神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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千川上水と谷端川

2019-03-14 06:26:55 | 谷端川・小石川1

 自然河川としての谷端川の源流は、粟島神社境内の弁天池をはじめとする、旧長崎村周辺の湧水です。これらは井の頭池、善福寺池など、地下水脈が溢れ出すのと異なり、地表近くの溜り水を水源としていました。宙水と呼ばれるもので、降水量に左右されるため、農業用水としてはあまりあてになりません。そこで、宝永4年(1707年)には、流域の村々は千川上水からの分水を願い出、以降、谷端川の最大の源流はその分水となります。そのため、江戸時代の地図や文献では、上流域の谷端川は千川分水とか長崎村分水、四ヶ村分水などと呼ばれました。

 

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    ・ 千川上水と谷端川  「御府内沿革図書附図」(嘉永7年 1854年)に描かれた千川上水と、巣鴨村までの谷端川をイラスト化したものです。なお、同附図では谷端川は千川分水となっています。

 四ヶ村とは長崎、池袋、中丸、金井窪の各村で、より下流にある滝野川、巣鴨の両村は、中山道まで達した千川上水から、個別に助水を得たのち、その余水を谷端川に落としていました。これら各村の千川上水への依存度はまちまちですが、なんといっても最上流にある長崎村がダントツで、明治初めの数字ですが、全水田面積17.7町歩のうち13.8町歩を依存しています。以下、池袋村3.4(15.3)、中丸村1.1(5.4)、金井窪村1.9(6.4)、滝野川村0.5(6.1)、巣鴨村1(7.5)です。ちなみに、上下井草村など六ヶ村の場合、六ヶ村合計で81.8町歩中64.2町歩を千川上水に依存していました。

 

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    ・ 千川上水  要町3丁目交差点前の千川上水跡で、現在は遊歩道や駐輪場になっています。交差点に入ったところにあった分水口から、長崎村分水は右手に分岐していました。  

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    ・ 粟島神社  大正末から昭和の初めまでは、雑木林に囲まれた弁天池からの小川が、写真の左手から手前へと流れる長崎村分水に注いでいました。現在の→ 池の水はポンプで循環しています。