聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

2020-12-12 12:08:34 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/13 エペソ1章20~21節「キリストは今どこに?」ニュー・シティ・カテキズム48

 クリスマスが来週に近づきました。イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするクリスマスは、教会にとって大きな喜びです。クリスマスまでの四回の日曜日、アドベント、日本語で「待降節」と呼ぶ時期を過ごしています。「待降」、降るのを待つと書きます。クリスマスは「降誕」。キリストが、天から地上に降ってきて、誕生してくださった日。その降誕を待つので「待降節」です。そして、そこにはもう一つの意味があります。それは、もう一度キリストが降ってこられることを待つ、という「待降」です。今から二千年ほど前、キリストがお生まれになりました。でも、その昔々の歴史を思い出し、懐かしんでいるのではなく、もう一度、キリストがおいでになる。その時を私たちは待ち望んでいるのです。今日は、二千年前にお生まれになったキリストが、今どこにいるかを覚えます。そうすることで、クリスマスのお祝いも、本当に私たちにとって嬉しい事だと、喜ぶ気持ちがぐーんと大きくなって欲しいのです。

問49 キリストは今どこにおられますか? 
答 キリストは死んで後、3日目に肉体を持って墓からよみがえり、父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。

 今から二千年前に、地上にお生まれになったキリストは、その後、30歳頃に三年ほど神の国を宣べ伝えて、捕らえられ、十字架に殺されました。その三日目に、墓からよみがえって、天に上られました。それは、天の父の右の座に着かれるためでした。右の座というのは、神と共に治めている、ということです。ここにあるように「御国を統べ治め、私たちのために執り成して下さっています」ということです。
エペソ1:20~21「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」

 イエス・キリストは今、目には見えません。クリスマスのお祝いも、今ではキリスト抜きの、ただのお祝いです。教会やキリスト教と関係なく、パーティをしたり、プレゼントを期待したり、盛り上がっています。お寺や神社でも、クリスマス会をしています。クリスマスがキリストの誕生のお祝いだというのは、最初だけで、今は別に関係ない、と思われているのでしょう。けれども、教会は、キリストが天上で神の右の座に着かせられている、すべての名の上に高く置かれていると信じています。目には見えなくても、イエスこそが、世界の治めるお方、王なのです。
 主イエスがお生まれになることは、主イエスがおいでになる何百年も前から、旧約聖書の中で約束されていました。救い主であり王である方が来られること、ダビデの家系から生まれること、ひとりの赤ん坊としてお生まれになること、ベツレヘムでお生まれになること、そして、主イエスの御生涯、十字架の死、復活についても沢山の預言があり、その多くが既に成就しました。この絵は、聖書の創世記から黙示録までを並べていったとき、そこにあった旧約の約束(預言)とそれが成就した新約の箇所を結びつけた図だそうです。

 天地を創造された神の大きなご計画は、黙示録の、この天地の終わりに至るまで見事に、美しく成就していきます。この世界を、神の作られた世界として完成なさるのです。その約束と成就が、美しいアーチを、まるで虹のように描いています。神が王である世界で、父と共に治められる王、主イエスの御降誕と十字架の死と復活は、その中でも中心となる御業です。そのたくさんある旧約聖書の預言の中でも、最も多く新約聖書に引用されているのが、詩篇の110篇1節のこの言葉です。
主は 私の主に言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」
 この言葉が、主イエスにおいて成就した。イエス・キリストは、十字架に死んで、よみがえって、今は天に上げられて、神の右の座についておられる。目には見えなくても、主イエスが私たちを治めて、敵や悪の支配を踏みつけてくださる。今、イエスが、この世界を治める王座の右におられる。これを、最も大きな告白の一つとしたのです。
 もちろん、戦争、暴力や悲劇はあります。自然災害や、ウイルスの蔓延で世界が大きく混乱している今のようなこともありますし、これからもどんなことが起こるか分かりません。今年は特にそのことを痛感している一年ですね。神がいるなら、どうしてこんなことがあるんだろう。イエスが敵を踏みつけているなら、どうして悲しいこと、苦しいことがあるんだろう、と言う声も多くあります。悪の方が好き放題しているようです。

 それでも、私たちは、主イエスが治めていることを信じます。主イエスご自身の生涯は、貧しく低い始まりでした。悪い王様に命を狙われ、権力者に憎まれ、最後は、歪められた裁判で、残酷な十字架につけられる死でした。悪が買ったように見えました。イエスご自身が、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばれました。本当に、神に見捨てられたように思える時もあることを、主イエスは誰よりもご存じです。でも、その死は主イエスの敗北ではなく、神の御業でした。人の苦しみや悪の挑発をとことんまで受けて、なおイエスは神を見上げていました。そのイエスを天の父はよみがえらせて、ご自分の右に着かせてくださいました。

 今の世界の、苦しみも疑問も、イエスは知っておられます。誰よりも、苦しみや疑いを味わって知っているイエスが、今、天の右の座で、治めておられます。その良い支配を私たちは信じて、自分たちに出来ることをしていきます。この世界が良くなっていくよう、悪がなくなるよう責任を与えられています。でも、十分に最善を尽くせなくても、その私たちのため、
キリストは…父の右の座に着き、再び来られて、全世界を裁いて新しくされるまで、御国を統べ治め、私たちのためにとりなしてくださっています。
と信じるのです。このイエスの支配と取りなしを信じつつ、イエスが再び来られる時を待ち望んでいる。それが、クリスマスを前に心を向ける、もう一つの待望です。

「復活の主、昇天の主よ。この地上にはおられなくとも、あなたは天の御座から私たちを治めていてくださいます。すべての権威と力はあなたにあります。あなたの御名にまさる名はありません。どうか終わりの日に私たちをよみがえらせ、あなたの御国でともに住まわせてください。アーメン」
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