聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ダニエル書三章「四人目がいる」池戸キリスト教会説教

2017-05-28 18:26:12 | 聖書

2017/5/28 ダニエル書三章「四人目がいる」池戸キリスト教会説教[1]

1.金の像を拝め

 バビロンの王ネブカデネザルが巨大な金の像を立てました[2]。宗教はいつも権力の道具として利用され創り出されます。ネブカデネザルも求心力を強めるために、金の像を造りました[3]。著名人を集め、大オーケストラを集めて、炎の炉までこしらえて、権力を誇示しました。現代でも、万博やオリンピック、超高層ビルや宇宙開発などなど、驚くほど大きいものを造って、自分たちの力を誇示しよう、後代に名を残そうという傾向は変わりません。自慢が好きで、大口を叩きたがり、すぐにお金の話になるという、端からは滑稽にしか見えないパターンです。ここバビロンでもまた同じエピソードが一つ増えただけです[4]

 しかし、そんなものに圧倒されず、金の像の前に膝を屈めなかった若者が三人いました。密告されても、13節から15節で王直々に礼拝を命じられても、彼らは態度を変えません[5]

16…「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

17もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

18しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 こう短く言い切って、自分たちの神に対する忠実を貫きます。「貫く」といってもそこには生真面目さや頑固さというよりも自由さがあります。肩肘張って「偶像崇拝は罪だから」といきり立ったり、説明や説得をしたりせず、私たちの仕える神ではない神には仕えません、金の像は拝みません、と短く答える余裕があります。アンデルセンの「裸の王様」では、大人たちが王さまのご機嫌を損ねまいとする中、子どもが「王さまは裸だ」と叫びました。この若者たちは子どものようです。自由で恐れず率直です[6]。彼らが炉の中で、炎で死ぬどころか、縛られていたはずの縄を解かれて歩いていたというのは象徴的です。その後も、彼らは王の言葉に素直に従って出て来ます。「これで思い知ったか」とも言わず、このチャンスに伝道しよう悔い改めを説こう、何かを要求しようともしません。そんなことを考えないからこそ、彼らは自由にあれたのかもしれません。その後も今まで通り、自分の職務を淡々と果たしたようです。

 初代教会がローマ帝国の迫害期にあった姿と重なります。面だって信仰を表明することが危険な時、伝道など出来ない中、彼らの喜び、他者に対する憐れみ、病人や子どもに対する態度が周囲にキリストの香りを放ちました。それで信仰を疑われて密告された場合は、死をも恐れずに信仰を守りました。その自由な態度こそが、史上どの時代よりも多くのキリスト者を生み出して、やがてはローマの迫害を止めさせ、国教として認めさせるに至りました。しかし彼らは決してそのようにしたいと思ってはいませんでした。そのような影響力を行使したいという野心から自由だったからこそ、彼らの存在は地の塩となったのです。

2.ネブカデネザルの本心

 対するネブカデネザルはどうでしょうか。バビロンの王として巨大な帝国を治め、金の像を造り、諸州の有力者を平伏させ、逆らう者は殺すほどの権限がありました。しかしそれに従わないたった三人の若者の振る舞いに、彼の目論見はすべて泡と消えてしまいました。彼は怒り狂い、顔つきも変わり、火を七倍熱くせよという無茶で無意味な命令をわめき散らします[7]

ダニエル三24そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に言った。「王さま。そのとおりでございます。」

25すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」

 こうしてネブカデネザルは三人に出て来るように言って、彼らが出て来ると彼らは全く火の害を受けず、髪の毛は焦げもせず、上着は臭いさえしなかった。ネブカデネザル王は、三人の仕える神を侮る者は、手足を切り離し、その家をゴミとする、と宣言します。でも、自分の愚かさは棚に上げていますね。三人を褒めそやし、この神を礼拝させようと健気ですが、しかしそれさえも舌先三寸に過ぎず、また四章では高ぶってしまうのです。そもそも王が、巨大な金の像を造って拝ませよう、脅してでも平伏させようとしたこと自体が、王の問題を暴露しています。歴史に残る帝国を造っても心は満ち足りません。人々の生殺与奪の権を握ったようで、実はそうではなく、彼は自分の心さえ治めることが出来ていませんでした。彼は惨めで、渇いて、為す術を知りませんでした。心は深い闇に囚われて、自分を見失っていました。神は三人の若者の存在でネブカデネザルの本心を浮き彫りにされ、彼に迫られました。

 三人の若者が拝んだ神、私たちもここで礼拝する、生ける本当の主なるお方は、ネブカデネザルのなろうとしたような王とは全く違います。力尽くで拝ませ、拝まなければ怒り、地獄に落とす方ではなく、私たちを虚しいものを追い求める心や生き方をあぶり出しながら、本当に自由で伸びやかで、喜びに満ちた生き方へと導かれます。背伸びをしたり何かで心を見たそうとしたりする渇いた生き方から、神の恵みを知る故に自由で、淡々と他者に仕える生き方へと導いてくださいます。王が怒ろうと国家が命じようと、燃える火があろうと、何にも阻まれることなく、いやその最悪な状況さえ神は用いることがお出来になるのです。

3.四人目の存在

 三人の若者は「神は火の燃える炉から私たちを救い出すことが出来ます。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えません」と言いました。でも、実際には彼らが予想もしない展開でした。火の燃える炉の中にあって、神の子のような四人目がともにおられて、三人と一緒に歩いていたのです。炉に投げ込まるか助かるか、ではなく、炉に投げ込まれて、そこにも神がともにおられた、という展開になったのです。その四人目も、最後に

