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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

戸山公園2

2018-11-17 06:33:09 | 蟹川

 戸山公園内の大泉水や蟹川の流路は失われました。明治に入り陸軍戸山学校、戸山公園と、大規模な造成を経ているため、地形も改変されています。そこで古い地図をあてにするしかありませんが、これまでお世話になった参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」は、残念ながら範囲外になっていて利用できません。そこで、参考にしたのは内務省地理局が明治20年(1887年)に発行した「東京実測図」(1/5000)と、陸地測量部の明治42年以降の「1/10000地形図」で、後者にはすでに大泉水はありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。薄いブルーが「実測図」、濃いブルーが「明治42年測図」です。(「下水道台帳」の戸山幹線のコース取りは後者と重なり、暗渠化して下水道に転用したのでしょう。)

 大泉水の下流側(東半分)の大半は戸山公園内の広場になっています。一方、西半分の一部は都営戸山ハイツの敷地にかかっています。同ハイツは昭和24年(1949年)、米軍の提供した資材をもとに1052戸の木造住宅群が建設されたのがもとで、当時としては画期的な水洗トイレ付でした。昭和44年には鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられ現在に至っています。なお、戸山公園の開園はやや遅れて昭和29年です。

 

 

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    ・ 戸山公園  大泉水の東半分の大半を占める広場です。左手奥の高いところが多目的運動広場、そのさらに奥が箱根山です。

 <龍門橋>  昨日UPの→ 「尾州邸園池全図」で、大泉水の東南端に架かっていたのが龍門橋、その下から龍門の滝が流れ落ち、鳴鳳渓と称する渓谷を形成していました。「さかしき谷に下るに、誠に世に類ひなき様にて庭ながら鳥も通はぬ渓谷に入ると覚ぼゆ。龍門の瀧たぎり落ちて岩角に当り砕け散るしら玉のさま、又あたりの山に包まれて、瀧壷に響く水音、嵐もはげしくそひぬと思はる」 寛政5年(1793年)に11代将軍家斉が戸山荘を訪れた際、随行した旗本の文章の一節です。なお、平成10年に早大の→ 学生会館を建て替える際、この龍門の滝の遺構が発掘されました。伊豆石360個余りからなる滝壷の石組みで、現在は名古屋市にある徳川園に移築されています。

 


戸山公園

2018-11-16 06:04:02 | 蟹川

 戸山公園(箱根山地区)まで来ました。一帯が和田戸山(外山)と呼ばれたのが名前の由来ですが、その詳細は不明で、源頼朝配下の有力武将、和田義盛の領地で、和田、外山両村にまたがっていたとか、あるいは、和田戸何某という武士の館だったところだとかいわれています。江戸時代に入り、寛文8年(1668年)以降、尾張徳川家の下屋敷が置かれ「戸山荘」と呼ばれました。約45ヘクタールの敷地は江戸の大名屋敷では最大規模です。明治から第二次世界大戦までは、陸軍戸山学校など陸軍関係の施設があり、戦後の国有化をへて、都営戸山ハイツや公園となっ て現在に至っています。

 

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    ・ 「寛政年間戸山尾州邸園池全図」(「新撰東京名所図会」より)  箱根山のふもとに、東京都の設置した解説プレートがあり、そこに掲示されている絵図の水部を着色、また北が上になるように回転しています。 

 「和田戸山の風景誠に善盡し美盡せり。江都より京都にいたる駅路五十三次の宿々、名産名物に残物なく、渡舟、山道茶屋、渡りやはさらに、本陣、旅籠、つぎ馬問屋、川渡し舟、東海道の産物、一としてあらずと云事なしとぞ。近来は度々御成りあらせられ、愈々増々美麗を盡し給へりと云」 「若葉の梢」(寛政4年 金子直徳)の一節です。元禄年間(1688~1703年)に完成した庭園ですが、その後放置されて荒廃が進み、寛政年間(1789~1800年)の初め、将軍家斉の御成りを契機に修復されました。家斉は大いに気に入り、「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と讃えたといいます。

