聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答124~125 マタイ4章1~11節「試みにあわせず」

2019-07-28 21:20:47 | はじめての教理問答

2019/7/28 マタイ4章1~11節「試みにあわせず」はじめての教理問答124~125

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、とても大切な祈りのお手本です。イエスは六つの大事な願いを教えてくださいました。その最後の願いを、今日は見ましょう。

問124 第六の願いごとはなんですか? 答 第六の願いごとは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」です。

問125 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」とはどういう意味ですか? 答 わたしたちを誘惑から守り、誘惑されたときにはそれに惑わされないよう、強くしてくださいという祈りです。

 天の父に願うべき、大切な願いの最後は「私たちを誘惑から守り、誘惑に惑わされないよう、強くしてください」という祈りです。イエスはそう教えてくださいました。そしてそう教えるだけでなく、イエスご自身が誘惑を経験してくださいました。その事が、今日読んだ、マタイの四章に書かれていました。イエスは、人々を教えたり癒やしたりする働きを、三〇歳ごろから3年間なさったのですが、その働きに出て行く前に、荒野に行って悪魔の誘惑と戦いました。活動を始める前に、まず、厳しい誘惑に、自分を晒したのです。それは、私たちを教え、救うために、どれほど誘惑という問題が大きいか、イエスの働きにとって、人間を惑わそうとする悪の問題が決して避けては通れないと思われたか、を現しています。誘惑、試みは、私たちの生活に付きまとっています。

 イエスは、荒野でまず四〇日、何も食べずに過ごしました。お腹がぺこぺこだったでしょう。するとそこに悪魔が近づいて来て、言いました。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」石をパンに変える? そんなことは私たちには出来ませんね。けれども、イエスは神の子でしたから、石をパンに変える力も持っていました。しかし、この時イエスは、そんな力で自分が神の子であることを証明しようとはしませんでした。私たちと同じ、ひとりの人間として神様の養いに信頼しました。イエスは

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある」

と応えたのです。四〇日何も食べていなかったのですから、石をパンに変えられたら、と思わなかったはずがありません。しかし、イエスは悪魔からそう誘われても、それには流されませんでした。

 次に悪魔はイエスを神殿に連れて行き、そのてっぺんから飛び降りるよう勧めました。聖書にも、神様は守って下さるって書いてあるんだから、飛び降りてみなさい。そうしたら神殿に集まっている大勢の人は、神殿のてっぺんから降りて来たイエスを見て、驚いて、イエスの弟子になりたがるでしょう。断食をしたり、十字架にかかったり、遠回りの道をしなくても、皆の心を一気につかむことが出来るでしょう。でも、イエスはここでも悪魔に耳を貸しませんでした。聖書に書いてある言葉を、自分に都合良いように使うことはしませんでしたし、人を驚かせて、人気者になろうとも思いませんでした。

 最後に悪魔は、世界中の国々の輝かしさを見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」。悪魔にひれ伏せば、悪魔はイエスに世界を上げよう、というのです。神様に従わなくても俺にひれ伏せば、助けてやろうと申し出たのです。イエスはこう答えました。

下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」。

 本当の神以外の何者をも礼拝してはならない。それが聖書で言われている事だ。悪魔が神のように礼拝されたい、世界を引き替えにでも、自分を崇められたいと思っても、それに従うことは出来ません。世界や命や人生を引き替えに約束されても、神ではないものを拝むことはしない。

 そうイエス様はきっぱりとサタンの申し出を退けました。そして、イエスは人々の所に行ったのです。人からスゴいと言われ、楽な格好良い、そして悪魔と取り引きするような華やかな道では無く、イエスの生涯は飼葉桶から始まる低い生涯でした。貧しい人の所に行って友となり、集まった人に神の国の話をし、病人を癒やし、弟子を教育しました。人から誤解され、馬鹿にされ、憎まれ、最後は十字架に殺されました。どんなに損をしようと苦しもうと、人からどう見られようと、イエスは神様に従い、人として歩みました。その私たちとともに歩むイエスの生涯が、私たちの希望なのです。

ヘブル2:17…イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。…18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。…4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

 穴に落ちた人を助けるには、登り方を教えることも出来るでしょう。ロープを下ろすことも出来るでしょう。しかし、イエスはその穴の中に飛び込んで、私たちの所に来て、一緒に上らせてくださるのです。イエスは、神の子で石をパンに変えることも出来るのに、それよりも私たちとともにいて、人としての私たちを助けてくださいます。

 生きていると病気や問題や悲しいことがあります。そういう苦難が「試練」とよく呼ばれます。でも、苦しい事だけでなく、もっと楽をしたい、苦しみを避けたい、人から認められたい。そういう誘惑も沢山あって、嘘やズルや悪事へのきっかけになります。その結果、人を悲しませ、神様を悲しませて、大きな後悔になります。ですから、

「私たちを試みに遭わせず悪からお救いください」

とは、ただ苦しい目に遭わせないでください、という以上の祈りです。私たちが、神様を信頼して、神様の導きに信頼して生きていけますように。苦しいことも、うまい話も、冒険も臆病も、色々な誘惑がありますから、どうぞそうしたあらゆる試みから守ってください。でも、誘惑は避けられませんから、どうぞ悪からお救い下さい、惑わされないように、私たちを強くしてください、という祈りです。そして、そう祈りなさいと教えてくれたイエスは、本当に私たちと同じ人間となって、誘惑を味わい知ってくださっています。私たちを助けてくださいます。また、誘惑に私たちが惑わされても、最後には必ず救い出してくださいます。私たちは、その神の助けを求めるだけでなく、神がイエス・キリストによって人生を導いてくださいと願います。人の声に振り回されそうになっても、神が私を導いて、私を守り、救い出してくださると信頼して、お預かりした私の人生を歩ませて戴きましょう。

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