《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

平城京よもやま話「行基さん」

2010年04月23日 | Weblog
15歳で出家をし薬師寺に入る。道を作ったり橋を掛けたりしり、また水田開発などの社会事業も行った。河内生まれの渡来人の子孫と言われている。業をすることにより民衆を救済するという「利他行」の思想を率先した僧。彼の周りには救いを求める多くの人々が集まり、いたるところで「乞食集団」が作られたので、朝廷は「百姓を惑わす悪い僧」だと言って活動をおさえるが、730年には春日野に大集会を開き説法を行う。大仏作りに協力するが完成を待たずに749年喜光寺(菅原寺)で没する。平城京の民衆とは切り離せない僧侶の一人。画像は今年5月に再建され落慶法要が執り行われる喜光寺南大門。
(今日の歴史=717年農民がみだりに僧尼になることを禁じられる)

割込み旅メモ「開会式を待つ平城京」

2010年04月22日 | Weblog
平城京遷都1300年祭開会式まであと三日。こちらの規模はグーンと小さいが、どこかの国と異なり十分開催に間に合うようだ。今まで朱雀門と新しく建った大極殿にのみ見慣れていたが、塀に囲まれた大極殿を見るになんだか違和感を感じる。当時の庶民はこの位置に立つことは許されなかった。開催式当日に衛視役をする人たちが連日リハーサルをしている。
(今日の歴史=1950年山本富士子が第一回ミス日本に選ばれる)

平城京よもやま話「土馬」

2010年04月20日 | Weblog
現代のように医療や薬がない時代「土馬」の使い道は病や不幸、悪病神は馬に乗って早く去って欲しいという願いが込められて埋められた。また足の折られた土馬については不幸なことが広がらないことを願ったとか、足を患った人がそこを折って埋めたという考えもある。
(今日の歴史=1555年織田信長が清洲城を奪い尾張平定の足場とする)

割込み旅メモ「東方官衙発掘」

2010年04月19日 | Weblog
「築地塀と築地塀に挟まれた礎石建物が建ち並ぶ様子が確認され、3棟2列の6棟があったと見られる。役所としてどのような区画であったかは不明で、平城宮の調査ではあまり例を見ない。類似の配置を持つ役所としては式部省と兵部省が築地塀で仕切られた区画に礎石建物が一棟づつ配置されており、執務場所と見られている」奈分研の平城宮発掘調査説明会により。役所というところは当時から塀で囲んだ秘密主義だったのだろうか、案外根は深いぞ!
(今日の歴史=1951年ボストンマラソンに日本初参加し、田中茂樹が優勝する)