科学史の研究者の武谷「三段階論」の評価は人にもよるのだろうが、科学史の実証的な研究者にはその評価は余り芳しくない。
ところが一方では科学の研究者を中心にしてその評価は高いと思う。この落差はどこにあるのだろうか。
私は科学史の研究を主とするものではないので、残念ながら実証的な学風の科学史研究者の意見を支持することができない。
これは科学史の研究として武谷三段階論は確かに成り立っていると思っているということではない。あるいは広重徹が「科学史の研究からは武谷三段階論を正しいということはできない」という、指摘は本当かもしれないとまで思っている。
だが、一方で科学の考え方の新しい一面を開いたということと、それを使っていろいろ考える自分がいるという事実から武谷三段階理論の評価は来ている。
だから、武谷の文献を読んでこれは本物だと思ったとかということではない。または広重の論文を読んでその主張が間違っているとか思ったということでもない。もちろん、直接に広重が三段階論について触れた論説には不満があるのは事実である。しかし、間違ってはいないのではないかと思うところもある。
しかし、そういう話といま現在私が実感としていることはちょっと違う。そうではなくて何かものごとにあたって自分がその困難を克服しようとするときに自然に三段階論的に考えることが多いという、それだけである。これは厳密な意味ではない。
だから武谷は新しい一つの考え方を提供したのだという評価をしている。
もともと、武谷三段階論は大いなる誤解から来ているかもしれないが、それにしても新しい科学の考え方を与えたことは事実である。