聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/1 ハガイ書2章1~9節「これから後の栄光 一書説教 ハガイ書」

2022-01-01 09:50:27 | 一書説教
2022/1/1 ハガイ書2章1~9節「これから後の栄光 一書説教 ハガイ書」

 2022年の元旦、預言者ハガイの書を読みます。まだ一書説教で取り上げていなかったハガイ書で、初めて開いた方もいらっしゃるかも知れません。ハガイとは「祭」の意だそうです[1]。イスラエルのお祭りの時に生まれたのでしょうか。新年最初のお祝いに、本書を読みます。
 ハガイの時代は、イスラエルの民が、捕われていたバビロンから帰って来て、再出発していた時代です。エルサレムに帰り、破壊された神殿も建て直して、主を礼拝する民として歩もう。そう決めて帰ったものの、周囲からの反対や諸事情によって、神殿再建が中断されていました。この辺りの経緯は、エズラ記が詳しく伝えています[2]。エズラ記にこのハガイも登場します[3]。中断されていた神殿再建を、18年ぶりに、民の心を奮い立たせて再開させた預言者。その一人がハガイでした。彼は神殿再建に、いいえ、神の民の再出発そのものに大きく貢献しました。

 一つ目は礼拝の大切さです。神を第一とする礼拝を回復する事です。主は言われます。

2…「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」

4「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」

 18年前、神殿再建を志ながら、それが中断されたのは民の不信仰や怠慢のせいではありませんでした。外から妨害されてのどうしようもない中断でした。しかし、その後、事情が変わって、民の暮らしもよくなって板張りの立派な家に住めるようになったのに、神殿建設は放ったらかしになっている。主を忘れて自分の家のために走り回っている生活は、結局、生活や仕事や神ならぬものを神とする生き方です。空回りした、虚しい、本当の神のいない歩みです[4]。

7万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ[5]。8山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ[6]。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。-主は言われる-

 ハガイは民に、まず主の宮の再建を促すのです。それは主が既にともにおられるからです。

13…「わたしは、あなたがたとともにいる-主のことば」

 これこそハガイ書で、宮の再建の呼びかけを通して思い起こさせたいメッセージです。礼拝を通して、主がおられる幸いを覚えます。他の事ごとに振り回されないために、主を主とする恵みに預かります。そして、慌ただしい中でも、生活の中心に主がともにおられることを覚えるのです。これこそが、聖書の中心にあるメッセージです。私たちに与えられた告白です。

 もう一つハガイ書から見えるのは「時の中での変化」です。工事に立ち上がった一月後、二章で言われるのは、民の中に、七〇年前に破壊されたソロモン神殿と比べての不平でした。

二3「あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。…あなたがたの目には、まるでないに等しいのではないか。

 70年前に壊された神殿をその目で見たことのある老人たちもいました。彼らは今ようやく工事の始まった新しい神殿を見ても、かつての輝く神殿と比べて嘆いてしまう[7]。「昔は良かった、以前はもっとああだった」と比べて、折角の今に水を差す声を上げました。
 更に二ヶ月後、10節以下では、造った神殿や献げる生け贄そのものに価値があるかのように慢心してしまったようです。僅か四ヶ月でも、民の心が揺れ動く。時間とともに人は、心も環境も良くも悪くも変わります。その事に私たちは鈍感です。七〇年前の神殿、かつての栄光を取り沙汰して今と比べたりしてしまいます。時とともに多くのもの、自分の心や見えるものは変わる。その事をもハガイ書が浮き彫りにします。その中で、主は民に力強く仰いました。

4しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。-主のことば-エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。-主のことば-仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。

 この聖書を貫くメッセージが繰り返されて、こう主は言われるのです。

 7わたしはこの宮を栄光で満たす。-万軍の主のことば-8銀はわたしのもの。金もわたしのもの。-万軍の主のことば-9この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の主は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の主のことば。

 宮が銀や金で出来ていなくても、主はすべての金銀財宝の所有者です。その主が、この宮のこれから後の栄光は先のものにまさる。それは、主がこの場所に平和を与えると約束される事です。その「平和」こそ、黄金の建物やどんな立派な過去の栄光にもまさる、新しい栄光です。

 人は時間の中で変わっていきますが、神はその変化のただ中に、働いてくださいます。人が「まだ時は来ない」と言い切っている所に、神は新しいことを始めてくださいます。逆に人が焦っても、神は18年、七十年、いや千年をも一日のように待たれる神でもあります。時の中での移ろいさえ用いて、神は私たちを教え、導かれます。ハガイ書の5年後、小さな神殿が再建されました。それは、かつてのソロモン神殿が破壊されてから70年後のことです。かつて、預言者エレミヤは、バビロン捕囚を七〇年と預言していました[8]。それがこの神殿破壊から再建まで、と見ることも出来ます[9]。だとすると、預言の70年は、中断されていた18年も含めています。主は、人の妨害や諦めの時間さえ、神のご計画のうちに含んでくださって、民を運んで下さる。その主を第一にして、主を礼拝する民としてともに歩むことが何よりの土台です。