 

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    ・  箱根山  戸山公園のシンボル箱根山の山頂部分です。蟹川はこの山の麓をめぐり、北から東寄りへと向きを転じていました。大泉水も蟹川も失われた今、当時の唯一の遺構です。 

 箱根山は戸山荘時代麻呂ヶ嶽、あるいは玉円峰と呼ばれました。麻呂は丸ですから、どちらも円形の山の意です。標高44.6m、旧東京市内で一番高い山といわれていますが、蟹川の形成する右岸段丘上に、その名の通り、お椀をふせた形の盛り土をしたもので、自然の山というわけではありません。ちなみに、都心にある自然の山としては、愛宕山を思い浮かべますが、その標高は25.7メートルです。(上掲写真のこんもりしたところが、その盛土の部分で、大泉水を掘った際の残土を利用したようです。)

 


穴八幡

2018-11-15 06:52:19 | 蟹川

 「八幡社 穴八幡と号す、正八幡なり、・・・・社伝に云此所古より八幡の小祠及ひ阿弥陀堂あり、・・・・同十八年、石清水八幡宮を勧請し良昌をして別当たらしむ、依て草庵を造営せんとて山麓を穿ちけるに、一つの穴あり人々怪しみ燈を取て内を伺へは、銅仏の阿弥陀長三寸許なるを得たり、是八幡の本地なれはとて、則神殿に安置し、今に秘仏とすと」(「新編武蔵風土記稿」) 寛永18年(1641年)は三代将軍家光に長男(後の四代将軍家綱)が誕生した年で、その夢のお告げがあったともいわれ、将軍家の庇護が格別だったようです。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田八幡宮」  右下隅の十字路は馬場下町交差点にあたり、通りに架かる橋の下を流れるのが蟹川です。画面からは切れますが、早稲田通りを越えた先には、→ 「江戸名所図会 / 高田稲荷ほか」の描く田圃が広がっていました。 

  なお、穴八幡の社地は下戸塚村に属し、「新編武蔵風土記稿」も下戸塚村のところで扱っていますが、旅所(神輿の休憩所)が神楽坂にあるなど、むしろ「牛込の総鎮守」(「江戸名所図会」)と目されていました。そのためでしょう、明治に入りその一角のみ下戸塚村から離れて牛込高田町を形成、のち牛込区に編入されています。

 

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    ・ 穴八幡宮   八代将軍吉宗が享保13年(1728年)、世嗣の病気平癒を祈願して流鏑馬を奉納、その後も世嗣誕生を祝い厄除けを祈願して、歴代将軍が奉納するようになり、現在は毎年10月に戸山公園で行われています。

 <駒之橋>  以下は穴八幡下の石橋についての「御府内備考」の記述です。「石橋 長一間半余巾二間余 右町内穴八幡前に有之下水え掛渡駒之橋と唱申候」「新編若葉の梢」(昭和33年 海老澤了之介)では駒留橋となっていて、「門前に石橋が掛っている。これが駒留橋で、神事流鏑馬の時、この橋の所に馬を揃えたので、この名がある」と書いています。大正から昭和にかけての地図で、駒止橋となっているものもあります。「新編若葉の梢」はさらに、昭和5年(1930年)に蟹川が暗渠となった際、橋名を記した石の欄干だけが残ったが、戦災で失われてしまったことにも触れています。

 


馬場下町

2018-11-14 06:36:08 | 蟹川

 穴八幡下で早稲田通りを越えます。今では通りの左右とも馬場下町ですが、こうなったのは明治に入ってからで、江戸時代には通りの南側が馬場下町、北側は馬場下横町でした。うち馬場下町に関する「御府内備考」の引用です。「高田馬場東方ニ当り八幡坂と申坂有之右坂下故ニ馬場下町と相唱申候」「下水 右当町ニ有之候水元大久保村下水尾州様戸山御屋舗え入夫より流出末は早稲田村下戸塚村より江戸川え流落申候」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 早稲田中・高校のキャンパスを横断し、反対側の道路に出る直前で左折、早稲田通りに向かいます。

