聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/10/18 マタイ伝12章15~21節(9~21節)「傷んだ葦を折らない王」

2020-10-17 09:15:19 | マタイの福音書講解
2020/10/18 マタイ伝12章15~21節(9~21節)「傷んだ葦を折らない王」

前奏 
招詞  エゼキエル書36章26a、28b
祈祷
賛美  讃美歌82「広しとも広し」①②⑤
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇1篇(1)
賛美  讃美歌132「恵みに輝き」①②③
聖書  マタイの福音書12章15~21節
説教  「傷んだ葦を折らない王」古川和男牧師
賛美  讃美歌132 ①④⑤
応答祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌545上「父の御神に」
*祝祷
*後奏

 マタイ12章15節からを読みました。
イエスはそれを知って…
とあります。「それ」とは、何でしょうか。9~14節では、イエスが片手の萎えた人を癒やされた記事がありました。その結果、聖書の律法を真面目に守ることに熱心なパリサイ人たちは、ある相談を始めたのです。
14パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
 このイエス抹殺の相談が始まったことが
イエスはそれを知って…
の「それ」です。パリサイ人や当時の権威者たちがイエスを殺す相談をしたのは、これが初めての事です[i]。その末に十字架が起きるのですが、自分を殺す相談が始まったとイエスが知った。その時、イエスは-神の子であり、癒やす権威も滅ぼす権威も持っているイエスはどうするでしょうか[ii]。
15…そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。
16そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。
 癒やされたことを黙っていさせたことは何度もあって、伝道させるために癒やしたのではなく、その人との関係が大事だったからです[iii]。とはいえ、なぜまだそんな地道なことをなさるのでしょうか。当時の人々が期待していたキリストは、天から雷を降らせてでも敵を一気に成敗してくれるメシアでした。私達もそういうヒーローが好きで、ドラマなら勧善懲悪に悪者を成敗する話にスカッとします。それなのに、イエスはその場を立ち去りました。どうしてこんな行動を取られたのか、不可解な展開に、人は色々な説明をするでしょう。歯がゆい出来事に、あれこれ邪推をするものです。だからこそ、ここに預言者イザヤの言葉が光を当てるのです。
17これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。[iv]
 イエスが、暗殺計画を知って立ち去ったことに、人は逃げ腰だ不可解だと好き勝手なことを言うとしても、その行動こそ、イエスが、預言者の語ったメシアだという証拠でした。
18「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。
 3章17節での洗礼の時も、神はイエスに
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
と告げました[v]。今この時、イエスを殺す相談が始まってイエスが立ち去った時も、イエスの土台はこれでした。イエスは人を恐れたり人の敵意に怒ったりせず、父なる神が選び、心から喜んで遣わした、「わたしの愛する者」として遣わされた務めを果たしているのです。だから、
19彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。
 抹殺計画に対しても、向きにならず、黙って素直に立ち去ったのです。イエスは言い争われません。また、大声や力で抑え込んでは「神の正義」は果たされないとご存じです。むしろ、
20傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。
 殺される相談が始まっている中でも、大勢の群衆がついてきたら、彼らを癒やされました[vi]。「傷んだ葦」とありますが、葦は弱い植物ですから、傷みやすかったのでしょう。また、真っ直ぐ伸びる葦は「物差し」に使われたものですが、傷んでしまえば役に立たない。また、「葦を折る」とは、裁判で有罪判決を表す所作だったとも言われます。「葦を折らない」とは、イエスが人を断罪しない、という事かもしれません。人の弱さ、まっすぐに生きられなかった人、そのような人をもイエスが労る、というイメージが浮かびます。
 「くすぶる灯心」も、色々な意味で人間の弱さ、悩みと重なります。燻る灯心はいっそ消した方が手っ取り早い。かといってただ放っておいてもいずれ消えます。急いで煽り立てても消えてしまう。手で囲い、丁寧に位置を直して、小さくても一番良い状態で点ることが出来るようにしてあげる。それが「くすぶる灯心を消すこともない」ことでしょう。無力さ、失敗、上手に出来ない、そんな人間をイエスは決して諦めず、関わり(ケア)をなさいました。

