か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

三井港倶楽部 からけん御用達

2019年01月15日 | 食・レシピ

日露戦争勝利の余韻冷めやらぬ1907完成

 

三井関係の社交倶楽部であるとともに、外国高級船員の宿泊や接待の場所、あるいは皇族方を始め、政財界人の迎賓館として広く利用されてきた。

1949年昭和24年)には昭和天皇も訪れたことがあり、庭園には記念樹が植栽されている。また、1969年(昭和44年)1月には、明治を代表する優美な洋風建築物として日本建築学会より文化財の対象建築の推薦を受けている。

家具や調度品、シャンデリアは建物専用に作られ、100年以上の時を経てもほとんどが現役。    Wiki

 

今回は料理にがっつく前に、その周辺から。

東京の三越百貨店。江戸時代、豪商越前屋と三井は合併し互いの頭文字をとり三越が誕生した。その後、たかが商売人三井に降ってわいたのが官業払い下げである。

薩長の子分になったにわか討幕派か幕末をうまくかわしたそこらのチンピラに、官業払い下げという棚から牡丹餅が落ちてきていきなり金持ちになった。タダで鉱山をもらったのではない。多くは補助金がついていた。

そのころの庶民の生活は凄惨を極めた。東北では毎年餓死者を出す国でありながら600万の非生産人口を抱えていた。軍隊。東大を出ても60円の初任給、百姓はカネに換算して10円/月もなかった。その十円も小作料に消えた。土地持ちの百姓はほとんどいない。

安政年間のあるとき、福岡県八女市のまさに百姓のせがれが世界を夢見た。彼は三井に入りこの地大牟田の鉱山会社の事務長になる。八女高、熊大、東大、MIT・・・三井

 

貧乏人は貧乏に弱く常にカネの計算をする。ところがゆったりとした環境に育つ金持ちは他人と自己を比較することは軽蔑すべきこと、教養のない人間のすることという教育が身についている。自分は自分と戦うものだ。

檀琢磨。閘門式の港とは世界中にどこにもなく、現在もない。干満の差が大きい有明海は、引き潮の時港がすっからかんになる、そこで可動式の堰を作った。満ち潮の時船を港内に入れ、堰を閉めた。これは誠に異様な光景である。10000トン強の船が3隻、浮かんでいるがそこはいわば水たまりで、閉じられた堰の外には延々干潟が続く。

檀琢磨。やがて三井の総帥まで上り詰めるこの男が作った。カネコネですべてが決まる今の日本とは違うのだ。

別の部屋のマントルピースの上の鏡。彫刻の精緻さ、鏡の上はパルテノン。

 

斜めに2000m、垂直に400mこんなエレベータが想像できるか。そのエネルギー源として高価なデービーポンプを輸入しようとするとき社内の全員が反対した。彼は言った。私は首をかけている。意見が通らないなら私はやめるが私と同じ実力を持つものを連れてこい。

デービーポンプはすさまじい実力を発揮し、会社は慌てて10機を追加注文した。

檀琢磨。やがて三井の総帥(そうすい)まで上り詰めるこの男が導入した。カネコネですべてが決まる今の日本とは違うのだ。

伊藤博文は壇に↓の書を贈った。2双あるが一つは紹介したので今日は港倶楽部の個室にあるもの。

浦を潤し山を輝かす

山口出身、維新の臆病者伊藤も書はややいいのを書く。この部屋で明治の熱い日本に思いをはせフランス料理をいただく。これ至福ならずや。教養がない奴はこんなことしても意味がないからカッコつけずに同じカネで中洲のお姉ちゃんの膝をなでながら酒を飲め。

檀は右翼テロに遭い東京三越の前で射殺された。

↑今は使われていない。復活するように言っておいたので行く人はからけんのおかげと思い電話してください。スマホじゃなくてここに来たら壁にかかったダイヤルを回してほしい。

機能性だけを追求したTOTOの洗面台はさみしい。無骨な洗面台は空襲にも耐えた。

この県境は風土を反映している。このほうが良かった。佐賀がないから。

さあ次回はいよいよ食事。個室のドアのドアノブの位置は床から1メートル。低い。主人はみずからドアなど開けない。召使いがドアを開けるので控えめな姿勢をとらせるためにそうした。合理的根拠のある差別は望ましい。

 

 


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