ドストエフスキーの小説四作品「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」において、時に完璧に遂行され、時に未遂に終わるという別はあるものの、小説を貫流する主観の根底や人物像の交錯裡に勃然として立ち現れるのが、それぞれ思想の体現者たる(それ故の)自殺者の姿である。ドストエフスキー本然の嗜好とも見紛う心理深部へ行き渡る饒舌にうねりながら軌跡を刻んで行く思想の衝迫は、小説から程良い加減の情調というものを無下に振り払っている。自殺者あるいは自殺志願者の突き詰めた凝念はいったん作家自身の内奥にある馴染みの函の中にしまい込まれ、やがて言語に乗り移った思想の形象として函の中から途切れることなく取り出される。
不死はあるか、神はあるかなぞの究極の問に向かうとき、そこに人間の突き詰めた行為がなければ疑義の言葉を発するのさえ不誠実であるのかも知れない。生死・善悪の分かち難い渦中からその答を掬うべく試みるほかに懊悩の不実を避ける手立てはないのかも知れない。