か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

大尉殿、員数(人数)が足りません

2012年02月01日 | 東洋歴史

何人だ。
5名であります。
階級を言え。
兵長1名。兵4名であります。

大尉は気が立っていた。自殺攻撃が効果のないことは将校ならだれでも知っていた。着艦もできない17,8歳の少年が死んだ。誇りある帝国の落日は近かった。

大尉は自分が家畜になったような気がしつづけている。志願したのだというのはなんと巧妙な偽装であるか。10代の子供をだますのはやさしい。誤報を押し付けおだて故郷や父母の名誉を持ち出ししまいには2階級特進をえさにした。大尉は大西が始めた体当たり攻撃を命ずる大きな流れの中にいた。

俺が言わなくてもだれかが言った。自分をなだめようとしてもあの笑顔の少年たちをだまして殺したという事実は日に日に重くのしかかった。

レイテの戦果は惨憺たるものだった。米軍の言うBAKA ATTACKは全く戦況に影響を与えていない。帝国海軍はMagic Fuseの存在すら知らなかった。すさまじい弾幕の中にヨタヨタ鴨が死にに行った。2500機のうち80機程度がたどり着いた。米軍は小型の油槽艦が数隻沈んだがわが方は確実に2500人が死んだ。

死ぬかもしれないところに進めないというのなら、それは軍人の恥だ。だが100%死ぬところに行かせるのは指令官として失格だ。戦場ではときとして死ねという命令も出る。それは十分な戦果を期待してのことで、単に部下を犬死させたことを美化してはならない。

栗田が怖気づいて引き返したためなおさら特攻は犬死になった。その栗田はその後海軍兵学校の校長になるからお笑いだ。

ほうほうの体で佐世保に引き返した生き残りの敗残艦隊はもうまったく戦意はなかった。今度やったらおしまいだ。俺は逃げるぞ。この5名以外にもこう思ったやつは多い。

兵たちは1月というのに敗戦を確信していた。佐世保の知人宅、古い防空壕、松浦の山の中、有田の炭焼き小屋。ついに兵たちは分散して逃亡した。

大尉は捜索隊長に任命された。脱走5名という人数の多さから捜索には200名の兵が動員された。大尉は考えた。俺はまた人を殺そうとしている。このまま捜索をやめて終戦になっても何の影響があろう。俺は帝国海軍にはいって味方を殺すことばかりしてきた。鉄道が止められ過酷な臨検が行われた。

兵2名は発見され軍法会議ののち銃殺になった。遺族の貧窮を考え戦死扱いにされ死体は海に捨てられた。戦死となれば軍人恩給が出るからだ。

残りの3名は終戦まで隠れ通した。ある村人が懸命にかくまった。息子を海軍に出している村人には、息子と脱走兵が重なって見えた。

大尉は今施設で死の床にある。僕もあわゆくはからけん海軍大尉になっていた。おじさん、海軍大尉なんて60年前にやめたことだよ。おだやかにすごしてね。

ブログ一覧
Posted at 2012/01/18 19:35:09

最新の画像もっと見る