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東京

2021-07-17 | 随想

きょうは東京の日だそうで、ブログのお友達がそのタイトルで記事書かれていた。それに喚起されていろんなこと、ズザザザザッーと思い出し、まあこの先まとめて書くこともないだろうから書いてみることにした。

2010年8月 浅草


初めて東京へ行ったのは1967年2月末。

目的、私立大学の受験。私18歳、同行者、実母、41歳。服装は高校の制服に買ってもらったばかりのスプリングコート、寒かった。母は旅行だからとこれまた洋服。寒そうだった。

交通手段。四国高松から対岸の岡山県宇野までは国鉄連絡船。約一時間の船旅。そこからは夜行列車の急行瀬戸。東京まで12時間くらいかかったかな。宇野線、山陽本線、当時新大阪までだった新幹線なら2回の乗り換え、で直通列車に乗ったと思う。

静岡くらいで夜が明けたのかな。富士山見たかどうか記憶にない。寝台車は六人一部屋。朝には三人掛けの向かい合った椅子二つになる。コンパ―メントのメンバーは、いまはなき東京教育大学の体育科を受ける徳島の男の子、屈強。私大の医学部を受ける気弱そうな松山の男の子、母親同道、出張旅行の中年男性。それに私たち親子。

本州に向かう連絡船は高松発のみだったので、四国の鉄道線路はすべて高松に集まり、桟橋に向けてホームが並んでいる。日本では大きな都市でも鉄道が接続しているので、路線が複数の頭端駅は珍しい。今は連絡船はありませんが、線路はやはり昔の桟橋に向いて終わっている。故郷の好きな光景です。

東京駅には結婚したばかりの、祖母違いの従兄が迎えに来てくれていて、そこで母が預かっていた海苔巻き寿司の重箱を渡す。高田の馬場駅近くの宿まで送ってくれたのかな。宿に荷物置いて文学部へ行ってみたと思う。そこだけ本部と離れているのです。

受験生らしい女の子、長い髪に真っ赤なミニ丈のオーバーコート、黒いロングブーツ、都会の女の子に目をぱちくり。

宿は和風旅館。暖房なし。廊下に面して部屋が並び、鍵もなかったような。だから女親がついて行くのが普通だった。親も旅行できて一石二鳥。

創立者の銅像のある大きな大学の、私は50人くらい入る教室で受験。試験は国語、古典、英語、日本史だけ。一日で終わる。後ろの席の男の子が試験中に私の背中をつつき、「あのう・・・チリ紙ください」というので後ろ手で渡す。ポケットティッシュなどのはるか前。あの子、受かったのかなあ。

私は受かったけど、父親に強硬に反対されて東京へ行かせてもらえなかった。願書出すときは父は胃の手術で入院中、その時も反対されたけど、無視してたのでした。

半世紀以上前、東京はとても遠いところでした。それに私自身、東京で是非これをしたいというものがなかったので親を説得することもできなかった。


結局、こちらの学校へ来て、在学中には二回東京へ行った。

一回目は高校時代からの彼氏に会いに。二回目は別れを言いに。このあたりのことはあまり書かない。ユーミンなら「恨んでも覚えてて」だけど、あまりに長い時間が経ってしまって、いろんな感情も薄れてしまった。都合悪いことは忘れることにしている。

弟の下宿に帰ると「遅かったけど何してたん」と聞かれたので、「別れ話がこじれていた」と答える。その日は新宿から高田の馬場まで夜道を延々歩いていた。

別れるのに言葉はいらない。黙ってfade outすればいいのに。わざわざ行くなんて。若くて未熟な私。東京は少し甘美で、とても苦い思い出の街。


子育てに忙しいころ、友達に手紙を書くような気持ちで小説を書いていた。誰にも見せないけれど、自分が慰められる自分の読みたい小説。人付き合いに臆病で、うまく会話のできない私の唯一の気持ちを吐く場所。

たまたま市が市民の文芸作品を募集して選考し、本にするという試みが始まり、それを息子たちを体操教室に連れて行った施設にポスターで知った。

締め切りまで一か月、100枚まで。書き始めたら、あまり苦労せず97枚になったのでキリで穴をあけて紐を通して、封筒に入れて応募した。その頃は原稿用紙に手書き。

それは思いがけずに賞をいただき、本にもしていただいた。今は読み返すことはないけれど、初心な素直な作品。それがよかったと思う。素人が技巧に走ったっていいことはない。

それがきっかけで地元の小説の同人誌に誘われ、そこで書いたものを見てもらったりしていた。

同人雑誌は多士済々、癖のある、面白い人が多かった。何かのつてで東京から参加した人が、「東京はサラリーマンの住むところじゃない。東京は才能のある人が自分の夢を実現するところ」と言っていたのが印象に残っている。

そうなんだあ。そんなんだろうなあ。


1980年代の終わり、出版社に御縁ができて何度か上京。飛行機や新幹線で。東京駅の丸の内口へ出ると、タクシーがずらっと―客待ちしていて、行く先注げるとどこへでも行ってくれると思うくらい、私は田舎ものでした。

出てもなんか広々しているだけで、タクシーなんていないし。地方都市とは違う都会の大きさにいい年して驚いたり。

今はなき赤プリのレストランへ出版社の人に連れて行って貰ったこともありましたね。

フランス語に日本語を併記したメニュー見ても何頼んでいいか分からないし、最後にお任せコースというのが手書きで書き加えてあって、それをお願いして事なきを得ましたね。ホテルのエレベーターに乗り合わせた和服着た女性がものすごくきれいだったり。いゃあ、田舎者には東京のいちいちが驚くことばかり。

あの時は結局、最寄りのJR駅前でタクシーに乗ったら「下町専門なので知らない」と言われてびっくり。手持ちの地図で私が道案内。東京まで行って、なんで私がドライバーさんに道を教える・・・と思ったけど、どんなことでも起きるのが大都会でありましよう。

出版社との御縁も切れた後は、旅行で何回か。結局、全部で10回くらいしか行っていない。若い時は、遠くできらきらと輝く魅力いっぱいの都市というイメージだったけど、今は大変なことになっている大変な場所というイメージ。

オリパラはするのでしょうが、なるだけ傷は小さく、そしてまた人の集まれる魅力いっぱいの街になって復活していただきたいものです。


2010年8月。東武橋から。


高校の同窓会、東京在住者は元気いっぱい。それはきっと長い間、東京の持つエネルギーに当たり続けたからでしょう。楽しいこといっぱいありそうだし、何でもできそうだし。

でも私は行くともう疲れるかも。もう行きたいとも思わない。会いたい人も行きたい場所もない縁のない場所。そう思うと少し寂しい。

コメント (7)
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