歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

2023年弘前城の桜

2023年05月10日 15時01分41秒 | 

2023年4月14日(金)昼、弘前城(弘前公園)の桜を愛でてきました。今年は全国的に暖かく、弘前城の桜も2日前に満開宣言が出ていました。遅れましたがこの写真をお見せします。

まずは追手門から三の丸、二の丸、本丸、四の丸を経て北門から出ました。写真1は、追手門口からの三の丸南濠の桜です。

写真2は、追手門です。

写真3は、二の丸東南角の辰巳櫓です。

写真4は、二の丸への杉の大橋です。

写真5は、南内門です。

写真6は、二の丸西南角の未申櫓です。

写真7は、本丸への下乗橋です。

写真8は、修理中の本丸石垣から奥に移転された天守です。

写真9は、南からの天守です。

写真10は、東南からの天守です。

写真11は、北からの天守です。

写真12は、西南からの天守です。

写真13は、天守上からの本丸の桜です。

写真14は、修理中の本丸石垣と桜です。

写真15は、西濠に沿った桜のトンネル東側です。

写真16は、桜のトンネルです。

写真17は、春陽橋からの西濠です。

写真18は、四の丸の北門です。

写真19は、奥に北門口の亀甲橋です。

最後の写真20は、三の松東濠です。すでに桜筏が水面に浮かんでいます。

(2023.05.10)

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2023年鶴見川太尾堤の桜

2023年03月28日 16時15分59秒 | 

2003年3月27日(月)午前、鶴見川太尾堤の桜を愛でてきました。満開を少し過ぎて盛りでした。この写真をお見せします。

(2023.03.28)

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2023年大倉山梅林

2023年03月01日 16時07分33秒 | 

2023年2月25日(土)午前、大倉山梅林に観梅に行きました。ほぼ満開でした。下入口から上と上っていきます。この写真を木全体を基本としてお見せします。

〈紅垂れ桜〉

〈白垂れ桜〉

〈白加賀〉

〈玉垣〉

〈鹿児島紅〉

 

〈長寿〉

〈八重垣〉

〈玉牡丹〉

 

〈紅千鳥〉

 

〈古今集〉

 

(三吉野)

〈唐紅〉

〈田子の浦〉

〈紅千鳥〉

 

〈冬至

梅〉

〈月影〉

〈見驚〉

〈野梅〉

〈緑荸梅〉

〈八重寒梅〉

 

〈玉簾〉

〈春日〉

〈冬至梅を前に各梅〉

最後は、25日(土)・26日(日)に開かれる第35回大倉山寒梅会での「和太鼓ユニット三色だんご」による和太鼓演奏風景です。本会はコロナにより3年振りのものです。

(2023.03.01)

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京都寺巡り(6)金地院―歴史雑感〔86〕―

2023年02月16日 14時21分44秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月8日(水)午前、南禅寺に続いて臨済宗南禅寺派金地院(京都市左京区南禅寺福地町86-12)を訪れました。本院は南禅寺の塔頭で、徳川幕府初頭の政僧として知られる以心崇伝が住していました。

写真1は、方丈(重文)からの蓬莱式枯山水の鶴亀庭園全景です。小堀遠州作庭です。奥に見えるのは金地院東照宮(重文)です。小堀遠州作の茶室「八窓席」(重文)が方丈北側の小書院に付設されています。方丈内の狩野派の襖絵と共に見学しました。

写真2は、鶴亀庭園の左にある弁天池です。

写真3は、金地院東照宮です。寛永5年(1628)に造営されました。

写真4は、方丈と鶴亀庭園です。

写真5は、方丈です。

写真6は、鶴亀庭園です。

真7は、右側の鶴島と下に羽石です。

写真8は、中央の平面石が遙拝石で奥が三尊石組で、さらに奥が蓬莱山です。右の石は鶴嘴石です。

最後の写真9は、左側の亀島と下に亀甲石です。最右の石が亀頭石です。

以上、京都寺巡りは終わりです。

(2023.02.16)

