松橋事件(まつばせ・じけん)について書くのは三回目だ。
松橋事件の概要
1985年1月8日、熊本県松橋町(現・宇城市)の団地で男性(当時59)の遺体が見つかった。3日前の夜に男性と口論していたとされた知人の宮田浩喜さんが殺害を認め、殺人容疑で逮捕された。熊本地裁の公判中に否認に転じたが、地裁は懲役13年を言い渡し、90年に判決が確定。服役後の2012年、成年後見人の弁護士が再審請求した。 1985年1月8日、熊本県松橋町(現・宇城市)の団地で男性(当時59)の遺体が見つかった。3日前の夜に男性と口論していたとされた知人の宮田浩喜さんが殺害を認め、殺人容疑で逮捕された。熊本地裁の公判中に否認に転じたが、地裁は懲役13年を言い渡し、90年に判決が確定。服役後の2012年、成年後見人の弁護士が再審請求した。
出典 コトバンク (2018-10-13 朝日新聞 朝刊 1社会)
来年2月の公判で熊本地方検察庁が殺人罪の求刑をしないことを決めた。
出典 朝日新聞 12月21日 (からけんの自宅に配達されたもの)
「やってないなら自白しないといいのに。」と思うのは常識的な普通の人の実感だろう。そういう素朴な直観は時に恐ろしい冤罪を支持してしまう。
自白だけで人を有罪にできるなら何とかして吐かせようという心理が働き、警察検察での取り調べは当然に拷問となる。
「やってないなら自白しないといいのに。」という考えは能天気で甘い考えだ。警察検察は世界最高の検挙率を誇る頭脳集団だ。パワハラに対し、会社辞めればとか、いじめに対し逃げればというのと同じだ。そのひとの身になって言えよ。できはしないって。
それを戦前いやというほど経験した我が国は、憲法において自白の信用性を低め物証のない事件では有罪の判断ができないとしている。(自白万能主義、自白は証拠の王様という戦前の悪弊との決別)
拷問に限らず、「残った子供の面倒は俺が見てやるから」とか、「親がどうなっても知らんぞ」と脅し透かして証言を取ろうとする。違法な捜査だが、密室の不法行為をだれが証明できようか。
うその自白は消し難い不要な住民間の対立を生んだりした。
それらのことを総合すると、日本の刑事被告人の人権は中世だというのが世界の常識だ。
再審(やり直し裁判)の開始は来年の2月だ。あの最高裁ですらやり直しを命じたのになぜこうも時間がかかるのか。
司法はやり直し裁判などしたくない。それには飯塚事件のように死刑にしてしまうか、死ぬのを待てばよい。自らの信頼が揺らぐことを進んでやりたいはずはない。
日本の司法が権威にこだわり、検察がメンツにこだわる以上、無学な民はその犠牲になる。これは立派な中世暗黒裁判だ。。
僕は留置場に行ったことがある。研修ではなく本当に密告されて現行犯逮捕された。不起訴になったので何とかもみ消してもらった。宇城市の留置場、今度の熊本地震で壊れた、ざまみろ。
実体験からいう。人は取り調べが長くなると、大体3日目ぐらいから本当に自分がやった気がしてくる。不思議なことに、俺みたいな人間のためにこんな大勢の人に迷惑をかけているという気がしてくる。それが申し訳なく感じてくる。
裁判所は警察が十分調べたのだからよもや間違いはあるまいと思ってしまう。友人の判事が言うには裁判とは先入観との戦いだ、と。
つまり、一度捕まればおしまいの世界がすぐそこにある。裁判員なんて感情で裁くに決まっている。検察はメンツにしか関心がない。国選弁護人は報酬が低く駆け出しがする仕事だ、つまり下手だ。
国民はみんな自分が加害者にはなるはずがないと思っている。そうだろう。しかし、間違えて犯人にされる可能性は、そんな善人にもある。