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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

エンガ堀支流4

2015-08-22 08:27:00 | 千川用水5

 → 「東京近傍図」に見るように、エンガ堀にはもう一本の小支流が合流していました。環七通りと要町通りの交差する、武蔵野病院前交差点付近から発していたものです。「近傍図」にも水田が描かれていますが、この支流も灌漑用水として機能していました。そのため、複数の側流のあったことが予想されますが、現在確認できるのは一流のみです。これは昭和10年代に改修があり、単線化、直線化がなされたためで、この点で上流域や前回の支流の水路跡とは決定的に異なっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。改修後の「昭和32年第五回修正」は→ こちらでどうぞ。

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    1. 向原団地内のエンガ堀跡の遊歩道です。左手から合流する路地をさかのぼります。

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    2. 右折、左折のクランクです。この付近でエンガ堀の左岸流と交差していた名残のようです。

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    3. 狭い路地を抜けます。その先の幅広道路の中央分離帯が水路跡です。 

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    4. 中央分離帯の水路跡は環七通りの手前まで、5ブロック、400mほど続きます。

エンガ堀支流3

2015-08-21 06:46:44 | 千川用水5

 「村内に溜池三箇所あり、一は字大谷口にありて面積千三百九十六坪、二は字向原にありて面積三百九十坪、共に字山崎向原の用水となる、三は字小竹に在り、面積七十坪許、浅間神社の後に當り昔より同社の御手洗と稱へらる。」 大正7年(1918年)発行の「北豊島郡誌」にある、上板橋村の水利に関する一節です。最後の浅間神社の御手洗池が今回の小支流の水源と思われ、下掲「地形図」にも描かれています。なお、小竹は「新編武蔵風土記稿」にも収録された上板橋村の字ですが、戦後の練馬区成立時に、南隣の江古田町(旧江古田新田、現旭丘)と共に同区に移管されました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正測図) / 練馬」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 江古田駅近くの通りを越える右岸流で、その先は水路単独の狭い路地です。昨日UPの駅前からのショットは→ こちらです。

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    2. 路地は50mほどで行き止まりですが、「下水道台帳」によると、「公共溝渠(暗渠)」はさらに100mほど続いています。

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    3. 左岸流の先端の区画です。幅広道路の右手の歩道が車止めでガードされています。 

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    4. 正面奥で右手の歩道が途切れますが、そのあたりに、御手洗池はあったものと思われます。

 <江古田富士>  → 「東京近傍図」で、現江古田駅の北側に描かれた丸印が江古田の富士塚、通称江古田富士です。→ 浅間神社の境内にあって、社殿奥の茂みが江古田富士ですが、柵に囲まれていて立ち入ることはできません。正月三が日には一般公開されています。傍らの解説プレートによると、富士講の一つ、小竹丸祓講によって、天保10年(1839年)に築造されました。文化年間(1804~18年)との説もあるようです。高さ8m、直径30m、関東大震災で倒壊したのち復旧されました。国の重要有形民俗文化財に指定され、練馬区登録有形民俗文化財でもあります。

 


エンガ堀支流2

2015-08-20 06:29:50 | 千川用水5

 江古田駅北から発する小支流を追っての二回目です。品川電線の敷地を過ぎると、途絶えていた南側の水路(右岸流)も復活します。どちらも車止めや段差、それらしい蛇行の跡を残しており、20mほどの狭い間隔を保って、先端までの数百メートルを並行しています。なお、東京都の「下水道台帳」を見ると、左岸流は今回扱う区間全体が「水路敷」となっており、一方、右岸流のほうは次回扱う先端部分に「公共溝渠(暗渠)」の書き込みがあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左写真はここで復活する右岸流跡、右写真は前回の続きの左岸流跡の路地です。

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    2. 同じく左右の水路跡ですが、両者の間隔は正面に写る家一軒分しかありません。左手から見通したショットは→ こちらです。

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    3. この区画の右岸流は道路の一部となり、右手の歩道がその跡です。

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    4. 左岸流のほうは相変わらずの路地ですが、右手が崖面になっています。

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    5. 右岸流の続きです。先ほど右手の歩道が水路跡だと書きましたが、ここは車止までついています。

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    6. 左岸流跡の路地はここまでで、この先は広い通りに出ます。右写真は右岸段丘上にある江古田駅前からのショットです。

