聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/9/26 オバデヤ書12-18節「人の災難を喜ぶな 一書説教 オバデヤ書」

2021-09-25 12:28:54 | 一書説教
2021/9/26 オバデヤ書12-18節「人の災難を喜ぶな 一書説教 オバデヤ書」[1]

 旧約聖書で最も短いオバデヤ書です。新約のピレモン書が一番短く、ヨハネの手紙第一と第二も「章がない」書ですが、旧約で節だけなほど短いのはオバデヤ書だけです。オバデヤという人も不明です[2]。宛先は「エドム人」で、エルサレムが踏みにじられた後のことです。
10おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえを覆い、おまえは永遠に断たれる。
 エドム人が兄弟の災難の日に喜んでいることを非難するのです。でも、これがいつの災難なのかは、バビロンがエルサレムを陥落した紀元前六百年前後とするほか、いくつか候補があります[3]。この二頁少しの、イスラエルではなくエドム人に宛てた短い書が、しかし、あえて聖書の中にある。この事自体に、聖書の神の深い深い眼差しを、思い巡らしたいのです。

 ここに「兄弟」とあるように、エドム人は、イスラエル人の先祖ヤコブ(イスラエル)の兄エサウの子孫です[4]。兄弟も相続権を争ったりした複雑な関係で、その子孫たちも、衝突や[5]、同盟関係[6]、従属したり[7]、独立したり[8]などの確執が続いてきた「兄弟」です[9]。また、
3岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえを欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。
 エドムが高地に要塞を築いていましたが、それが国の精神においても「高慢」、自己欺瞞となっていました。9節までは、将来のエドムの没落が予告されます[10]。しかし、それは単に高慢だから打たれるという以上に、10節で実際の残酷さ、暴力が理由だと明言されていました。
11他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、…[11]

 そして
災難の日に    見ていてはならない
滅びの日に    喜んではならない
苦難の日に    大口をたたいてはならない
わざわいの日に  民の門に入ってはならない
破局の日に    禍を眺めていてはならない
破局の日に    財宝に手を伸ばしてはならない
         別れ道に立ちふさがってはならない
苦難の日に    生き残った者を引き離してはならない
と畳み掛けるのです[12]。

 ところで、このエルサレムの蹂躙の原因は何だったのでしょう。旧約の律法では、ユダが主に対して背いた罪への報いが真っ先に思い浮かびます。神に忠実であれば繁栄し、神に不忠実であればその報いを受けるという大原則がありました。そのような裁きを報われた時には、周辺諸国の人々も、無残なエルサレムの廃墟を見て「神の契約を捨てたからだ」と言うだろうとハッキリ予告されていました[13]。そしてイスラエルはずっとその契約に逆らい通しでした。だから、エドムがユダの滅びの日に、あれは自業自得だ、神の裁きだ、いい気味だ、少しぐらい奪っても悪いのはあいつらだと嘲っても神がお咎めになるでしょうか。そう、主は咎めるのです。たとえ本人の甚だしい罪の報いでも、それをあざ笑うならそれはあなたがたの罪となる。
15なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。
 旧約の歴史で、エルサレムが踏みにじられて、民が追い出された時は、最も暗いどん底です。それはイスラエルが神を蔑ろにした結果でした。その後悔しても仕切れない、滅ぼされても仕方ない時、神は、それを責めるエドムを咎めて、神の民を庇われて、将来を語るのです。
17しかし、シオンの山[エルサレム]には、逃れの者がいるようになる。[14]
 今は廃墟でも、やがて「逃れの者」が帰って来る。主は尚もこの先に回復を用意されている。こう言われて止まない主、厳しい裁きに見えても決して憎まず、滅ぼさずに、そこからも新しいことをなさる神の業が約束されます。それを踏まえないで、虐めてもいいのだ、とばかりに振る舞う者に、主は激しく挑まれるのです。それがこの旧約で最も短いオバデヤ書の証しです。

 ではそのように思い上がってユダヤをあざ笑ったエドムは、滅ぼされて当然なのでしょうか。虐めっ子は、虐めたのだから、生涯「虐めっ子」という烙印を貼られても仕方ない。それが正義なのでしょうか。
 確かにこの書の通り、ユダヤはバビロンから帰還し、エドムは紀元前129年にユダに吸収されます[15]。ですから国家としてのエドムはありません。けれどエドム人はイドマヤ人と呼ばれて新約にも出て来ます。その一人はマタイ2章のヘロデ大王です[16]。そして、
エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。[17]
 イドマヤからもイエスの元に来る人々がいました[18]。

 オバデヤ書の結びはこうです。
21救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主のものとなる。
 ここに本当の「救う者」であり、神の国(王国)の福音を伝えたイエスを、私たちは重ねずにはおれません。イエスはシオンの山、エルサレムに上られました[19]。それは、神の子イエスが罪の罰を引き受けて、人を罪(歪んだ正義)から、神の生かす正義へと救うためでした。愛を壊す罪から救い出して、完全な回復へと私たちを導いてくださるさばきを現すためでした。
 この主が来られた世界の中に生かされているのです。それを忘れて、災難があれば更に塩を塗るように人を叩く、「バッシング」がいろんな形であります。私たちもつい本人が悪いように言って済まそうとします。けれど、親、先祖、過去を辿れば、誰も完全な人などいません。それでもこの世界を神が、正しく、罪の報いとそのどん底からの回復をくださるから、私たちはいきてゆけるのです。

