=====この近所に、いいフランス料理店を知つているから……何かパクつくことにしたらどうだろう? エグネディクトがよかろう。それに、アスパラガス、コヽアのススレ……=====
やがて、フィロ・ヴァンス探偵は、ハドソン河岸に近い、小さなフランス料理店へ。そして、=====料理は主人を知つているヴァンスがすべて註文した。デュボネ・ブドー酒を一杯、新しいシャンベルタン・ブドー酒に卵を入れて一杯、それから食後のコーヒーのあとではグラン・マルニエが出された。=====
と、これは、S・S・ヴァンダイン作延原謙訳「ケンネル殺人事件」という探偵小説の一部分なのである。
僕は、食書という食書は大抵読み尽くしたので、もう食う話には倦き倦きした。こゝいらで、休養したいと思つて、探偵小説でも読んでみましようと、読み出すと、こんなのに、ぶつかつた。
さあ、こゝには、何んな料理を食つたのかゞ書いてない、何んなものを食つたんだろうなと、探偵小説の筋の方より、その方が気になつて来る。
先きを読んで行くと、
=====そろそろ夕飯の時刻だが、カリーにフィレ・ド・ソール・マルゲリと、シャトウイアール・ポテトと温室苺のパリジェンヌとを註文しておいた。どうだい、食べて行かないかい? 君の大好きな九十五年のシャトウ・イカンを一本抜こうぢやないか。=====
と来た。フーム、何事にも、一と通り以上の知識を持つている、フィロ・ヴァンスは、食うことにかけても中々うるさいんだな。然し、こゝに出て来る料理の名前、それらは一体何んなものなのだろう? そして、何んな味がするだろう?
と、僕は、暮夜ヒソカに、悩んだのであつた。
いや、これは今更はじまつた癖ではない。昔から僕は、何を読んでいても、食物のことが出て来ると、昂奮して、ひらき直つて読み返す位のことはあつたのだが、近ごろそれが益々激しくなつて来た。
近ごろ、というのは、「あまカラ」に、食談を連載し、先頃はその二ケ年分を単行本で出版、引つゞき「週刊東京」に、「食国漫遊」を連載――そういうことになると、世間でも僕を「食通」と思い込み、自らも亦、責任を感じ出したらしいのだ。
友人に逢つても、「君に逢つたら聞こうと思つてたんだが、何々の美味いうちは何処かね?」ときかれる。その種の手紙も沢山来る。
新聞雑誌からも、食談の註文が引つきりなしに来る。
――となると、先つき言つた、妙な責任感みたいなものも出て来て、僕は確かに、神経衰弱的になつて来た。
読書ばかりではない。映画見物などの際にも、食いものゝことが出て来ると、ビクッとする。そら、俺の責任だ、と思う。
最近の映画見物中の例を述べると、「旅情」で、キャサリン・ヘップバーンと、ロッサノ・ブラツィの会話で、「あなたは、スパゲティを出されると、それを食べないで、ビフテキを欲しがる人だ。」というような意味のところがあつた。スーパーイムポーズの日本字幕に、出たのである。
ところが、映画の中では、スパゲティとは言つていないのだ。明かに、ラヴィオリーと言つている。
ハハア、これは訳者の、誤訳ではなく、ラヴィオリーでは一般的でないから、日本人にもよく判るように、スパゲティに置き変えたんだな、と思つた。
僕は、これを見ていて、聞いていて、たちまち、ラヴィオリーが食いたくなり、同時に、東京に於ては、何店のラヴィオリーがいゝかということを、報告しなければならない、というような気がして来て、落ちついて映画を見ていられなくなつた。
又、マリリン・モンローの「七年目の浮気」でも、口紅の痕を、「これは、苺のシロップが附いたのだ」と言つて胡麻化すところがあり、日本字幕には、苺のシロップと出るのだが、映画の声は、「クラムベリー・ソースが云々」と言つている。
僕は、英語はカラ駄目で、殊に聞くのは苦手なのだが、意地悪く、食いものゝことだけは、ハッキリ聞きとれるのだ。
クラムベリー・ソース。それは、七面鳥のローストには欠かせないものだ。僕の心は又映画から離れて、クリスマス料理の七面鳥を思つていた。
近くは、ヒッチコックの「ハリーの災難」で、マフィンが出た。これは、字だけではなく、画面にハッキリ、うまそうな、焼き立てのマフィンが現われる。
日本字では、単に「マフィン」と出るのだが、シャーリー・マクレーンの喋るのを聞いていると、「ブルウベリー・マフィン」なのである。
ブルウベリーとは、「こけもも」だ。果して、何んな味だろう、映画を見ながらベロベロと、舌なめずりをしている僕。
こんな風に、僕は、本を読んでも、映画を見ても、食物に関することが出て来ると、ビクッとして、我に返るのである。
これは、正に一種のノイローゼだろう。
(「悲食記」 古川緑波)