聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答111~113 マタイ6章5~15節「こう祈りなさい」

2019-06-09 15:21:06 | はじめての教理問答

2019/6/2 マタイ6章5~15節「こう祈りなさい」はじめての教理問答111~113 

 先週から、私たちが祈る事についてお話ししています。私たちが、神に祈ること、私たちの祈りを聞いてくださっている方がいることは、大きな恵みです。イエス・キリストは私たちと父なる神様とを結び合わせてくださるお方です。そして、イエスが教えてくださったのが「主の祈り」です。今日から「主の祈り」を見ていきます。

問111 キリストは、祈りについて教えるために、なにを与えましたか?

答 主の祈りを与えました。

問112 主の祈りとはどういうものですか?

答 主の祈りとは「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」という祈りです(マタイ6:9-13)。

問113 主の祈りにはいくつの願いごとがありますか?

答 六つの願いごとがあります。

 主の祈りの六つの願い事は、来週から一つずつ見ていきます。今日は、主の祈りそのものが、イエスが教えてくださった、祈り方のお手本であり、贈り物であることを覚えたいのです。また、ぜひ皆さんの生活の中で「主の祈り」を何度でも口にして、唱えてほしいと思うのです。「主の祈り」は世界中のキリスト教会で祈られています。毎週ではない教会もありますが、キリスト教会であれば、それぞれの国の言葉で「主の祈り」を祈っています。鳴門キリスト教会に時々外国の方が来て、一緒に礼拝をします。日本語は全く分からない方でも、主の祈りで「Lord’s Prayer」と書き添えているので、それを読めば大抵の外国の方は分かってくれるようです。そして、それぞれの国の言葉で一緒に主の祈りを唱えます。そして、大体、同じぐらいの時間で祈り終わります。違う言葉ですが、同じ祈りを一緒に唱えて、一緒に閉じて、「アーメン」と言える。これは素晴らしい体験です。来られた方も、嬉しそうに見えるのです。そして、その時、言葉が違っても、同じ祈り、同じ内容の願いを捧げています。六つの願いを、違いはあっても、一緒に願っている。これも、素晴らしい体験です。

 今日のマタイの福音書でイエスは、祈る時に、人に見せるために祈ったり、同じ言葉をただ繰り返したりすることを禁じました。祈りが、神に対する祈りではなく、人に見せるためになる。そういう祈りは止めなさいと仰って、主の祈りが教えられたのです。ですから、「主の祈り」は私たちが人に観られたり聴かれたりすることを意識せずに祈れる祈りです。自分の願いを神様に聴いてもらおうと、長々と祈ることを避けさせてくれる祈りです。自分が上手に祈らなければ、とか、どういう言葉で祈ろうかと考えたりせずに、イエスが教えてくれた祈りを祈り、それが、世界中の全てのキリスト者と共通して祈れる、ということは大きな喜びです。

 祈りには「自由祈祷」と「成文祈祷」の2種類があります。
 「自由祈祷」は祈る人が言葉を自由に選んで、祈ります。イエスは、人に見せるためや、神様を操作する祈りを禁じましたから、どんな祈りでも自由に祈って良いのではありません。でも、神様への信仰によって、自分の言葉で祈ることは許されています。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 このように、自由に祈って良いのです。ところが、「自由に」といっても、実際は、私たちは自分の考える言葉しか出て来なくて、同じ言葉を繰り返しているだけ、ということが多いのではないでしょうか。自分が思いつける言葉には限界があります。また、自分の願いを自分で言葉にするのは、とても難しいのです。

 これと反対に「成文祈祷」は読んで字の如く、既に文章に成っている祈りの言葉を使って祈ります。主の祈りを祈ることは、そのような「成文祈祷」の一つです。それは、自由祈祷と違って、自分の言葉でない祈りなので、堅苦しく、余所余所しいように思うかもしれません。とても形式的で、心がこもっていないように思うかもしれません。私もずっと「自由祈祷」を重んじて、「主の祈り」以外の成文祈祷は軽んじるような雰囲気で育ってきました。そして、主の祈りは、本当に形ばかり、暗記して唱えることは出来ても、あまりその言葉の意味を味わうこともありませんでした。けれども、聖書の言葉や、教会の中で伝えられてきた祈りの言葉と出会って、その言葉の真実さに打たれました。イエスが仰った通り、自分の言葉を繰り返すより、祈りの言葉も教えてもらうものであることを知りました。自分の祈りの貧しさを知って、人の祈りから、自分の願いの方向性を定めてもらう体験をしました。例えば、祈りの言葉を集めた本もたくさんあります。私のお気に入りは『祈りの花束』です。また、沢山の祈りを集めた聖公会やカトリックの祈祷書もあります。そのいくつかを一緒に声に出して読んでみましょう。

神さま、どうかわたしをお守りください。海はひろく、わたしのふねは とてもちいさいのです。(フランスの漁師の祈り)

主よ、誰かが今日、命をおとすとしたら、それがこの私でありますように。私は用意ができておりますから。(炭鉱夫から伝道者になったビリー・ブレイ)

主よ、たといこの世の目に、またすべての人の前に人生の敗残者と見えようとも、私は少しも気にしません。あなたが、「よくやった」と言ってくださるならば。

 こうした言葉は、私たちの自由祈祷も豊かにしますし、一番の成文祈祷である「主の祈り」ももっと意味を味わいながら、祈るように助けてくれるます。そして、祈りの言葉が私たちの心に入って行く時に、私たちの生き方が変わり、私たちはその祈りの言葉のような人になっていくのです。イエスは主の祈りを通して、私たちの生き方、私たちの人格を新しくしようとしています。「主の祈り」を、毎日声に出して祈りましょう。

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