聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ28章18~20節「水とパンとブドウ酒」はじめての教理問答126~9

2019-08-13 14:52:13 | はじめての教理問答

2019/8/11 マタイ28章18~20節「水とパンとブドウ酒」はじめての教理問答126~9

 

 「水とパンとブドウ酒」。いったい何の事でしょう。しかし、イエス・キリストを信じる事と、この三つのものは切っても切れない関係があります。先週まで「主の祈り」からお話しをしてきました。今日からこの三つの話、「聖礼典」をお話ししていきます。

問126 聖礼典はいくつありますか? 

答 ふたつです。

問127 そのふたつとは、なにとなにですか?

答 洗礼式と聖餐式です。

問128 聖礼典を守るように命じたのは誰ですか? 

答 主イエス・キリストです。

問129 キリストはどうして聖礼典を命じられたのですか? 

答 おのれの民をこの世から区別するため、そしてその民を慰め、力づけるためです。

 私たちの教会では、二つの聖礼典の儀式を行います。教会で「儀式」というとなんだか不気味な気がするかもしれませんが、私たちはふたつの聖礼典を行います。それは、洗礼式と聖餐式の二つです。洗礼式や聖餐式については、次回から詳しく見ていきますが、簡単に言えば、洗礼式は、水で人を濡らす、入会式。聖餐式は、パンとブドウの汁をみんなで分けていただく軽食です。だから、水とパンとブドウ酒、なのです。この洗礼式と聖餐式を「聖礼典」として定めたのは、主イエス・キリストです。ですから、私たちは、主イエス・キリストが守るように命じられた洗礼と聖餐式を、ずっと大事にしていきます。それによって、私たちは、キリストの慰めや力をいただくのです。教会の教えはただの知識や言葉ではありません。礼拝で話されているお話しは、ただの思い込みではなく、本当の出来事です。水をかけられ、パンとぶどう酒をいただいた実感が、私たちが本当にキリストの恵みをいただいた実感になると信じるのです。

 洗礼も聖餐も、教会が考え出した儀式ではなく、イエス・キリストが定めた儀式です。教会が、勝手に付け加えたのであれば、聖礼典とは呼べません。長い間、教会には、この二つの他に、色々な儀式が続けられていたことがありました。洗礼の他に、司祭に任命すること、結婚、罪の告白、死ぬ前に油を塗って祈ること、などがありました。

 このどれもが大切な事です。けれども、イエスはそのような儀式を特別にお定めにはなりませんでした。私たちにとって大切でも、教会がそのことを特別な儀式にするなら、おかしなことになります。ですから私たちは、イエスが定めた聖礼典は、二つですとハッキリさせています。洗礼式と聖餐式は、イエスご自身がお定めになった儀式です。教会では結婚する人のために結婚式もしますし、死んだ方のお葬式も、病気の方のためには癒やしのお祈りもしますが、洗礼と聖餐式はすべての信徒が招かれている、キリストと結びつけてくれる儀式なのです。マタイの福音書の結びは、イエスのこの言葉です。

マタイ28:18…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。…」

 イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々を弟子としなさいと言われ、そこに「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け」とあります。「バプテスマ」とは日本語にすると洗礼です。洗礼を授けなさい、とイエスは言いました。イエスの弟子たちは、あらゆる国の人々に、イエスの言葉を伝えて、洗礼を授けるのです。ただイエスのすばらしい教えを伝えて、信じることを求めるだけではなく、洗礼を授けて、本当にあなたの罪は赦されて、新しいいのちを授かった、あなたはイエスに結ばれた、そうハッキリと見える形で表すことを弟子たちに命じたのです。だから教会は今も洗礼を授けるのです。そして、洗礼を受けた後は、聖餐式に与るようになります。

問129 キリストはどうして聖礼典を命じられたのですか?

答 おのれの民をこの世から区別するため、そしてその民を慰め、力づけるためです。

 ここに聖礼典は、私たちを、この世から区別して、私たちを慰め、力づける、とあります。水、パン、ぶどう酒そのものに、何か特別な力があるとは考えません。ただ、冷たい水を浴びたり、パンを食べたりぶどう酒を飲んだりすることは、話しを聞かされるのとは違って、私たちの体でキリストの福音を味わうことです。イエスの慰めと励ましを、頭ではなく、体で体験して、キリストは私たちを守ってくれます。

 キリストは、本当に生きておられます。この世界や見えるもの、見えないものもすべてを造った神様、私たちを体あるものとして造られたお方です。今、皆さんの体はどんな感覚がありますか? お腹が空いていますか? 眠たいですか? 椅子の座布団の感触はちょうどいいですか? 服の肌触りはちょうどいいですか? 体を動かさないとムズムズしたり、仲良しの人とタッチするのが楽しかったり、嬉しいと踊ったり、悲しいと病気になったり、美味しいものを食べたら幸せになったり。そういう体を持つ者として神は人間をお造りになりました。

 そして、その神が、私たちに触れて、やがて神の国で、本当に豊かないのちを注がれて、主の食卓を一緒に囲む、永遠の生き生きとした将来を示してくださっています。その世界の前味として、今、イエスは聖礼典を下さっています。それは、ただの御言葉の補助とか、教会の習慣にしている儀式というより遥かに勝って、神が私たちにやがて用意されている世界をのぞき見る時間です。神は、この世界を造られたように、永遠の世界を用意して、私たちもそこで恵みを体感しながら生きるのです。そして、そこに向かう毎日の生活においても、食べたり飲んだり、触れたり見たり、体の感覚を大事に研ぎ澄ませながら、生きていくのです。

 夕拝では聖餐式をしていませんし、礼拝でも聖餐式は月に一度だけです。しかし、聖餐式を行わなくても、礼拝の真ん中には聖餐の食卓があります。私たちは、主の食卓を囲む交わりです。聖餐に与るのは、洗礼を受けた後ですが、「洗礼を受けていないと聖餐に与れない」ではなく、「だれもが洗礼を受けて聖餐に与るよう呼ばれている」と思ってください。イエスは、私たちを、神の国の食卓に招いてくださっています。洗礼を授けなさい、とイエスは弟子に言い、聖餐を通して慰め、励ましを実感させたいのです。もし、洗礼を受けて、聖餐式に与りたいな、と思ったら、いつでも話してください。準備を始めましょう。私も、パンとブドウ酒が食べたくなったのが洗礼を受けてきっかけでした。食べ物や見えるしるしもまた、イエスが下さっている恵みの手段なのです。

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