聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き2章1~21節「聖霊がハトのように」

2019-06-09 15:09:12 | 聖書の物語の全体像

2019/6/9 使徒の働き2章1~21節「聖霊がハトのように」 聖霊降臨日説教

2:2…天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 「聖霊降臨日」に「おめでとうございます」という挨拶は聞いたことがありませんが、クリスマスとイースターのお祝いを完成させたのが、今日の「使徒の働き」2章の「五旬節(ペンテコステ)」の聖霊降臨の出来事でした。そこで教会は今日も、イースターの五十日後の日曜を「聖霊降臨日」として祝い続けて、世界中でお祝いをしているのです。本当におめでたいお祭りです。素晴らしいお祝いです。この聖霊降臨は、一章でイエスが既に予告していた約束でした。

1:8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」[1]

 この約束通り、2章で聖霊が弟子たちに注がれて力を与え、イエスの証人としたのです。このような激しく、目覚ましい現象で、聖霊は弟子たちを変えて、語らせ始めたのです。色々な国の言葉で話したので、ちょうどそこに五旬節の祭りのために来ていた世界中からの巡礼者たちがそれぞれに理解できることになりました。言い換えれば、

「炎のような分かれた舌」

が留まって諸国の言葉で語り出したのは、やがて弟子たちが

「地の果てまでイエスの証人となる」

ことの印でもありました。この直前まで、弟子たちにこんな力も大胆さもありませんでした。イエスの十字架の時には蟻の子を散らすようにいなくなり、復活の時も信じられなかった弟子たちです。その臆病で、プライドが高かった弟子たちが、この時、聖霊を注がれて、イエスの証人となって、全世界に出て行くように変えられ始めたのですね[2]

 元々ペンテコステ(五旬節)の祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放された後、シナイ山に行って、神の民としての契約を授かり、神の民の生き方を律法という形で授かった記念のお祭りでした。エジプトからの脱出は大きな解放でしたけれど、それが目的ではありませんでした。シナイ山で

「神の契約の民」

とされて、本当の自由の民として歩み始めていく。それこそが始まりだったのですね。しかし、それももっと大きな物語の伏線でした。エジプトを出る時に、小羊を屠って家の門に塗った「過越」が、後のイエスの十字架の準備であったように(そして、葦の海の道を通った勝利が、イエスの復活の準備であったように)、シナイ山で律法が与えられたのも不完全な出来事でした。律法を与えられるだけでは人間は、本当に自由な生き方は出来ない。外から契約を与えられるだけでは人は新しく生きることは出来ない。神が聖霊によって私たちの心に信仰や愛や良い心を与えてくださって、人は新しくなれるのです。律法が与えられたお祝いの五旬節に聖霊が降ったのは、そのしるしです。神が、人間を救うために御子イエス・キリストを遣わして、十字架の死と復活という贖いを果たす。その救いを聖霊によって人の心に届けてくださる。かつての出エジプトや五十日後の律法の付与は、イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨において「新しい契約」として完成したのです[3]

[旧約] 出エジプト・葦の海を渡る     「契約」の締結・十戒の付与

       過越    →   五十日後  →  ペンテコステ(五旬節)

《新約》 イエスの十字架・復活       「新しい契約」の締結・聖霊降臨(新しい心)

 

 ペテロは、この出来事を旧約聖書のヨエル書の預言が成就したことだと言っています。

2:17『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
すると彼らは預言する。

 このヨエル書の言葉は、ただペンテコステの日を預言しただけではありません。ヨエル書が語る将来への備え全体の中での言葉です。ヨエル書は、旧約の時代でも、最も社会が乱れていた時代に書かれたものの一つです。暴力や不正が蔓延り、喜びや希望が失われていた時代に、ヨエルは神の言葉を語りました。当時の人間の罪や問題をキッチリと見据えて、厳重に警告しつつ、それ以上に、主が豊かな恵みを与えてくださることを語っているのです。

ヨエル書2:13衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。
主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。

18主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。

 その主の愛とあわれみが、やがてすべての人に主の御霊を注いで、若者も幻を持ち、老人も夢を抱くようになる。神が人の心に神の霊を吹き込んで、頑なな心から、喜び、夢を語るような心に変えてくださる。それが、神が最後に用意しておられる祝福だと言われていました。そのようなヨエル書の預言を引用してペテロが語るのは、この出来事だけではなく、ヨエル書が語る神の恵みに満ちた将来が確かに完成する、ということです。

