か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

川棚航空魚雷製造秘密基地

2017年05月24日 | 東洋歴史

大村湾は、西海橋がかかった一点で外海と接し、事実上の湖のようなものである。二式大艇や水戦が羽を休めるに格好の海だ。

戦前からここには3か所に分けて魚雷製造工場があった。防諜のためとか空襲被害を分散するためとか後づけの理由は言われるが、まとまった工作機械がなかったからだと思えた。

なぜなら、まるい筒のなかにエンジン、バッテリーを積み込み、火薬を積み込んでいればバカでも魚雷と分かる。艦載機で破壊すれば事足りる小さな町工場程度が3か所だろうと1か所だろうと関係ない。

91式航空魚雷を日本のとっておきの秘密兵器のように言うが、一本二本の魚雷で戦争が決まるのではない。アメリカは数万本の魚雷を作り、日本の艦船はほとんど魚雷で沈められた。終戦も近くなるとアメリカの潜水艦は浮上して攻撃した。日本の反撃力がないことを馬鹿にしていたのだ。

哀れな負け方をするのは当たり前だ。裏通りのチンピラが山口組に勝負を挑んだのだから。

 

単冠(ひとかっぷ)湾に集合したとき、飛行甲板におかれた91式魚雷(航空魚雷)

諸元(時代によって大きく異なる)長サ5m 径45cm 射程2000m 炸薬235kg 水中速度約100㎞/h

ただ、明治維新から50年かそこらしか経ずして欧米の最先端技術をものにしていた。これを日本人の優秀性によるものだと言い張る邪魔にしかならないのがいて気が滅入る。

日本人は頑張ったのだ。それを軍国主義の一言で悪人視するのにもイラっと来るが、大日本のすることは何でも素晴らしいと朝鮮人の火病のようにわめくのにもうんざりだ。もっと正直に自分の学校の成績を見直せ。

多くの論点があるが、魚雷の基本とお金の話をする。

航空魚雷というだけあって飛行機から敵の船に打ち込む魚雷だ。今でいう空対艦ミサイルだが、魚雷がすべて旧式になったわけではない。近所の渡辺鉄工所ではパートのおばちゃんが今でも作っている。捨てがたい良さがあるのだ。

安い。戦時中の金で2万円(今の5億円)。ミサイルの1/20だ。じゃあ20倍ミサイルが優れているかというとそうでもない。ミサイルは、早く、隠れて、正確に、敵のトーチカ(壕)の入り口に回り込んで爆発するが、威力は20倍あるはずなく20か所を破壊できない。

ちなみにゼロ戦は5万円、飛燕は8万円。ゼロ戦を買おうと思ったら労働者は800年間、飲まず食わずで働かねばならなかった。貧乏日本はそれを1万機作ったのだ。魚雷は17000発。

それらは結局、必然的に水泡に帰し日本は国富の1/4を失った。

 

製造誤差があるので一本一本水槽に浮かべミリ単位でバッテリーを動かして重心を調整した。時代によって違うし、真珠湾の水平雷撃が記憶に焼き付いているが、実際はそんな低空飛行は自殺テロに近い。100メートルの高度から200m滑空させるとか、のちには1000mから落とし400m滑空するようにした。魚雷が水中走行に入ると日本の得意の、排気に酸素や空気を混ぜもう一度燃焼させ雷跡をほとんど消す酸素魚雷が推進力となった。その時の水槽

発射試験場

同じ場所から震洋の練習場が見えた。

招集された少年のなかには16歳のものがいた。アメリカ兵にとっては遊園地の射的場感覚だったろう。少年たちは万が一生き残ったら敵艦のスクリューに向かって泳ぎ米兵の心胆寒からしめよと教えられた。しかし、死ねと言ったものは生き残った。ずるい人間は戦後を臆面もなく生きた。彼らの口が「すまなかった」と言うことはついぞなかった。

 

 

 

 


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