神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

長崎村分水口

2019-03-16 06:29:55 | 谷端川・小石川1

 長崎村分水は四ヶ村分水ともいい、当初から一貫して長崎、池袋、中丸、金井窪の四ヶ村の田用水となっていました。開設後まもなくの事情を反映していると思われる「千川上水給水区域(千川家文書)」には、長崎村分水に関し「此水口より池袋村中丸村金井窪村に相懸り申候」と付記されています。分水口は現要町三丁目交差点内にあり、樋口の大きさは文献によって異同がありますが、上記「千川家文書」では「内法七寸四方」、明治10年の「星野家文書」で「幅六寸五分高六寸三分壱厘」と、1尺四方以上の規模を有した七ヶ村分水に次ぐものでした。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  千川上水と並行する都道420号線は開通したばかりでした。グレーで重ねたのは、当時未着工の要町通りです。  

 それが、昭和に入り農業用水としての需要が激減したのに伴い、長崎村分水の必要性も低下します。以下は昭和15年(1940年)ころ、武蔵高校生徒による千川上水の現況調査報告の引用です。「この庚申橋の稱々下流には釣堀がある。釣堀の裏の所から、千川の分水の中最大のものである谷端川(所謂長崎村分水)が岐れる。この分水は、池袋、板橋、巣鴨を経て小石川で江戸川に注ぐもので、近年まで分水口には立派な鉄の水門があり、扉によって開閉したが、今日は水量が僅かとなり、水門の必要がなくなったので、僅かに四寸四方の穴を穿ち、千川から水を引いているに過ぎない」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」千川の会による復刻版) 

 

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    ・ 要町三丁目交差点  手前の横断歩道付近を千川上水が流れ、長崎村分水は正面奥の通り方向に分岐していたはずですが、要町通りの開通によってその痕跡は失われました。

 同報告にはもう一ヶ所長崎村分水に触れた所があります。「長崎村分水 谷端川と呼んでゐるが、千川と武蔵野線との交叉点より約一粁下流、板橋区要町四丁目から出て・・・・、後楽園の横を通り、神田川に入る全長十一粁に及ぶ長大なもので、分水中最大のものであり、現在もよく分水口の様子が残ってゐる。千川文書によれば水口は七寸四方であるが、現在は三寸四方程に縮小し、僅かの水が流れてゐるに過ぎず、殆ど下水に等しい。現在は板橋駅前から暗渠に入ってをり、開渠されてゐる部分の水路も二三年前改修され、急速に住宅が立ち始めた」 この個所には石垣に穴を穿っただけの分水口の略図も添付されています。