神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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五日市街道

2015-03-16 07:12:17 | 千川用水1

 杉並区梅里1丁目で青梅街道から分かれ、吉祥寺、砂川を経て伊奈宿、五日市宿(現あきる野市)に至る全長42kmの街道で、横田基地周辺など一部を除き、現在の都道7号杉並あきる野線とほぼ重なっています。江戸城と江戸市街建設時には石材を、やがて秋川谷の炭荷や沿道の作物を江戸に運ぶ生活道路となり、当初は伊奈道、やがて五日道、青梅街道脇道などと呼ばれていました。各区間ごとのローカルな名前もあり、玉川上水・千川上水の左岸に沿っていたこのあたりでは、砂川道、江戸道が一般で、五日市街道となったのは明治以降のようです。玉川上水とその分水が開削され、武蔵野台地の新田開発が促されると、街道沿いに大宮前、中高井戸、松庵、吉祥寺、西久保、関前、保谷などの各村が誕生、玉川上水と五日市街道は武蔵野新田の二大ライフラインでした。

 

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    ・ 武蔵野大学前交差点  左手が武蔵野大学キャンパス。千川上水と遊歩道は直進、五日市街道は右カーブで分れ、吉祥寺駅方面に向かいます。→ 「東京近傍図」のように、本来は五差路になっていました。
 

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    ・ 五日市街道  武蔵野大学前交差点で右カーブ、吉祥寺駅方向に向かう五日市街道です。およそ11kmで、高円寺陸橋手前の青梅街道との分岐点に至ります。

 <御門訴事件記念碑>  五日市街道を吉祥寺方向へ150メートルほどのところに、御門訴事件記念碑が建っています。明治2年(1869年)、新政府は社倉制度(飢饉に備えた貯穀制度)を布告します。これを実質的な増税ととらえた関前村など武蔵野新田12ヶ村は、翌明治3年1月、700余名をもって当時の管轄庁である品川県庁に門訴します。門訴というのは門前での直訴で、門内に入ると強訴として重罪になります。結果、出穀量の減免を得ましたが、農民側も50余名が逮捕、うち数名が犠牲という代償を払いました。

 

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    ・ 御門訴事件記念碑  明治27年(1894年)、犠牲者を慰霊し事蹟を後世に伝えるため建立されました。碑文の撰者中島信行は、当地が品川県から神奈川県に管轄がえとなった後の神奈川県令で、のち自由党副総裁、最初の衆議院議長です。