 今はまだ、ヨエルの時代のように人の問題がたくさんあります。「使徒の働き」でも、これは2章で始まりに過ぎませんでした。激しいペンテコステの出来事から始まったものの、その後の教会の歩みは山有り谷有り、外からの迫害や、内側の罪や未熟さ、悩みが続きました。聖霊が働く仕方も様々で、いつもこの2章のように激しく目覚ましく降った訳ではありません。今でも、一人一人が体験する信仰の歩みは違いますね。あまり大きな出来事はないという方もいれば、ハッキリ声が聞こえた人もいるでしょう。同じ体験はありませんし、比べる必要もありません[4]。どの人もイエスを信じる信仰自体が、聖霊によってしています。イエスを信じようという思いそのものが、聖霊の働きによることです[5]。それぞれ違う方法で、聖霊によって教会に導かれ、信仰を授かり、今ここにいます。そして、これからも神の子どもとして、浮き沈みや右往左往をしながらも、心を探られ、新しくされて、やがては神の大いなる物語の祝宴に与るのです。大事なのは聖霊体験とかどれほど劇的か、でなく、聖霊が私たちをキリストに結びつけて下さること、主の大きな救いの中で成長し、心を新しくされ、喜びや希望を持ち、愛を戴いていくことです。

 イエスが十字架に死ぬ前、その宣教を始めた時にも、イエスの上に聖霊が下りました。

ルカ3:21…民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 聖霊はここでは鳩の形で表現されています。素直で小さな鳩。それは聖霊を受けた人の中にも形作られていく品性と通じるでしょう。そもそも聖書の最初に、

創世記1:1はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

とある

「動いていた」

は、申命記32:11では、鷲が雛の上に翼を広げるような光景で用いられています[6]。この世界は、最初から聖霊の翼の下に包まれ、守られていた世界なのですね。今でも聖霊が全てを支えて、この世界を保ち、育てておられるのです。そして、キリストが十字架に捧げた命を、私たちの内にも届けてくださって、信仰を与え、主にある交わりを下さり、神の物語の中に入れてくださっているのです。それが口先だけの約束ではないことを、この使徒の働き2章のペンテコステの出来事は、ハッキリと教えてくれるのです。

 聖霊が下り、臆病だった弟子たちは喜びに溢れて、異邦人の言葉で福音を伝え始めました。その働きの末に今、私たちは福音に出会い、神を礼拝しています。それは、青年も幻を見、老人も夢を見るような、誰もが心を罪から清められて、悲しみを深く癒やされ、慰められるという約束の手始めです。最初から世界を覆っていた聖霊が、世界を慰め、人の心の奥深くまで語りかけてくださるのです。その時を待ち望みます。また聖霊の慰めや癒やしをこの時代に祈らずにおれません。聖霊が私たち自身をも、主の証し人として遣わしてくださいますように。

「主よ、聖霊によって、主イエスの贖いに私たちを確かに結びつけてくださったことを感謝します。私たちの痛みや呻きにまで届いて下さる聖霊の愛と憐れみに、感謝します。主の御霊の働きのゆえに、私たちも世界も存在しています。どうぞ、この聖霊の御業に信頼させてください。一人一人を違う形で用いて下さり、十分に慰め、私たちの心に夢を抱かせてください」



[1] また、使徒の働き1章4~5節「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

[2] 「聖霊」使徒の働きに40回。「御霊」13回。「主の霊」「わたしの霊」4回。合計、47回。直接ではなくても「主が」という言葉が聖霊の働きを指している場合も多い。

[3] エレミヤ書31章31節以下はこの事を明言して預言しています。「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。33これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[4] その聖霊の体験の仕方、聖霊による「賜物」の違いによる差別意識や諸問題が誤解されて受け取られていたことも、既に初代教会に起きていました。Ⅰコリント12章から14章を読んで、その実態と解決となる方向性とが窺えます。

[5] Ⅰコリント12:3「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」、同12:13「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

[6] 申命記32:10~11「10主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。11鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。」

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