聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答144~146 ルカ伝16章19~31節「死ぬとどうなる?」

2019-09-22 15:29:04 | はじめての教理問答

2019/9/22 ルカ伝16章19~31節「死ぬとどうなる?」はじめての教理問答144~146

 今日はまず、主イエスがお話になった一つの物語を聞きましょう。聞いた相手は、お金持ちたち。イエスのお話しを聞いても、彼らは心を動かそうとしませんでした。このお金持ちの人たちも、自分たちが贅沢をしたりお金を沢山儲けたりすることばかりを考えて、貧しい人やお腹を空かした人のことは心に留めていませんでした。自分たちは、聖書を学び、正しい生活をしているのだから、神に祝福をもらう権利が当然あると思っていたのでしょう。イエスはそのような人たちに対して、ズバリと語ったのです。

ルカ16:19ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。21彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

 贅沢に遊び暮らした金持ち、腹を空かせた貧しい病人。二人はどうなったでしょう。

22しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

 金持ちも死にました。立派なお墓だったでしょうね。贅沢に遊び暮らして、大きなお墓に葬られた金持ち。羨ましいぐらい幸せな人生にも思えますね。でも、イエスはこの金持ちは、アブラハムの懐ではなく、「よみにいった」とお話しするのです。

23金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

 「よみ」とは死者の行く場所です。それがどんな場所かは、よく分かりません。ここで言われているのは、金持ちはよみにいて、アブラハムとは遠く離れた所に見えた、という事です。アブラハムは聖書の最初に出て来る人のひとりです。金持ちにもラザロにもご先祖です。でも、金持ちはアブラハムの側ではなく、よみに行ました。金持ちの生き方は、アブラハムとはまるきり違ったのです。アブラハムはラザロを懐に抱いていました。わが子のように慰め、抱き寄せています。しかし、金持ちはラザロを気にもかけずに自分の贅沢な暮らしを楽しんでいました。懐どころか、食べ物の残りを恵むことさえしなかったのです。彼の生き方は、ラザロを抱き寄せているアブラハムとはまるきり違いました。だから死んだ後の場所も、アブラハムからは遠かったのです。

24金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

 金持ちは、アブラハムに、ラザロを送るように言います。炎の中で苦しくてたまらない、水を一滴持って来させてくれ、と言います。これにアブラハムは答えます。

25するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。26そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

 アブラハムは金持ちに、自分の生き方とラザロの対照的な生き方とを思い出させます。金持ちが選び、好んできた生き方は、聖書の示す道とは逆でした。その結果には越えようがない大きな隔たりがあります。光と闇、水と油以上に、本質的に相容れないのです。

27金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。28私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

 この金持ちは、自分の間違いを最後まで認めません。ラザロがよみがえって私の家族に教えに行かせよ、と今でもラザロを見くびって、命令する立場にいると思っています。自分が苦しい目に遭っているのは、もっとちゃんと教えられていなかったせいだ、と最後まで言い張るのです。「ラザロよ、悪かった。ごめんなさい。アブラハムよ、私の生き方はこんな場所に来てもしかたがなかった」とは言いません。「あなたの所に行きたい」とも言わないし、ただこの熱さや苦しみの文句を言うだけです。もしラザロを寄越したら、その手を握ってよみに引きずり込むつもりじゃないかと思ってしまいます。

 神は聖書を通して、私たちに語っています。神が私たちとともにおられ、私たちもお互いにともにいる生き方を教えています。聖書だけでなく、貧しい人、困っている人を通して、またその人達を大事にして共に生きようとしている人たちの姿を通して、私たちにともにいるよう、語っています。アブラハムや聖書の多くの物語が、私たちに与えられている、向きを変えて神を信じ、互いに助け合えという、生きた招きです。でも、そうした神の「ともにある」招きを拒んで、自分たちの楽しみだけのために生きて人生を終わるなら、その願いの通り、神から遠く離れたよみに行くことになるのです。

問144 信徒は死ぬとどうなりますか?

答 わたしたちの体はちりにかえり、魂は主ととともに永遠にあります。

問145 不信者は死ぬとどうなりますか?

答 その体はちりにかえりますが、魂は地獄に落ちます。

問146 地獄とはなんですか?

答 神さまを信じないものが、神さまから切りはなされ、おのれの罪のゆえに苦しむ恐ろしい場所です。

 死後、主とともにいます。幸せな天国というより、何より

「主とともにいる」

 これが聖書の語るゴールであり、慰めです。この世界を造られた神、恵みに富み、貧しい人をも愛される主とともにいる。私たちも本当にこの神と一緒にいたいと願い、一緒にいればいるほど、神の素晴らしさを永遠に喜ぶ。そういうゴールを聖書は語るのです。

 反対に、地獄とかよみとは、何よりも

「神様から切り離され」

ている場所です。火や苦しみという表現はあっても、何より、神から切り離されている場所です。それは神の罰ではありません。神は人間とともにいたいのです。人間が、神を拒んで、神に背を向けたのです。人は神と共にいることも、神が愛する全ての人をも拒んで、自分さえ良ければ良い、という生き方を選ぶようになっています。最後はよみで孤独に苦しむとしても、それでも神に立ち帰って、悔い改めようとは思えない。それが、人間の姿です。

 神は、そういう人間である私たちの中に、神を信じる心を下さいます。神とともにいたい、そして、人とつながり、助け合い、出来る事をして、ともに生きていく世界に行きたい、という思いを下さるのです。神から切り離され、苦しみ、恨み続ける終わり方はしたくない、そういう思いも神からの贈り物です。そんな神を信じる心をいただいているなら、死んで体は葬られても、終わりではありません。神は私たちを迎え入れ、アブラハムがラザロを受け入れたように、私たちは神の元に受け入れていただくのです。

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