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    2. 穴八幡下で早稲田通りを越えます。ここに架かっていた石橋については次回扱います。 

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    3. 早稲田通りの先の路地です。左折して早稲田大学戸山キャンパスに沿います。 

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    4. 100mほどで途切れますが、水路は右折して戸山キャンパスを横切っていました。

下戸塚村境

2018-11-13 06:52:08 | 蟹川

 蟹川本流を追って、早稲田大学大隈庭園前まで来ました。手前で左折して南に向きを転じ、さらに早大通りのところで右折、左折のクランクで西にシフト、この辺りまでは直線的で、やはり明治末の付替えの結果です。その先は下戸塚、早稲田の村境を流れますが、昭和に入るまで蛇行の跡をとどめていました。昭和30年代に幅広の直線道路ができ、あいまいになりましたが、早稲田鶴巻町などと戸塚1丁目の境は、この蛇行を反映しており、特に、早稲田通り手前で右折、早稲田中・高校のキャンパスを二分するところに顕著です。(今回のルートは、蟹川の機能を代行する下水道戸山幹線と重なります。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 早大通りとの早稲田鶴巻西交差点です。右折して北側歩道に沿います。 

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    2. 左折して早大通りを越え、奥の路地に連続します。

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    3. 幅広道路に出ます。このあたりから水路は戸塚村、早稲田村の境に沿っていました。 

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    4. 村境に沿う水路はこの幅広道路の左右を蛇行していました。

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    5. 右折して早稲田中・高キャンパスを横切り、さらに左折して早稲田通りに向かいます。 

早稲田鶴巻町2

2018-11-12 07:08:04 | 蟹川

 蟹川本流をさかのぼっての続きで、元赤城神社の脇を抜け鶴巻小学校の敷地を迂回、大隈庭園前で左折するまでで、相変わらずの直線的な道路です。なお、前回からのタイトルの早稲田鶴巻町ですが、明治24年(1891年)に牛込区の一部として成立、新宿区となった後も存続し現在に至っています。旧早稲田村の小名が由来で、元禄の頃、小石川村で放し飼いにしていた鶴が、当地にも飛来していたため、その番人がいたからではないかと、「新編武蔵風土記稿」は推測しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 元赤城神社の脇を抜けた先で、水路は通りの右手から左手にシフトします。 

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    2. 鶴巻小学校キャンパスの北縁に沿います。同小の創立は大正14年(1925年)です。

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    3. 鶴巻小学校の北西角で左折、すぐに右折のクランクです。道幅の変化に水路の痕跡を見ることができます。 

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    4. 右折後、再び直線で西に向います。なお、鶴巻小以西の一帯は江戸時代、彦根藩井伊家の抱え屋敷でした。

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    5. 正面の茂みは早稲田大学構内にある大隈庭園のものですが、その手前で左折です。 

早稲田鶴巻町

2018-11-10 06:00:48 | 蟹川

 蟹川本流に戻り、明治の付替えによる水路との合流地点から再開します。すぐに外苑東通りを越え、元赤城神社の脇を抜けます。直線的な水路跡の道路が続きますが、これは明治末から大正初めの改修の結果で、それ以前は田用水の例にもれず、複数の水路が交差していました。「郵便地図」などは、前回の早稲田町の支流を外苑東通り付近で合流させ、その前後に網状の水路を描いていますが、今となってはたどることは困難です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。 改修以前の「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」は→ こちらです。

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    1. 明治の付替えの水路との合流地点に戻り、この直線道路を西に向います。

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    2. ワンブロックと少しで外苑東通りを越え、やや右手にずれた通りへと連続します。 

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    3. 元赤城神社脇を抜けます。元は左折、右折にクランクで境内を回り込んでいました。

