昨日UPの三郡橋の下流、300m弱のところに、新座郡上保谷村と豊島郡関村の境がありました。上水復興時の護岸工事見積り、「千川素堀筋普請所積見分」(安永9年 1780年)によると、三郡橋と思われる無名の土橋から合計して163間(≒297m)のところに、「関村分水口 保谷関村境」と書かれています。「関村水口内法五寸四方 此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」 これは「東京市史稿上水編」の引用する「千川家文書」の記載で、 宝永4年(1707年)に田用水への転用が認められた当初からの分水のようです。
- ・ 「関村絵図」 練馬区教育委員会「絵図にみる練馬」に収録された「関村絵図」中の一葉を元に、その一部をイラスト化したものです。元になった絵図は天明4年(1784年)の作成で、他に文化3年(1806年)のものがありますが、後者には分水路は描かれていません。
関村分水の流路については、天明以前に存在した、「東京市史稿上水編」の記す当初の関村分水も、このようなルートだったかどうかはわかりませんが、「此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」とあることから、いったん溜井に落ち、石神井川により上下石神井村に向かったのは間違いないところです。上下石神井村は当初、→ 「取調絵図」に描かれたような、独自の分水口を有していなかったものと思われます。
- ・ 上保谷関村境 現在の住居表示では、左手西東京市東伏見(4丁目)、右手練馬区関町(南4丁目)なので、この何でもない路地が23区と多摩を分けていることになります。
- ・ 上保谷関村境 最初に左カーブした後は、青梅街道までほぼ直線ですが、「練馬の文化財(千川上水特集号)」に掲載された聞き取りによると、昭和20年代以降の改修の結果です。