 神が私たちに下さるのは、罪を責め続ける言葉や罪悪感ではなく、悔い改めと赦しの言葉と、再出発の希望です。それを支え、助け合う関係です。オバデヤ書は、そのイエスの正義を、どん底のユダヤをなじるエドムを非難する言葉に託して見せてくれます。

「主よ、この短いオバデヤ書をも聖書にいれずにはおれなかったあなたが、私たちの心の目も言葉も新しくしてください。あなたこそ王です。罪を逃さず報いるのも、その報いから必ず立ち上がらせ新しくしてくださるのも、王なるあなただけです。私たちの思い上がりを捨てさせ、言葉も思いも清めてください[20]。自分の罪を悔い改めるとともに、過去の過ちをなじることや、責める言葉ではない、主の真実な言葉を与えてください。御国がここに始まりますように」



[1] 不定期に続けています聖書の「一書説教」は、原則「みことばの光」の聖書通読表を参考にしていますが(http://www.sujp.org/SUpage.html)、今月はすでにお話しした歴代誌第二とローマ書、10月も既出のローマ書です。オバデヤ書は12月に予定されていますが、なにしろ短い書ですので、以前にスルーした書でもありますので、今月はオバデヤ書を取り上げます。他の資料として、聖書プロジェクト オバデヤ書平和台恵み教会 聖書66巻 オバデヤ書 尾張小牧教会「思いあがってはならない」オバデヤ書もご覧ください。

[2] 「オバデヤ」という名前は旧約聖書に延べ13名でてきますが、その誰ともこの預言書の著者を同一視することは困難です。いっそ象徴的な名前だ、イスラエル民族のことだ、とする説さえあります。

[3] 11~14節はいつか? ①レハブアム王治下、エジプト王シシャクによるもの(Ⅰ列王14:25-26)、②ヨラム王治下、ペリシテ人及びアラビア人によるもの(Ⅱ歴代21:16-17、参照Ⅱ列王8:20)、③ユダのヨアシュ王治下、アラム王ハザエルによるもの(Ⅱ列王12:17-18、Ⅱ歴代24:23-24)、④ユダのアマツヤ王治下、イスラエル王ヨアシュによるもの(Ⅱ列王14:13-14)、⑤アハズ王治下、アラムとイスラエル、ペリシテ、エドムによるもの(Ⅱ歴代28:5-18)、⑥前605-586年のネブカドネザル王によるもの(Ⅱ列王24:1以下)。②と⑥が最有力。②の場合、紀元前850年頃、⑥の場合、前586年頃。

[4] 創世記25章19節から、二人が母の胎にいる時の出来事に始まる、長い確執が綴られています。

[5] 民数記20章14節以下。

[6] 申命記23章7節「あなたはエドム人を忌み嫌ってはならない。これはあなたの兄弟だからである。エジプト人を忌み嫌ってはならない。あなたはその地で寄留者だったからである。」、また、Ⅱ列王3章9節「こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。」

[7] Ⅱサムエル記8章14節「彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」

[8] Ⅱ列王8章20~22節「ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。」、14章7節「アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。」、Ⅱ歴代誌28章17節「エドム人も再び攻めて来て、ユダを打ち、捕虜を捕らえて行った。」

[9] Ⅰ列王記11章14節「こうして主は、ソロモンに敵対する者としてエドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王の子孫であった。」

[10] オバデヤ書4節「鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。――主のことば。」

[11] 「…おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。」

[12] 「日」が、12節(*2)、13節(*3)、14節、15節と7度も繰り返されています。

[13] 申命記29章22~28節(後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る異国人は、その地の災害と、主がそこで起こされた病気を見て言うであろう。23その全土は硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔かれず、芽も出ず、草一本も生えなくなっていて、主が怒りと憤りでくつがえされた、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようなので、24すべての国々は言うであろう。「何のために、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい燃える怒りは何なのか。」25人々は言うであろう。「それは彼らが、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から導き出したときに結ばれた契約を捨て、26彼らの知らない、また彼らに割り当てられたのでもない、ほかの神々のもとに行って仕え、それらを拝んだからだ。27それで主の怒りがこの地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいが、この地にもたらされたのだ。28主は怒りと憤りと激怒をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。」)、Ⅰ列王記9章6-9節(もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、7わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。8この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、主はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。9人々は、『彼らは、エジプトの地から自分たちの先祖を導き出した彼らの神、主を捨ててほかの神々に頼り、それを拝み、それに仕えた。そのため主はこのすべてのわざわいを彼らに下されたのだ』と言う。」、エレミヤ書2章8-9節「多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、主はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、9人々は、『彼らが、自分の髪、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」、など。

[14] 「…そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。」

[15] 詩篇137篇7節(主よ 思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ 破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを。)、エゼキエル書25章(12~14節)、35章、アモス書1章6-9節、9章11-15節、参照。

[16] イエスを抹殺しようとした王であり、エルサレムの大神殿を建てた建築家でもあります。

[17] マルコ伝3章8節。

[18] 聖書の描くのは、「諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。(ヨハネ黙示録21章24節)」――すべての王たちが栄光を自分のものとせず、神の都に携えて来る将来です。

[19] もう一歩踏み込んでいうならば、イエスはシオンの山に上って、イドマヤ人の血を引くヘロデの前に立ったのでした。しかし、イエスはヘロデをさばくより、ヘロデの前で黙ったままでした。そして、ご自身がいのちを捧げることで、神の国を現されたのでした。

[20] 過去の刈り取りは、それ自体がなす。他者が罰を加えることは、報いではない。他者に求められるのは、自分の問題を顧みて、神の国を建て上げていくこと。

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