筑波山護持院は5代綱吉の時代、大僧正隆光によって隆盛を極めた将軍家祈祷所で、当時は神田橋外に大伽藍をようしていましたが、享保2年(1717年)、火災により焼失してしまいます。その後、幕命により同じ将軍家祈祷所の護国寺と併合、護国寺境内は東西に二分され、台上の観音堂は護国寺、台下の本坊は護持院に割り振られます。護持院の住職が護国寺住職を兼ねることとなり、この関係は明治維新後、護持院が廃寺となるまで続きました。享保2年といえば、8代吉宗の改革のスタート時ですから、その一環として綱吉の施政の後始末の意味もあったのでしょう。
- ・ 「江戸名所図会 / 護持院」 → 「其二 護国寺」へと連続する6枚シリーズの第一です。
- ・ 護国寺惣門 方丈(住職の住居)に向かう門で、寺院と住居の門を兼ねていました。文京区の解説プレートによると、五万石以上クラスの大名屋敷の表門の形式を備えているそうです。
上掲「図会」の惣門を入ると橋が架かり、その左手に池が描かれていますが、以下はこの池に関する本文の記述です。「蟹が池 庭前の池をいへり。当寺建立なきまへは此地の名を、せりせりとも又せれせれとも唱へしと」 なお、左上の護摩堂裏にも池端が見えていますが、こちらは「其二 護国寺」右上隅の、より大きな池の一部です。これらは水路で結ばれ、昨日UPした最後の写真のところで水窪川に合流していました。こうした池の名残は前回UPの→ 「昭和12年第四回修正」にも描かれ、特に谷頭のものは今も豊島岡墓地の林の中で水をたたえています。
- ・ 護国寺境内 惣門を入ったあと、橋の位置から左折方向のショットで、右手は本坊、左手は音羽幼稚園です。惣門左手の池はこのあたりにありました。