「ピアノが聞えるね。」
彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしてゐるけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いてゐたい。」
「あの曲は、何?」
「ショパン。」
でたらめ。
「へえ? 私は越後獅子かと思つた。」
音痴同士のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだらうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱ぢやありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
急に不快になつて、さらにウィスキーをがぶりと飲む。こりや、もう駄目かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかはる。どうしても、ねばつて成功しなければならぬ。
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがひますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教へてあげませうかね。」
自分で言つて、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん、少し時刻が早いけど、もう醉ひつぶれた振りをして寝てしまはう。
「ああ、醉つた。すきつぱらに飲んだので、ひどく醉つた。ちよつとここへ寝かせてもらはうか。」
「だめよ!」
鴉声が蛮声に変つた。
「ばかにしないで! 見えすいてゐますよ。泊りたかつたら、五十万、いや百万円お出し。」
すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いぢやないか。醉つたから、ここへ、ちよつと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
キヌ子は立つて、ドアを開け放す。
田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立つていきなりキヌ子に抱きつかうとした。
グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎやつといふ甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思ひ出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど……それから、ひものやうなものがありましたら、お願ひします。眼鏡のツルがこはれましたから。」
色男としての歴史に於いて、かつて無かつた大屈辱にはらわたの煮えくりかへるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろひ、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがたう!」
ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中階段を踏みはづして、また、ぎやつと言つた。
(「グッド・バイ」 太宰治)