 それが、
「さばきを勝利に導くまで」。
神の裁き(正義)は、傷む人、虐げられた人を受け入れ、じっくりと癒やすことで勝ち取られる。イエスが敵意から退いて、群衆を癒やし、それを人々に話さず、しまっておくよう言われた道こそ、イザヤ書の預言の成就。神の裁きを勝利に至らせる唯一の道です。そういうイエスと出会って、そういう「神のさばき」との出会いによって、神のご計画は実現する。イエスを憎む人の憎しみは変わらなくても、痛む人や異邦人にまで、もっと広がっていく。だから、
21異邦人は彼の名に望みをかける。」
のです。
 イエスの働きはすごく遠回りでひっそりに見えます。神のすばらしい恵みを語っても、誤解され逆恨みされます。逃げたと思われるような変更をして、なお近づく一人一人との関係を大事にされます[vii]。その遠回りの道、仕返しや争いをせず、良い関係を育てる道。人が誤解や憶測でなんと言おうと、神の
「わたしの愛する者」
という言葉に立っていた主。傷んだ葦を折ることなく、燻る灯心を消さずに、主は私達とともに働き続けている。そうしてさばきを勝利に導かれる。この主に、私達は望みをかけて、今を生きていけるあのです。

「主よ。あなたは人の声や大勢の声に流されず、御父の愛に立ち、しなやかに生きてくださいました。あなたの憐れみが、世界に正義と平和をもたらします。あなたの回り道は、必要な、そしてかけがえのない回り道です。その事を信頼し、私達もあなたの深い癒やしに預からせてください。まだ燻りながらも、小さな者を愛おしむあなたの御業に、預からせてください」

脚注:

[i] 厳密には、2章でイエスが生まれた時点で、ヘロデが幼子キリストの暗殺を謀っています。それは、イエスの生涯が、民によって憎まれ、退けられるものであることを予告するものでもありました。また、10章の弟子の派遣では、弟子たちへの迫害・殺意の予告に、イエスも迫害され、殺されることが匂わされていました。それは踏まえつつ、権威者の側が、明確にイエスを殺そう(原文では「滅ぼそう」)と相談をしたのは、この12章14節以降です。

[ii] この言葉は「殺す」というより「滅ぼす」という言葉です。10章28節「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」の前半の「殺す」ではなく、後半の「滅ぼす」という言葉です。「神に代わってイエスを滅ぼしてしまおう」という思い上がり、横暴さを感じます。しかも、イエスの教えは、神は人を滅ぼす権威も持っているけれど、神の御心は真実の愛、罪を赦し、人を癒やす、滅ぼさずに救うことだという教えでした。そのために、安息日にこそ人を癒やされたのです。でも、それをきっかけに、パリサイ人はイエスを滅ぼす相談を始めました。自分たちがふっかけた論争に負けて、自分たちの間違いを認めるよりも、逆上しての殺してしまえ、という横暴です。しかも、その相談自体、安息日だったのでしょう。内容も勿論、相談という労働も、彼らが振りかざした「安息日にしてはならない」労働です。

[iii] 8章4節、9章30節、17章9節など、「ご自分のことを人々に知らせないように」と仰有ったのは、ここだけではありません。しかし、特にここでは、ご自分の抹殺の相談まで始まった段階で、人々が癒やされた嬉しさでべらべらしゃべったら、彼らも危険に晒されることを配慮してのこともあったかも知れません。少なくとも、イエスが人を癒やされたのは、ご自分の力を誇示するためとか、働きを広げるためにではなかったことは明らかでしょう。癒やされたのは宣伝させるためではなく、本当に癒やしたかったから、憐れまれたから、でした。

[iv] イザヤ書42章1~4節「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。2彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。4衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」 マタイが言い換えたり、省略したりしている相違も注目に値します。マタイは、4章の洗礼後の言葉との整合性を強調し、「異邦人」と訳せる言葉を反復して、ユダヤ人を読者の念頭としているマタイの福音書において、異邦人への福音という世界的な視点を主張しています。

[v] 公の活動を始めるに当たって、受ける必要も無いはずの洗礼を受ける、罪人の列に加わって、蔑まれ、苦難の道を歩み出すに当たって、天の父はイエスに承認の言葉を語られました。

[vi] 遡っては、片手の萎えた人を癒やしたら、火に油を注ぐと分かっていても、彼を癒やすことが「良いこと」だとイエスは確信していました。空腹の弟子たちが穂を摘むのを責めませんでした。疲れた人を招き、重荷を負っている人を休まようといってくださいました。そういうお方がイエスです。

[vii] そして、イザヤ書のこの言葉だけで無く、イザヤが語っていたもっと大きな約束、希望-神の御心が完成して、世界が必ず修復され、新しくなるというご計画ともつながります。世界の回復・完成の道のりは、言い争いや力ではなく、燻る灯心を消さず燃え上がらせてくださる、イエスの地味な、隠れた働きがなければ、なされないのです。イザヤ書39章から42章、そして43章や66章まで続いていく、全体をぜひ読んでみてください。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2020/10/11 マタイ伝12章1~... | トップ | 2020/10/25 ローマ書1章16~... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

マタイの福音書講解」カテゴリの最新記事