か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

너무 멀리왔어

2016年10月02日 | 思想

タイトルは「戻れないほど遠くに来たね。」という意味だ。日本人は、あまり使わない言葉で、その概念も少し違う。言葉は内面を表現する手段であるだけでなく、その人の内面を言葉という道具で線引きして概念を決定する。

そこで、自由に考えているようでも、その人の言葉がどういう姿をしているかによって、考えの結論すら左右される。

僕らは自由に考えているつもりの日本語に、知らず知らず縛られている。だから外国語は重要なのだ。日本語という鈍い包丁でスイカを切ろうとしていたわけだ。他の言語にしたらスパスパ切れたりする。つまり、考えの結論がたやすく出る。

これは、日本語という包丁だけを持つ人には、わからない。

だから、遊びたいのを我慢して学習したことの無い人には、人生とは、ただ合法だろうが不法だろうが自分にいかに利益を掻きこむかだけの手段になる。

ま、せいぜいダボハゼのように無節操にがぶついて儲かってくださいな。

 

タイトルは、『あまりにも遠くに来てしまった。引き返した方がよさそうだけどいまさら自分の生き方を変えられない。崖に向かうしかないが俺はもはやこう生きるのが美学なのだ。』と、友達が戻ろうというのにカッコつけて拒否するパターンだ。韓国人が好む男の美学だ。

子供もよく使うが、それはたんに縄張りを越え、隣町に足を踏み入れたときの言葉だ。『さあ皆で帰ろう。』という意味は、大人が使うほどの究極の判断ではない。

大人たちがする苦渋の決断は大人であってもダボハゼには理解は無理だ。ペットと車と酒と仕事のためだけに生き教養をつけようとはしない。ただの霊長類だ。正確に言うとメクラチビクロゴミ虫だ。

いつ悩んだ。いつ選択の岐路にたった。ああ、あるな。AのペットかBのペットか悩んだな。軽のグレードで悩んだろう。

ほんと、犬の写真を並べて自分の能天気をさらし単語を並べた日本語で、どうして満足か。日本では痴呆は老人だけのものではない。

 

 

 

 

 

 


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