エンガ堀支流

2015-08-19 06:28:30 | 千川用水5

 二つの悪水吐が合流していた郵政宿舎付近まで戻ります。→ 「東京近傍図」にもあるように、要町通りまでの間の左手から、もう一つの支流が合流していました。江古田駅の北から発する700mほどの小支流で、「近傍図」では単線になっていますが、20m前後の狭い間隔で並行する二流が確認できます。例によってその間隔が灌漑している水田の幅と重なり、昭和20年代まで田用水として機能していたようです。合流地点付近で開業した品川電線を皮切りに、同30年代までには宅地化が進み、生活排水路となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 二本の悪水吐の合流地点から50mほどのところです。右岸流と重なる左手の道路は、→ ワンブロックで品川電線に突き当たって終了します。 

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    2. 向原ゴルフセンター前です。右写真は左手の道路を見通したもので、60mほどのところに、もう一つ車止めが顔をのぞかせています。

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    3. 左岸流跡に設けられた車止めです。ここから江古田駅北までの700mほど、「下水道台帳」の「水路敷」は連続しています。 

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    4. 正面に品川電線の工場が見えてきました。右手奥の車止めは、この区画でしか見られないものです。

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    5. 同社の創建は昭和10年代なので、「空中写真」に写るのもその建物なのでしょう。

エンガ堀2

2015-08-18 06:40:27 | 千川用水5

 「エンガ」の由来は不明ですが、「いたばしの地名」(平成7年 板橋区教育委員会)によると、埼玉県には「排水堀で川へ落ちる部分」との方言があるそうです。当地のエンガ堀も、石神井川との合流地点に広がる田んぼの用水堀として機能してきました。それが、田んぼが宅地に転換されるとともにその機能を失い、昭和40年代後半には暗渠化され、現在は地下は下水道向原幹線、合流地点付近の地上はエンガ堀緑道となっています。暗渠化が遅かったこともあり、合流地点の直線的な区画を除くと、水路跡のほとんどはクネッた路地として残され、現在の地図上でもたどることができるほどです。

 

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    ・ 向原団地  かっての向原田んぼは宅地化され、昭和30年代には向原団地が建設されました。当時相次いで建設された新興団地の例にもれず、築50年を経て建替えが進行中です。

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    ・ 向原団地  この区画は左手が崖面になっています。→ 「段彩陰影図」に見るように、左岸は舌状台地になっていて、根の上(ねのかみ)と呼ばれ、お約束通りの遺跡が発掘されています。

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    ・ 地蔵橋跡  向原団地の敷地を抜けると、やや右手に緑道が顔をのぞかせています。ここに地蔵橋が架かっていました。右手に上る坂の中腹に地蔵堂があり、それが坂や橋の由来となりました。

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    ・ 合流地点(耕整橋)  橋名は耕地整理の際出来たの意でしょう。「地形図」を追ってみると、昭和12年の「第四回修正測図」までに、石神井川は現行のように改修され、それと合わせてエンガ堀の合流部分も直線化、周囲は碁盤状に整備されています。

エンガ堀

2015-08-17 06:35:39 | 千川用水5

 西武池袋線の踏切付近、及び明豊中学前から発した二本の水路は、→ 「東京近傍図」にもあるように、練馬区、板橋区、豊島区の区境付近で合流し、さらに江古田富士のあった浅間神社裏からの流れや、環七と要町通りの交差する付近からのものを合わせていました。 板橋区教育委員会発行の「いたばしの地名」によると、この小河川はエンガ堀と通称されていました。エガ堀とも呼ばれ、「江川」と表示することもあったようです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / エンガ堀」(1/18000)  「東京近傍図」や「迅速測図」に描かれた水路を重ねています。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに練馬、板橋、豊島、中野の各区です。

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    ・ エンガ堀  合流後300mほどで、要町通りに突き当たって中断するところです。途中左手から合流していた浅間神社裏からの流れは、次々回扱う予定です。

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    ・ エンガ堀  要町通りの先で、右手が崖面になっています。「段彩陰影図」からも読み取れるように、この区画は右岸の際を流れていました。 

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    ・ エンガ堀  右手上に一部見えていますが、向原団地に差し掛かります。ここから先はカラーブロックなどで緑道化されており、石神井川との合流地点まで、迷うことはありません。

悪水吐の合流

2015-08-15 06:41:11 | 千川用水5

 今回は二本の悪水吐の合流している区域を扱います。→ 「東京近傍図」では、板橋区と豊島区の境(地図当時は上板橋村と長崎村の境)となっている道路の手前で合流していますが、実際には左右の側流が絡まった複雑な流路を形成しており、「近傍図」に描かれているもの以外に、境界上で合流するもの、200mほど先で合流するものもありました。いずれを本流とみなすかによって、合流の仕方も地図それぞれとなっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後の→ 写真で、右手に向かう水路の続きです。左カーブで区境の道路を越えます。