「神々の子のようだ」

と言われるだけで、派手に火を消したり、火の中から神々しく現れたりはしませんでした。金の像を破壊したり、逆に天から火を振らせて三人以外を焼き殺すことも出来たでしょうに、そうはしません。ただ、四人目として一瞬いて、消えたお方です。でも裏を返せば、目には見えなくとも、いつも神がこの三人とともにおられた、ということです。目には見えなくとも、私たちの予想通りにならなくても、いつも神は私たちとともにおられるのです[8]

 今も神以外のものを拝むよう強いられる戦いがあります[9]。でもそのような難しい課題を厭い、最初から逃げ出せとは聖書は言いません。悩みを抱え、迷いつつ、ここにともにおられる神を信じる者として生き、人と関わり、ノーをノーと言う自由を、聖書から教えられます。私たち自身、神ならぬものを神のごとく崇めたり、背伸びをし、人の賞賛を求めたりしやすい者です。怒りっぽさや操作的な言葉、また信仰的に見えて、実は妄想を握りしめている者なのです[10]。そんな現実に神は働き、人が心から変わるよう、長いスパンで関わり続け、偶像を砕かれる方です。それは主イエス・キリストのご生涯に最も明らかです。イエスは、裸の王様のごとき振る舞いをする人間を笑ったり滅ぼしたりせず、むしろ、ご自身が裸にされて殺されることを厭わずに私たちの所に来られました。イエスは見えなくとも私たちとともにおられます。人の予想もしない形でともにおられ、悲しみや禍を通して導かれ、神の恵みを現されます。この神を私たちが知り、このお姿を学ぶ時、迫害に屈するかどうか以上に大きな視点で、毎日を、また目の前にいる一人一人を、見ることが出来るようになるのです。[11]

「全能の主よ。あなたを知らずに虚栄を求め、実に不自由で脆い生き方を繰り返す人間に、あなた様は長く働き続け、あなた様へと立ち戻らせてくださいます。幼子のように神を礼拝し、信頼する信仰へと私たちもお導きください。私たちのため十字架の死も厭わなかったイエスを知り、それ以外の一切からも自由にされ、あなたの愛する一人一人を愛し、尊ばせてください」



[1] こうした特別な機会でお話しする時は、なるべく旧約の有名な逸話を改めてご一緒に読むようにしています。このダニエル書三章の「金の像と燃える炉」の話は教会学校でもドキドキしながら聞いた話しでしょう。私たちが同じような立場に置かれる事はないことを願いますが、そうだとしても、この物語が光となって助けになるような読み方をしていられたらと幸いです。

[2] 「高さ六〇キュビト、幅六キュビト」は単純計算すれば、三〇メートル×三メートルとなります。しかし、バビロンは六進法(エジプトは一〇進法)だったことを考えると、厳密な数字というよりも「何十メートルもある」ぐらいに理解してもよいのかもしれません。

[3] ネブカデネザルは、エルサレムの国も支配下に治めて全盛期にありました。広い諸国を統一するために、宗教を利用しようとしたのは、多くの国々の発想です。

[4] そういう大風呂敷が好きな愚かさを嘲笑うかのように、2節の「太守、長官、総督、参技官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官」というリストは二回(2、3節)、5節の「角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音」という楽器のリストは四回も繰り返されています(5、7、10、15節)。27節には「太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、」と短いバージョンが出て来ますが、これもシャデラクたち三人の出来事を経て、もはやあのお歴々たちのリストを繰り返す虚しさにきづいたかのような印象を与えます。

[5] 錚々たるリストや金の像、またそれを拝まなければ投げ入れられるという火の燃える炉まで目にしながらも、怯まなかったのです。彼らにとっては、目の前にある圧倒的なリアリティよりも、目には見えない主の臨在の方が確かなリアリティでした。

[6] 実際にそんなことがあれば、その子どもはたちどころに捕らえられ、殺されるでしょう。この三人の若者は、殺されることも恐れずに、童心を失わず、本当のことを言う自由な人たちでした。

[7] 勿論、七倍とは温度の数字を七倍(例えば500度を3500度に)という意味ではありません。それは不可能ですし、測りようがありません。燃料を七倍、もしくは限界まで投与せよ、ということでしょう。そういう表現自体が、王が正気を失った激怒の状態にあることを示しています。

[8] この「四人目」が誰か、この時点では後のイエス・キリストだとまでは言う必要はないでしょう。しかし、後に来られたイエスは、確かに神が私たちとともにおられることをそのまま現してくださいました。世の終わりまでいつも私たちとともにおられると言われました。

[9] 今年上映された映画「沈黙」でもあったように、それは簡単に答が出ない複雑な問題です。単純に世界から身を引けば簡単でしょうが、それもまた、聖書が取っている生き方ではないのです。いやむしろ、このややこしい世界の中で、ともに苦しみ悩みつつ、神を信頼し、御言葉に従う生き方をするのが、キリスト者への招きです。

[10] この三人の友人が、バビロンに居た事自体、ユダの堕落の結果でした。神ならぬものを拝み続けた結果、神は遂にユダの罪を裁かれて、エルサレムを滅ぼされ、バビロンに屈服させられて、ダニエルと三人の若者たちもバビロンに来たのです。しかし、神はそれでも彼らを滅ぼさず、そこにともにいてくださいました。不真実な民をも見捨てることなく、そこで火の中にともにいてくださいました。

[11] そう信じてこそ、ダニエル書三章は私たちに希望や勇気をもたらしてくれるエピソードとなるのです。

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