今日、奈良に向かうJRの車窓から久宝寺駅を通過する時に親父の入院している病院が見えた、
あの窓の向こうに親父がいるんだなと言う感覚をどこかで味わったなと考えていたら、一番下の
息子が幼少の頃、腸炎で暫く入院していた時に家に帰る電車の中から見ていた時と同じだと
思うと少し切なくなりました。
病院から見る風景って何だか寂しく感じます、外の世界は明るいのに自分はそれを見ている
病気という何だか、内側の世界だと思えてなりません。みんなが気楽に明るく見えるのは
何だか羨ましく、言葉を悪く言うと妬ましい感じで見えるからかも知れません。
外から見る病院は、そこに知っている人が居なければ単なる風景の一部だけど今は電車から
見えて来る窓に何だか言いようのない何かを感じます。
先日の出雲大社のお守りの御利益があった様で、元気にお土産の佃煮をおかずに食欲が出た
感じでありがたく思っています。
窓辺からそのお守りが見守ってくれている、病室の風景が今少し明るくなりつつ有るのを
お袋と実感出来る様になってきたなと話しています、退院ももう少しかも知れません。
あの窓の向こうに親父がいるんだなと言う感覚をどこかで味わったなと考えていたら、一番下の
息子が幼少の頃、腸炎で暫く入院していた時に家に帰る電車の中から見ていた時と同じだと
思うと少し切なくなりました。
病院から見る風景って何だか寂しく感じます、外の世界は明るいのに自分はそれを見ている
病気という何だか、内側の世界だと思えてなりません。みんなが気楽に明るく見えるのは
何だか羨ましく、言葉を悪く言うと妬ましい感じで見えるからかも知れません。
外から見る病院は、そこに知っている人が居なければ単なる風景の一部だけど今は電車から
見えて来る窓に何だか言いようのない何かを感じます。
先日の出雲大社のお守りの御利益があった様で、元気にお土産の佃煮をおかずに食欲が出た
感じでありがたく思っています。
窓辺からそのお守りが見守ってくれている、病室の風景が今少し明るくなりつつ有るのを
お袋と実感出来る様になってきたなと話しています、退院ももう少しかも知れません。