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    2. 右手が高くなっていて、右岸の際にあるのが分かります。

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    3. 郵政宿舎の敷地に差し掛かります。ここで左手からの水路と合流していました。

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    4. 一本目の悪水吐にかかわる水路と、前回の最後の写真の左手の水路の合流地点で、どちらの写真も、横切っているのは区境の道路です。

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    5. 「昭和32年第五回修正」には4.で合流後、5.に向かう水路が描かれており、また、下水道向原幹線のルートとも重なっています。右岸流に比べ水路跡の特徴は明らかで、こちらが最後まで残ったのでしょう。

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    6. 郵政宿舎の敷地に差し掛かり右カーブします。その先で右岸流と合流後、左折して北に向かいます。

二本目の悪水吐2

2015-08-14 06:26:47 | 千川用水5

 長崎悪水吐のうち、現明豊中学前を潜樋で越えていたものの二回目で、閉鎖された第十中学校のキャンパスの西縁をめぐり、一本目の悪水吐にかかわる水路と合流するまでです。なお、→ 「東京近傍図」には一流しか描かれていませんが、こちらにも側流がありました。20m前後の間隔を置いて左手を並行しているもので、その間にある水田の灌漑用水となっていました。左岸流は200mほど途切れることなく続き、一本目の悪水吐の右岸流と合流しており、これは「郵便地図」などが描く流路と一致しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左写真は前回最後の写真から50mほどのところ、右写真はその一つ左手にある路地で、まずこちらからたどります。

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    2. 左手の路地の先で、長崎6丁目児童遊園の脇を抜けるところです。周囲より一段低く、水路跡の特徴は明らかです。

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    3. 幅広の道路に出たところで、一本目の悪水吐の右岸流と合流します。前々回UPした→ 写真のところです。

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    4. 右手の幅広道路に戻り、10年ほど前に閉鎖された第十中学校跡地に差し掛かります。水路は通りの左側にありました。

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    5. 右写真の左手に車止めが見えますが、路地はすぐに行き止まりになり、水路跡かどうかは不明です。

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    6. 左手から前々回最後の→ 写真に写る水路が合流します。その先で道路と同様水路も分岐していました。

二本目の悪水吐

2015-08-13 07:14:57 | 千川用水5

 都道420号線にいったん戻り、西武池袋線を越えたところから先に進みます。千川上水は進行方向右側の歩道にありました。踏切から350mほどで右手に水道端派出所が見え、その付近に「千川上水路図」に描かれた5番目の、(所有者の名前から)岩崎水車と通称される水車がありました。その先から右側の歩道が順次高くなっていきます。「千川素堀筋普請所積見分」によると、最初の悪水吐から281間(≒511m)のところに二つ目の潜樋を設け、その前後66間(≒120m)には「土手弐尺高巾九尺」が築かれていました。土手を築いて上水を通す築樋と悪水をトンネルで通す潜樋を組合せ、上水と下水を立体交差させているところで、石神井川に合流する谷筋を迂回することなく越えるための工夫です。(→ 「段彩陰影図」の上流から三番目の「☓」印)

 

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    ・ 都道420号線  水車は右手に入る通り奥の建物付近に設置されていました。なお、岩崎水車は→ 「東京近傍図」以降、大正12年の「第二回修正測図」まで描かれています。

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    ・ 都道420号線  明豊中学前の築樋の最も高いところです。地下に設けられた潜樋に関し、武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」には「一小流は地下を潜り、遙か下で再び地上に現れる。」とあり、昭和15年(1940年)当時、まだ機能していたようです。

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    ・ 水路跡  上掲写真の左手で、潜樋が「再び地上に現れる」ところです。千川上水の南側の水路を描いた地図類は未見ですが、ここから下流については「近傍図」などに描かれています。

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    ・ 水路跡  100mほどで水路単独の路地から出て、幅広道路の一部となります。その先300m弱で前回最後の水路と合流しますが、詳細は次回のテーマとします。

長崎悪水吐3

2015-08-12 07:07:38 | 千川用水5

 千川上水の悪水吐から農業用水へと転用されたと思われる水路を追っての三回目で、さくら小学校の脇を抜けるところからです。今回の水路はこれまでの中村、中新井村などの分水と異なり、(少なくとも上流域は)昭和初期の区画整理を経過しませんでした。区画整理によって、直線化、単線化されることがなかったため、自然河川そのままの蛇行と、灌漑用水の面影を残す複数の流路が特徴です。のち生活排水路化し、昭和30年代には暗渠となりました。現在はその代替となる下水道向原幹線が、さくら小学校の北側角から石神井川との合流地点である耕整端まで同じルートを取っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. さくら小学校の先です。水路プラス道路の幅広区間の奥には、水路単独の車止め付き路地が顔を見せています。 