 <元赤城神社>  赤城神社の旧地です。「赤木明神旧地 同所田畔小川に傍てあり」(「江戸名所図会」) 赤城神社の由緒書によると、正安2年(1300年)に赤城神社を勧請して創建、寛正元年(1460年)には太田道灌が、当地(牛込早稲田の田島村)にあった社を牛込台に遷し、さらに弘治元年(1555年)に大胡(のち牛込)勝行によって現在地に祀られました。当地の古名とされる田島に注目で、田圃の中の島状のところという文字通りの意とすれば、→ 「寛文図」で、早稲田田圃の中央に描かれたリング状の流れや、あるいは冒頭で触れた「郵便地図」の水路網など、田島と呼ぶのにふさわしいように思えます。

 


早稲田町の支流

2018-11-09 06:58:50 | 蟹川

 弁天町の支流の次は、その西隣にあった小支流がテーマです。「下水 巾六尺 右当町中央より東之方ニ有之松平越後守様御中屋舗より流出候而御持組屋舗え相掛夫より町内え相流末は早稲田田甫落江戸川え流入申候」「御府内備考」の早稲田町の項の記述です。美作津山藩松平家下屋敷(現早稲田小、牛込二中など)から宗参寺境内の西縁を流れる下水についてのもので、→ 「寛文図」の中央やや左下の突き出した田圃や、その南の早稲田通りに架かる橋も、この下水とかかわっています。ただ、蟹川との合流地点は地図によってまちまちで、いずれも現行の道路と重ならないため、痕跡が確実な早稲田通り以降をさかのぼります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 早稲田通りを越えます。ここに下稲橋(「石橋 長八尺余巾一丈一尺」)が架かっていました。 

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    2. 宗参寺境内西縁の水路跡の路地で、70mほど続きます。右手は御持弓組の大縄地でした。 

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    3. 早稲田小学校前で終了ですが、さらにワンブロック先の、同小の→ 南西角を起点とする地図もあります。  

 <淨泉寺谷>  今回の水路の谷頭は淨泉寺谷と通称されていました。「下水 巾弐尺長三間余 右当町俗ニ淨泉谷と唱候所々有之石河太八郎御屋舗より流出・・・・」「御府内備考」の馬場下横町のところの記述で、上掲地図の左下隅にある夏目坂に至る通りを挟んで南が尾張藩家老石河家の屋敷、北に淨泉寺や馬場下横町、さらに冒頭の引用文にあった松平越後守の下屋敷という位置関係でした。→ 「段彩陰影図」の、外苑東通りの西側のごく短い谷筋ですが、早稲田小や牛込二中建設の際の造成によって、元の形は失われています。なお、淨泉寺は合併して松雲山宗清寺となり、中野区上高田に移転しています。

 


弁天町の支流5

2018-11-08 06:34:39 | 蟹川

 外苑東通りと大久保通りがクロスするのが市谷柳町交差点ですが、その北東角で宗円寺の南隣にあたる一角は、江戸時代川田久保町(「寛文図」では「川田ガクボ」)と呼ばれていました。以下は「御府内備考」の引用です。「起立之儀は相知不申候得共東方山伏町之続西方原町壱丁目両方高ク町内久保ニ付川田久保と唱来候由申伝候」「下水 巾四尺五寸 右は町内東境ニ有之尾張様西御門前より流出御旗同心衆御組屋舗より町内え相流流末は根来御組屋舗より中里村田圃え落江戸川え流入候」「石橋 巾四尺五寸長弐間 右は町内東境下水ニ掛渡川田久保町往還ニ有之」

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、外苑東通り、大久保通りをグレーで重ねています。

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    ・ 外苑東通り  市谷柳町交差点の手前から防衛省方向です。江戸時代は左手前が川田久保町、奥が市谷柳町、右手は原町でした。現行の住居表示では左手市谷柳町、右手原町です。 

