のように輝く。その中に、誰かが「毒麦に違いない」と思った人も主は含めているでしょうし、私たちも含めてくださるのです。

私の霊は私の救い主である神をたたえます。
この卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ご覧ください。
今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。(マリアの賛歌)[11]
 
「大いなる主よ、種を蒔き、刈り入れを備え、私たちに大きなことをしてくださる御業を感謝します。私たちの理想や疑いを、あなたの恵みによって塗り替えてください。いのちのみことばによって私たちを養い、恵みに気づかせ、感謝と賛美の実を結ばせてください。躓きや問題に悩む時、知恵と忍耐を与えてください。さばき合い、退け合い、傷つけてしまう愚かさから救い出してください。あなたの恵みの中で、私たちを育ててください」

脚注:

[1] 今回も、前回に続いて、バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』第五章「毒麦とともに生きることを学ぶ」を大いに参照しています。

[2] しもべたちは畑を手入れし、ドクムギを意外・心外な出来事として憤慨している。教会戒規の不要では無く、戒規を行ってなお問題が起こる、という現実のこと。

[3] マタイ18章では「つまずきが起こることは避けられません(7節)」というテーマが論じられています。

[4] 教会が純粋であろうとしすぎて、教会は純粋であるはずだと思いすぎて、不純物を受け入れられない。そういう純粋な願いは、今もあるし、マタイの時代にもあった。初代教会は理想的だった、などという思い込みは聖書からも優しく反駁される。

[5] これは以前の訳では「敵のしわざです」となっていました。「しわざ」なんて言われたら、何かいかにも「やられた!」とか非難めいていて、悔しげで、憎たらしい感じがします。もっと淡々とした台詞ですので「敵がしたことだ」と改善したのでしょう。

[6] 「聖書で「毒麦」はマタイ13:25-40に9回出てくる。ドクムギは4000年前のエジプトの墓から発見されているが、旧約聖書には述べられていない。草丈70cmくらいの植物で、線形の歯は10~30cmある。5月頃15~25cmの穂を生じ、小穂は15~18cmで、花穂の軸の左右に互生する。雄しべは3本で、花柱は短く、実にテムレンtemulen という有毒アルカロイドを含む。これを食すると、頭痛、めまい、悪心、嘔吐などを起こし、重症の時には虚脱症状を起こして死亡することもある。また牧草に混入すると家畜が中毒する。一説によると、この毒は、ドクムギ自体ではなく、Emdoconidium temulentumという菌がドクムギについて毒化するといわれている。種子が発芽する時期も、実がつくときもコムギと同じなので、コムギと一緒に刈り取られ、コムギの品質を低下させることがある。イエスがガリラヤの麦畑を通られた時に、このドクムギもコムギと共に見られたことであろう。一緒に芽が出て、同じように育つが、実るとコムギと全く異なる。収穫の時にドクムギを先に集めてしまえば、良い麦を損なうこともない。パレスチナの農夫は雨の多い時にはコムギがドクムギに変わると信じていたようである。ドクムギの発芽能力は数年間保たれるようである。そこで、ドクムギの種が地に落ちても雨の少ない年には発芽率が少ない。しかし、発芽しなかったものも雨の多い年にまとめて発芽する。このように考えると雨の多い年にドクムギが多いことも納得できる。」廣部千恵子『新聖書植物図鑑』(教文館、1999年)92~93頁。他、Wikipediaも参照。

[7] ここでは、毒麦が集められるように世の終わりには「すべてのつまずきと不法を行う者たち」が御国から取り集められて、火の燃える炉に投げ込まれる事が詳しく述べられます。こちらを重視してしまうと、さばきに目が奪われますが、たとえこそが「世界の基が据えられたときから隠されていること」(35節)だったとすれば、そのバランスの中で、説明を読んだ方がよいでしょう。

[8] 実を結べ、ではなく、育てば実を結ぶ。実を結ぶことを「花を咲かせる」と思っていることもあるだろうが、目立つものこそ真っ先に抜かれるのかもしれない。花を咲かせるより、育つこと。その結果、実が結ばれる。そのようなあり方こそ、「太陽のように輝く」。この世界や人間的な「輝き」ではなく、神の恵みに生かされ、この世では評価されなかったとしても(証しになることが出来ない、と見なされるとしても)、神の収穫の時には確かに刈り入れられ、倉に収められる、ということがあるのだ。

[9] 背伸びすることよりも、養われること。みことばに養われ、自分として育てられる。誰かのように実を実らせられなくても、自分の実を結ぶことになるのです。

[10] 私たちは理想を願うあまり、問題を多少強引にでも、乱暴にでも解決しよう、少々の犠牲はやむを得ない、と思ってしまう。しかし、それこそ敵の思う壺ではないか。ドクムギを蒔いたのは、ドクムギを生やすためというより、しもべたちを苛立たせて、ドクムギごと本当の麦を抜かせようと企んだのでは無いか。

[11] 「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」(マリアの賛歌) 「「私の魂は主をあがめる」が直訳的には「私の心の中に主を大きくする」ことだと申しました。ですから、神様に近づくために自らへりくだる、あるいは謙遜になることを信仰的美徳とするとすれば、それは神様を大きくするよりも、むしろ、自分のあり方を主張することで心の中で神様を小さくしていることになるだろうと思います。それがルターの指摘した当時のフミリタス理解の誤りであります。そうではなくて、神様の前に見ばえのしないものであることが本当に自覚されるところで、逆に心の中で神様を大きくするということになる訳でしょうから、それこそが神様の目にとまる、あるいは神様のリスペクトを受けることを可能にするのだということではないかと思います。」 宮庄哲夫 見ばえのしないもの 同志社奨励

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