 たった二章の、たった四ヶ月の間のハガイの預言。私たちが、時間の中で、時を超えた主を見上げながら、自分たちの変わりやすさと、その中に働かれる主を見上げさせてくれる書です。忙しい中でも、この短いハガイ書を通して、主を礼拝する幸いを確認し続けていきましょう。

「時を治めたもう主よ。新しい年、鳴門キリスト教会も、私たち一人一人も大きく変化します。移りゆく時を強く実感します。社会も人も自分自身も、変わり続ける現実に、振り回され、戸惑います。その中で、あなたは変わることなく、私たちの変化をも益とし、見えない祝福を用意され、ともにおられます。インマヌエルなる主が、私たちをあなたの宮として整えて、一人一人が主の前に静かに立ちながら、ともに歩ませてください[10]。そうして、私たちのこれからの歩みを通して、先の恵みに勝る栄光を現してください。」[11]





脚注:

[1] ヘブル語ハーグの複数形。

[2] エズラ記4章4~5節「すると、その地の民はユダの民の気力を失わせようとし、脅して建てさせないようにした。5 さらに、顧問を買収して彼らに反対させ、この計画をつぶそうとした。このことはペルシアの王キュロスの時代から、ペルシアの王ダレイオスの治世の時まで続いた。」

[3] エズラ記5章1節「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。」、6章14節「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。」

[4] 彼らが自分の歩みを考えたら、板張りの家に住むとか、多くの種を蒔いて豊作を見込むとか、自分の家のために走り回る事でした。でもそこに神の家がなかった。それは生ける神ではなく、富とか暮らしを神として、生活や時間を献げて、幸せになろうとする事でした。それは虚しい事です。神を神としないなら、何かを「神」としているのです。自分の住居、暮らし。何にお金を掛け、何に時間を費やしているか。何のために犠牲を惜しまず、何を今、気に掛けているか。それこそあなたの「神」です。「主なる神を、イエス・キリストを通して礼拝する」と言いつつ、私たちはその神の顔を何に見えているでしょうか。神は、地上の何かの形に、自分を形作るな、と仰せられます。それは私たちの神ではないのですから。主は生ける、力ある神で、人が主を神とするなら、それを喜び、栄光を現すと約束してくださいます。私たちが自分の家や生活のために走り回るとしても、それを拝むのではなく、神を礼拝すること。それは、私たちのためにも、ただ一つの第一のことなのです。

[5] 「よく考えよ」(に心を備えよ。欄外) 新共同訳「自分の道に心を留めよ」1:5、7。2:15、18も。

[6] 主はご自身のために、立派な宮を建てよとは求めません。山に上って運んでくる木で良いのです。

[7] エズラ記では3章10~13節にこう記されています。「3:10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。11そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。12しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。13そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」 しかし厳密には、これは最初の神殿建設が中断される直前の記事です。ですから、ハガイ書2章の出来事そのものではありません。18年前に、この比較と嘆きがありました。それも、神殿再建を中断されたまま放置した、心理的な要因と絡んでいるのかもしれません。その反省もなく、今ここでも、せっかく始まった再建工事に水を差す声として、ハガイ書2章3節は読まれるべきなのかもしれません。いずれにせよ、神が、大きさにかかわらず、神殿を建てることを命じて、その基礎作りを祝われているのに、人間のほうが、「まるで無いに等しい」と嘆いている、という奇妙なことが起きているのです。

[8] エレミヤ書25章11節「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」、29章10節「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」、ダニエル書9章2節「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」

[9] 第三回バビロン捕囚において神殿が破壊されたのが紀元前586年。その後、新興のペルシアによりバビロン帝国が滅ぼされたのが、紀元前539年。翌年、ペルシア王クロスによりイスラエル人の希望者による捕囚帰還(538年)。その後、18年の中断を経て、工事が再開され、ゼルバベル政権下で神殿が再建されたのが前515年です。

[10] イエス・キリストこそ、私たちといつもともにいますと仰いました。言いかえれば、キリストを信じる信仰者の共同体こそ、主の宮とされました。暮らし向きも違い、生きてきた時間も違う者たちも、ただこの真ん中に主がおられるゆえに、一つの聖霊の一つの宮です。建物や場所ではなく、私たちキリスト者を、神ご自身が生ける石として、宮としてくださいました。私たちが犠牲を献げることによってではなく、イエスご自身が唯一のいけにえとなって、礼拝を全うしてくださいました。その事を覚えるために、私たちは礼拝を第一とするのです。主がここにいますことを覚える事で、私たちは生活を偶像とせず、ともに歩むことが出来るのです。

[11] 鳴門キリスト教会も、皆さん一人一人も、この一年、大きな変化を予想しています。そうでなくても、時間の中で多くの事は変化し、予想もつかない出来事が起きるものです。その時の流れの中で、私たちは自分で時を見てしまい、神の時をも決めたくなります。でもそれは逆です。神こそが、時を支配しておられます。変わる時をも益に変えて、祝福を用意されています。その神を信頼するために、私たちにとって礼拝を第一とするのです。そうして、ともに生きることが出来るのです。主をともに礼拝する事が、新しい2022年の歩みを方向付け、支える祝福なのです。神殿再建を促すハガイの言葉は、私たちにも何度も何度も再出発を促してくれます。

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