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    ・ 大久保通り  東側から市谷柳町交差点を見下ろしています。右手に入るのが本来の通りで、赤根坂、あるいは途中に焼餅屋があったことから焼餅坂と呼ばれました。

 ところで、「東京府志料」は二ヶ所の川田久保に言及しています。一つは明治5年(1872年)に成立した市谷柳町の項にあり、「寛文図」や「御府内備考」と同じ場所だと分かります。もう一つは、同年に旧小倉藩など三藩下屋敷を合併、新たに成立した市谷河田町の項にあり、「里俗此所ヲモ亦川田窪ト唱フ・・・・今ノ柳町辺ヲ里俗川田窪ト唱ヘシニ因テ広く及ヒシナラント云」と書いています。江戸末に普及した尾張屋などの切絵図は、三藩下屋敷の北縁の通り(現女子医大通り)に、「川田ヶクボ」と書き込んでいます。→ 「段彩陰影図」の左下にある別個の谷筋にかかわるものですが、こちらを川田久保とする誤解が現河田町の由来となったようです。

 


弁天町の支流4

2018-11-07 06:02:33 | 蟹川

 弁天社を過ぎて、ほぼ直線で南に向かいます。江戸時代、この付近の両岸は造成され、根来百人組の大縄地となっていました。根来百人組は伊賀組、甲賀組などと同じく、同心100人からなる鉄砲部隊で、平時は江戸城大手三の門に詰め、また将軍が寛永寺などに参拝の折には、その山門の警備にあたっていました。一方、並行する現外苑東通りに面して、牛込七軒寺町がありました。寛永12年(1635年)に牛込御門近くの堀端にあった七寺が、御用地となって当地に移転してきたため、そう呼ばれたものです。市街地拡張の最前線に寺町を配置するのも、谷筋を造成して大縄地とするのも、江戸都市計画の常とう手段でした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 都営弁天町アパート前に差し掛かります。目下整備工事中で立ち入り禁止ですが、10年ほど前の様子は→ こちらでどうぞ。 

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    2. 都営アパート前を離れます。右写真は外苑東通りからのショットです。 

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    3. 上り坂に差し掛かります。ここから左岸台上にかけては、下戸塚村椚(くぬぎ)原にできた町屋が由来の原町です。 

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    4. 水路は通りの左手を並行、外苑東通りに出て以降も左手にありました。

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    5. 宗円寺前で外苑東通りに合流します。右写真は右岸台上から見下ろしていて、下が宗円寺境内です。 

弁天町の支流3

2018-11-06 05:54:27 | 蟹川

 早稲田通りの先の路地を南に向かいます。宗参寺前を過ぎて150mほどで、弁天町の名前の由来となった弁天社の脇をクランクで抜けます。なお、牛込弁財天町は元禄11年(1698年)、宗参寺境内に百姓地として成立、18世紀に入り町屋が形成された際、同寺にあった弁財天を鎮守としたことから、弁財天町と呼ばれました。明治になって、俗に七軒寺町と呼ばれた門前町や、根来百人組大縄地などに、範囲を拡大して牛込弁天町となり、その後弁天町となって現在に至っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 宗参寺参道を横切ります。江戸時代の境内は今よりはるかに広く、今回の水路はその南側に沿っていました。  

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    2. 右折した後の左カーブです。なお、右岸台上の→ 漱石公園は、夏目漱石晩年の住居跡地を整備したものです。 

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    3. 牛込弁天神社の脇をクランクで抜けます。右写真は外苑東通りに面した弁天社です。 

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    4. 弁天社を抜けた先です。ここからしばらく、外苑東通りの拡幅に合せ整備工事中です。