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    2. 車止めはワンブロックで終了ですが、右手の先には、中央に植込みのある緑道が顔を見せています。 

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    3. 一つ右手にある路地です。「空中写真」の右岸流と一部重なりますが、左折後途切れます。

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    4. 3.の続きと思われるところです。左写真の右手から合流があります。

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    5. ここでも右手からの水路と合流します。二つ目の長崎悪水吐とかかわるもので、次回のテーマです。

長崎悪水吐2

2015-08-11 06:45:44 | 千川用水5

 西武線踏切先で線路と平行する、長崎悪水吐と目される水路を追います。周囲から一段低いこと、地図からもそれと読み取れるクネクネ感、途中から出現する車止めと、水路跡の三点セットがそろっており、迷うことはありません。その上、練馬区(旭丘2)と豊島区(長崎6)の区境と重なっていますが、これは江戸時代から明治、大正にかけて、流路が上板橋村と長崎村を分けていたことの名残です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 100m弱線路と並行したあと、右カーブで離れます。この付近で左手から区境沿いの水路が合流していました。

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    2. → 「近傍図」を見ると、このあたりから狭いながら水田になっています。

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    3. 路地は細かく蛇行しながら、右カーブで東に向きを変えます。

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    4. さくら小学校のキャンパスに突き当たり左折します。なお、かってはこのまま直進する水路(右岸流)もありました。

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    5. 左折、右折のクランクで、キャンパスの北側に回り込むと、その先に車止めの路地が出現します。

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    6. 100mほど続いたあと、さくら小学校を離れます。

長崎悪水吐

2015-08-10 06:26:38 | 千川用水5

 「長崎村分 一 百廿八間半メ 長崎悪水吐 潜樋 土手堀下八間程」 「千川素堀筋普請所積見分」の「水番敷五間半四方有 是より堀敷長崎分」に続く記述です。南長崎6丁目のV字ターンから128.5間(≒233m)のところに、悪水(下水)との立体交差のため、潜樋を設けていたと読めます。「見分」は長崎悪水吐として、この場所を含め三か所に潜樋を設けています。→ 「段彩陰影図」に書き込んだ、V字ターン後の三つの☓がそれで、うち、前の二つは石神井川に合流する谷筋にかかわります。V字ターンからして、この谷筋を避けるための迂回でした。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに練馬、板橋、豊島、中野の各区です。

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    ・ 西武池袋線踏切  南長崎6丁目のV字ターンから230mで、西武池袋線を越えます。富士見台駅前から5kmほど並行していた西武線ですが、ここから先はかかわることはありません。

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    ・ 悪水吐跡  踏切の先の左手に、周囲から一段落込んだ明らかに水路跡を思わせる路地があり、100mほど線路と平行しています。

 <悪水吐と分水>  「悪水」(下水)というと、字面や現在の語感からは、汚水的なイメージですが、当時は上水や用水に適さない水、といった意味合いです。「悪水吐」は増水、濁水の排水路ですが、場合によっては、非公式な分水口ともなりえたようです。千川上水の現況調査をまとめた「ねりまの文化財(千川上水特集号)」は、「交差点から約250mで西武池袋線の踏切を渡ります。この踏切を越えたところから線路に沿って能満寺方面に一時分水されていました。」と、今回の水路を分水と表現しています。また、その前には「練馬区と豊島区との区境(旭丘一・4と南長崎六・10)の細い路地がかつて能満寺方面に流れていた分水の跡です。」との記述もあります。これは「段彩陰影図」に書き込んだ最初の☓にかかわるもので、西武線を越えたところで今回の水路に合流していたものと思われます。(区境の路地の写真は→ こちらでどうぞ。)

 


葛ヶ谷村分水3

2015-08-08 06:40:42 | 千川用水5

 → 「段彩陰影図」に見るように、妙正寺川に合流する自然の谷筋に千川上水の水を落とす形で、葛ヶ谷村分水は開削されましたが、その谷筋の先端には湧水池があり、弁天様が祀られていました。目白通り(十三間道路)が開設された昭和10年代まで健在で、「ふるさとは西落合(一)」(平成13年 西落合まちづくりの会」)には、「そこに、清水の池があって、きれいな水がぼこぼこわいていた。三十センチぐらいの深さ、ものすごくきれいな水で、底が全部見え、どういう訳か白い砂のようなものが敷いてあったのをおぼえている」、との聞き取りが収録されています。なお、今回は千川上水の分水がテーマなので、その弁天池付近までのウォーク&ウォッチにとどめ、以降は妙正寺川のクールで、その一支流として扱う予定です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。池こそ描かれていませんが、中央の神社マークが弁天様と思われます。

