聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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2022/2/27 ユダ書17~23節「聖なる神に憧れて 一書説教 ユダの手紙」

2022-02-26 00:04:03 | 一書説教
2022/2/27 ユダ書17~23節「聖なる神に憧れて 一書説教 ユダの手紙」

 一書説教として、新約聖書の最後から2番目の「ユダの手紙」を取り上げます。[1]

1. ユダの手紙の執筆事情

 このユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別です。イエスの弟の一人で、マタイ13章55節に名前があります。十字架の前には、この弟たちの誰もイエスを信じませんでしたが、復活後、一番上の兄ヤコブはエルサレム教会の中心的リーダーとなり、末の弟のユダも、教会の指導者となった。そしてこの手紙を書いているのでしょう。この手紙を書いたのは、

 3…聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。

 こういう事情で、ユダは緊急性を感じて、この短い手紙を書いたのです。この手紙は宛先が特定されていないのも特徴です。テモテやテトスへ、○○教会へ、という個別の宛先はない。ただ旧約聖書の引用があちこちにあります。また9節や14節は聖書には書かれていませんが、当時読まれていた旧約聖書の外典「エノク書」「モーセの遺訓」が下敷きになっています。ユダの手紙は聖書や当時のユダヤ文学に親しんでいた人を念頭に置いています。けれど、それは、

 1…父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々…

 即ち、私たちも含めたすべてのキリスト者を直接想定している、珍しい書です。そしていつの時代にとっても、神の恵みを放縦に変えて、キリストを実質的に否定する危険はあるのです。

 8…この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。…16彼らは、ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。

 また、17~18節では使徒たちも、こういう将来を予告していたことを思い出させます。

18…「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

 具体的には、淫行とか利益、権威に逆らう、暴言…といった事が出て来ますが、根本的には、嘲りの心です。心の奥深くには、強い支配欲、思い上がった嘲りがある。それは神の恵みを否定してしまう危険です。ユダはそのために戦うよう、必要に迫られて本書を執筆したのです。

2. 非戦の戦い

 だからこそユダは「恵みを否定する不敬虔な人々と戦え」とは言いません。戦えよりむしろ、

 9御使いのかしらミカエルは、…ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ「主がおまえをとがめてくださるように」と言いました。

戦わない態度を思い起こさせるのです。その後18節まで、非常に激しく毒づく非難が続きますが、それもまるで「彼らの悪は目に見えている。その愚かさや行く末は明らかで、最後には裁きで明らかになる。分かっているから。」と代弁して毒づいているのでしょう。だから、

20しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 これが、ユダがこの手紙を急いで書いて伝えなければならないと残した命令です。自分自身を築き上げ、自分自身を守る。といって、それは自分の努力や頑張りという事でもない。

 「最も聖なる信仰の上に」とはどういうことでしょう。私たちが信仰を聖なるものに引き上げるのでしょうか。いいえ、聖とは神ご自身の本質です。その神を信じる信仰、聖なるイエス・キリストを信じる信仰は、聖なる信仰なのです。私たちが聖なる神を告白し、聖なるイエスの、最も聖なる御業である十字架と復活を信じ、聖徒とされた。そうして下さるのは聖霊。私たちの信仰は「最も聖なる」信仰です。その上に自分自身を築き上げる。聖霊によって祈る。神の愛のうちに自分自身を保つ。主イエスの憐れみを待ち望む。それこそが、恵みを引き下げて、欲望のままに振る舞う人々に流されず、信仰を守る「戦い」なのです。不敬虔や悪、不品行を憎み、裁きや罰を宣言するだけなら、そこには違う嘲りや、妬みが入ります。ユダの手紙は誘惑を警戒するからこそ、もっと大事なこと、いただいた信仰の尊さ、神の愛の素晴らしさ、もっと言えば今日の説教題の通り、聖なる神への憧れに立ち戻ること。この戦いを諭すのです。そして、その上で、他の人にそれぞれに接することが、22~23節で始まります。敵だとか、対立的に、一律に観るのではなく、ひとりひとりに、憐れみをもって接する。それこそ、ユダが勧める戦いなのです。

3.「ユダの手紙」

 もう一つ、「ユダの手紙」だからのことがあります。ユダという名前は、イスラエル十二部族の一つでもあります[2]。聖書には7名のユダが出て来ます[3]。十二使徒にもひとりユダがいます。なのに、「イスカリオテのユダとは違うユダ」と言われて少しホッとしたり、それでもモヤモヤしたりして、余り「ユダの手紙が好き」という人はいません。それぐらい「ユダ」という名前は「裏切り者」と結びついて、一人歩きして毛嫌いされています。英語では、イスカリオテのユダはJudas、このユダはJude(「Hey, Jude!」のジュードです)と区別したりします。違うと思う事で安心しようとします。でも、元々のヘブル語やギリシャ語では同じなのです。

 このユダ自身、イエスの弟なのに、長いこと兄を信じませんでした。いつイエスを信じたのかは分かりませんが、いつか何かがあったのです。彼はイエスと血が繋がった弟だなんて誇りは少しも匂わせず、神の恵みを語っています。自分の兄とまでなってくれた恵み、それをも信じられなかった自分をも変えてくれた恵みを味わい知る者として、この手紙を書きました。ユダという名は、母ラケルが嫉妬から解放されて「今度は、私は主をほめたたえます」とつけた「賛美」の名です[ⅳ]。彼がホントは書こうとしていた「救いについて」の手紙とはどんな素晴らしいものだったのでしょうか。奔放に生きるチャンスにするには余りにも勿体ない恵みです。

 このユダはあのユダとは別人です。でも、このユダもイエスを理解せず、見捨てた一人でした。そのユダを変えたのは神の恵みです。私たちも同じです。このユダのこともあのユダのことも、他人事ではないのです。その恵みを知るならば、私たちも誰かをその名前やほんの僅かな情報だけで裁いたり、争い、嘲ったりすることで戦おうとしてはなりません。私たちの戦いは、自分を「最も聖なる信仰の上に築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、主イエスの憐れみを待ち望む」ことです。それは、私たちの業という以上に、神ご自身の恵みの業です。この恵みの神への憧れをもって、私たちの生き方を建て上げていくのです。

「聖なる神よ。あなたが下さった信仰は、何よりも聖く麗しい信仰です。新約の最後に、短く載せられたユダの書が、あなたの美しい救いの御業を証ししています。しかし私たちが恵みを引き下げ、欲に流され、人やあなたを蔑み、好戦的になりやすいことも教えられます。どうぞ、あなたの戦いはあなたに委ねて、私たちが自分たちを信仰の上に、神の愛のうちに建て上げていく戦いに立ち戻れますように。麗しいあなたご自身への憧れを増してくださいますように」

脚注:

[2] ユダ(Judah)、イェフーダー(ヘブライ語: יהודה‎ Yehûdâh)もしくは ジューダス(英語: Judas)、ヘブライ語で「ヤハウェに感謝する」という意味の人名。(Wikipedia)
[3] ネヘミヤ記12章8節、使徒9章11節、15章22節。
[4] 創世記29章35節「彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。」
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