 <宗参寺>  → 雲居山宗参寺は天文13年(1544年)、一帯の領主だった大胡(のち牛込)勝行が、父重行(戒名は雲居院殿実翁宗参大庵主)の菩提を供養するため、その一周忌に創建しました。牛込氏は当時小田原北条氏に属し、その滅亡後は徳川幕府に仕え、旗本として幕末まで存続しました。境内にある重行、勝行の供養塔は、寛永4年(1664年)に旗本だった牛込勝正の建立で、供養塔を中心に牛込氏累代の墓が建てられています。また境内には、朱子学を批判した儒学者、兵法家として知られる山鹿素行の墓もあり、こちらは国指定史跡となっています。

 


弁天町の支流2

2018-11-05 06:44:37 | 蟹川

 弁天町方面からの支流をさかのぼります。済松寺境内を離れて、弁天町交差点手前で外苑東通りの西側にシフト、同交差点の西側で早稲田通りを越えます。もっともこれは、外苑東通りが開設され、早稲田通りが整備、拡張された昭和の初め以降のことで、元々は境内の西南角で、早稲田通りとクロス、そこに轟(とどろき)橋が架かっていました。谷筋を越える旧道の例に違わず、この区画の早稲田通りも、(神楽坂方向からみて)右折、左折のクランクになっていて、轟橋のあったのはクランクの中程です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。 早稲田通りの改修、暗渠後の「昭和12年第四回修正」は→ こちらです。

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    1. 左手に茂みの見える済松寺境内を離れ、斜行して外苑東通りの右手にシフトします。

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    2. 右手に入る旧早稲田通りの奥、弁天町交差点の手前で右折、外苑東通りを離れますが、そこに轟橋が架かっていました。 

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    3. 弁天町交差点の西側で早稲田通りを越えます。越えた先から水路跡が復活します。

 <轟橋、どどめき> 「石橋 巾弐間長七尺八寸 右は町内西之方往還下水ニ掛渡有之里俗轟橋と唱候」「御府内備考」の牛込榎町の項の記述で、下水については「巾七尺 右は町内西之方往還ニ有之候」と書いています。また、別のところには、「町内西之方轟橋近辺どゝめきと相唱候場所有之右は轟橋御座候ニ付里俗ニ相唱候」とあり、→ 「寛文図」にも「サイセウ寺」南西のクランクのところに「どゞめき」と書き込まれています。なお、早稲田通りのクランクは昭和の初めにショートカットされ、その際水路も暗渠となったため轟橋は失われました。

 


弁天町の支流

2018-11-02 06:01:06 | 蟹川

 弁天町方面からの支流を追って、済松寺裏から谷頭までのウォーク&ウォッチです。この支流の名称ですが、尾張屋の「礫川牛込小日向絵図」(万延元年 1860年)などは、弁天町から済松寺の裏に回り込む流れに、「加二川」と付記しています。ただ同絵図では、戸山屋敷方面からの本流を描いておらず、こちらを本流と誤解してそう付記したふしがあります。これに対し、「御府内備考」は各町の記載を「下水」で一貫しています。(なお、赤城神社のホームページには、大正頃の各氏子町を紹介する記述が掲載されており、その弁天町のところに、「弁天堂後を流れている小川を本無川といい」とあります。)

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 蟹川1」(1/18000)  オレンジ線は区境で、左上隅の豊島区、その右隣りの文京区を除き大半が新宿区です。また、右下のグレーで重ねたのは市ヶ谷の尾張藩邸の範囲です。  

 「段彩陰影図」に見るように、谷頭は二つに分かれていました。外苑東通り沿いのものと、やや西側にズレているものですが、うち前者には江戸時代から下水が整備されていました。「下水 巾三尺程 右者町内南之方尾州様御館近辺水上ニて町内裏通家庇下北え相流」と、「御府内備考」は薬王寺前町のところで述べており、明治末の「郵便地図」には、陸軍士官学校の北西角を起点に、通りの東側沿いを北上する水路が描かれています。一方、西にずれた方は御旗同心大縄地があり周囲を寺町が囲んでいました。今回の谷筋もあって行き止まりとなることから、袋寺町と俗称されたところです。こちらの谷筋に水路を明記した地図類はなく、はけ水路のままながく放置されていたものと思われます。