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    1. 前回引用した武蔵高校「千川上水」中、「その先百米程の部分は埋められてゐるが橋が残ってをり、・・・・」とあるのは、目白通りと並行するこの区画です。

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    2. 再度目白通りに沿います。水路跡だと知らなければ意味不明な空間です。

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    3. 弁天池のあったあたりで目白通りから離れます。冒頭で引用した聞き取りの続きに、「北の長崎の方からもきれいな水が流れ込んでいた。」とあり、左手からの流れもあったようです。

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    4. 右写真は左手からのショットで、谷筋なのが分かります。 

葛ヶ谷村分水2

2015-08-07 06:40:31 | 千川用水5

 葛ヶ谷村分水を追っての二回目で、目白通りを越えその南側に沿うところです。昭和15年(1940年)に武蔵高校の生徒が調査をした当時、この区間の分水は目白通り(新十三間道路)の開設に伴い閉鎖、下水道に付け替えられました。「新十三間道路の工事の結果閉鎖され、屈曲點から約五十米道路に沿ふ部分は埋められ、街路樹が植ゑられて美化された。これから約五十米新道路との間は今だに明かにその跡が残ってゐる。その先の新道路に沿ふ部分は跡形もなく、その先百米程の部分は埋められてゐるが橋が残ってをり、並木も笹も残って明かにその跡を留めてゐる。その先は東長崎方面からの下水に連結され、下水として使用されており、目下盛んに改修工事が營まれ、舊時の俤は殆ど没し去って昔からの下水かと思わせる。」(武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。同じく同一場所、同一縮尺の「昭和12年第四回修正」は→ こちらです。

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    1. 南長6丁目交差点から百数十メートルのところです。右手の歩道が狭くなり、ここで右折だと分かります。 

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    2. フェンスの中を撮ることのできた数年前の写真です。水路跡の細長い空間は30mほどで中断します。

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    3. 目白通りの南側に沿う区画は、通りに含まれて痕跡はありません。ただ、「明治42年測図」当時の長崎村と落合村(大字葛ヶ谷)の境は、豊島と新宿の区境となって今に引き継がれています。

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    4. 区境と共に目白通りから離れます。所有者名から名倉水車と通称された水車のあったところです。

葛ヶ谷村分水

2015-08-06 06:16:56 | 千川用水5

 前回引用した「千川素堀筋普請所積見分」の中に、「分水口 巳ノ方」とありますが、これは葛ヶ谷村分水の事です。葛ヶ谷村分水は「千川上水給水区域」に記載はなく、寛政6年「星野家文書」は「葛ヶ谷村 同(立?)五寸巾六分」、「千川分水口取調絵図」は「葛ヶ谷村分水口四寸四方長六尺樋」と書いています。さらに、明治10年の「星野家文書」では、「長崎村地内 幅三寸弐分高三寸五厘」、同時期の用水利用の水田は、全体で、5.5町歩余のところ4.8町歩余です。なお、葛ヶ谷村は明治22年(1889年)に上、下落合村と併合して落合村となったため、この分水を落合村分水と呼ぶこともありますが、ここでは葛ヶ谷村分水で一貫します。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに中野、(若干)練馬、豊島、新宿の各区です。

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    ・ 南長崎6丁目交差点  右手を並行する千川上水は交差点を越えたところで左折、直進する清戸道と分かれます。葛ヶ谷村分水は「近傍図」ではすぐ右折していますが、実際は清戸道沿いに百数十メートル直進してから右折していました。

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    ・ 南長崎6丁目交差点  その南角のマンションの敷地内(上掲写真右手の植込み)に、かって当地で操業していた籾山牧場、小児牛乳に関する解説プレートが立っていて、牧場の敷地を横切る葛ヶ谷分水の描かれた地図も載っています。

 <籾山牧場>  その開設時期は不明ですが、→ 「明治42年測図」にも描かれ、およそ一万坪の敷地を有する牧場でした。昭和2年(1927年)、小児牛乳長崎工場が、千川上水のV字ターンに面した一角で竣工、他の敷地は分譲されます。「二間半又ハ二間ノ舗装道路並ニコンクリート下水ノ整備中 瓦斯、水道及電気ノ便アリ」など、分譲売り出しのパンフレットにあり、あるいはこの「コンクリート下水」は分水路の転用かもしれません。小児牛乳はその後明治製糖の系列に入り、戦後、明治乳業豊島工場として、アイスクリームやプロセスチーズの製造をしていましたが、平成6年にそれも閉鎖されました。