 

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    ・ 外苑東通り  市谷薬王寺町交差点から防衛省方向です。現在防衛省の用地となっているところは、江戸時代は尾張藩上屋敷、明治に入り陸軍士官学校がありました。 

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    ・ 西側の谷筋  外苑東通りから西側の谷筋に入る唯一の通りの先で、右折した後階段で寺町のある台上に出ます。台上からのショットは→ こちらで、10年ほど前のものです。 

済松寺

2018-11-01 06:55:11 | 蟹川

 弁天町方面からの支流は、済松寺境内を西から北に回り込むように流れていました。蔭涼山済松寺の開山は正保3年(1646年)、開基は三代将軍家光に仕えた祖心尼です。彼女は春日局の縁者ということで、その補佐役として大奥に入り、家光の死後、大奥を辞して余生を済松寺で過ごしました。済松寺も家光の寄進により建立されたもので、以前は秀忠、家光の祐筆だった大橋龍慶の屋敷だったところです。なお、祖心尼の孫の振(自証院)は、春日局の養女として大奥に入り、家光の最初の子でのちに尾張藩に嫁いだ千代姫をもうけています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 済松寺」  本文中に「御仏殿の前の池を鳳凰池と号く」とありますが、右端に描かれているのがその鳳凰池で、→ 「実測図」にも描かれています。

 今回の流れは画面からは切れますが、左手から奥に回り込んでいました。また、左下隅の通りは牛込榎町通り(現早稲田通り)で、惣門前に橋が架かっています。「御府内備考」の牛込榎町の項にある、「石橋 巾弐間壱尺長四尺三寸 右は町内東角往還之下水ニ懸渡有之元地頭済松寺ニ御座候処当時町内持ニ仕候」と思われます。その下に描かれた下水(巾弐尺八寸)も、早稲田通りを下って今回の流れに注いでいたのでしょう。

 

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    ・ 済松寺本堂  本堂には「天下蔭涼」の額が掲げられています。山号の由来となったもので、「大樹となって天下の蔭涼(木陰)たらん」の意だそうです。 

 「江戸名所図会」は済松寺を「豊後小侍従大友義延旧館之地」としています。大友義延はキリシタン大名として有名な宗麟の孫で、父義統が文禄の役で秀吉の逆鱗に触れ、改易された際、家康に預けられ当地に屋敷を構えました。彼は大宰府天満宮を勧請したといわれており、天神信仰は隠れキリシタンの天主(デウス)信仰に通じるとの指摘もあります。大友家断絶後の寛永12年(1635年)、大橋龍慶の屋敷地となりますが、彼は家光から拝領した菅原道真手作りの像を奉じて天神社を造営、これらが(牛込)天神町の地名由来となりました。なお、天神社はのち穴八幡近くに遷って高田天満宮となり、現在は水稲荷境内に祀られています。

 


明治の付替え2

2018-10-31 06:30:49 | 蟹川

 済松寺裏の起点から明治末の付替えのルートを追って北上、早大通りを越えたところから新目白通りまでです。人工的な付替えのため、水路跡にありがちな蛇行もなく、ごく単調なウォーク&ウォッチですが、唯一見どころは蟹川本流及び中川の合流地点が確認できることです。なお、この水路を地形図で追ってみると、「昭和4年第三回修正」では一部なくなり、「昭和12年第四回修正」には合流している水路を含め全くありません。その間に暗渠化されたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 新宿山吹高校キャンパスの西縁を離れ、早大通りを越えます。

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    2. 左手から蟹川本流の合流があり、右写真はその跡と重なる道路です。 

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    3. 地蔵通りの延長上の通りを越えます。  

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    4. この付近で中川とクロスしていたはずですが、その流路と重なる道路はありません。

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    5. 新目白通りを越えます。越えた先の高架は首都高早稲田出口、その下が一休橋です。