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京都寺巡り(5)南禅寺―歴史雑感〔85〕―

2023年02月15日 15時02分35秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月8日(水)午前、自由散策として、まず臨済宗南禅寺派大本山瑞龍山南禅寺(京都府左京区南禅寺福地町86)を訪れました。本寺は、正応4年(1291)、亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて開創されました。実際の寺院の建物は、第2世規庵祖圓禅師(南院国師)により、約15年をかけて完成しました。これにより規庵禅師が創建開山と呼ばれるようになりました。

写真1は、左に勅使門(重文)、右に中門です。

写真2は、勅使門です。

写真3は、「天下竜門」と称される三門(重文)です。上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つです。三門は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、高さは約22mです。

写真4は、三門楼上から勅使門へとです。

写真5は、三門楼上からの南禅僧堂です。

写真6は、三門楼上からの法堂です。

写真7は、拡大した法堂です。

写真8は、三門楼上からの天授庵です。

写真9は、法堂です。

真10は、同じく法堂です。

真11は、法堂の右手側を流れる琵琶湖疎水「水路閣」です。大津市内から東山区蹴上へと通じています。

写真12は、同じく疎水で、奥は法堂です。

写真13は、疎水で蹴上へと流れていきます。

写真14は、法堂右側面です。

最後の写真15は、裏面の三門です。

(2023.02.15)

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京都寺巡り(4)清水寺―歴史雑感〔84〕―

2023年02月13日 16時26分50秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月7日(火)午後、北法相宗音羽山清水寺(京都市東山区清水1丁目294)を訪れました。副住職のお出迎えを受け、大講堂で貫主お話を伺いました。次いで多宝閣を参観しました。そして成就院の庭園を拝見しました。

写真1は、大講堂から眺めた京都市街です。

写真2は、三重塔(重文)です。

写真3は、本堂(国宝)の舞台からの京都市街です。

写真4は、舞台から手前に音羽の瀧、奥に子安塔(重文)です。

写真5は、奥の院(重文)からの本堂です。

最後の写真6は、舞台を下から眺めたものです。なお、時間の関係で多くの建物は撮っていません。

以上で、武蔵野文化協会2月例会の寺巡りは終わりです。

(2023.02.13)

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京都寺巡り(3)萬福寺―歴史雑感〔83〕―

2023年02月12日 16時24分09秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月7日(火)午前、黄檗宗大本山萬福寺(京都府宇治市五ケ庄三番割34)を訪れました。山門で副住職のお出迎えを受けました。本寺は明から渡来した隠元隆琦が寛文元年(1661)に開創しました。他の日本の寺院とは異なり、建築物・作法等が基本的に明末の様式となっています。ですから、本堂も中国式の大雄寶殿と称します。

写真1は、総門(重文)です。中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼式となっています。本寺の建物は基本的に中国の明時代末期頃の様式で造られています。これは宗祖隠元禅師によるものです。

写真2は、山門(重文)です。重層の楼門造りで、正面の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書です。

写真3は、天王殿(重文)です。弥勒菩薩(布袋像)が安置されています。山門から続く参道は石で龍の背の鱗を模擬化したもので、本寺の参道は基本的にそうなっています。

写真4は、山門の先の左側に位置する開山堂(重文)です。黄檗開山隠元禅師をお祀りしているところです。

写真5は、開山堂の左手前にある松隠堂(重文)です。隠元が住持を退いた後に居住したところです。

写真6は、壽塔(真空塔)、すなわち「開山隠元和尚之塔」です。

写真7は、壽塔の手前右の亀跌です。

写真8は、中和園です。奥は山門です。

写真9は、法堂側から見た大雄寶殿(重文)です。

写真10は、法堂(重文)です。説法の場で、内部に須弥壇のみを置いてあります。扁額「獅子吼」は費隠書で、勾欄は卍及び卍くずしの文様で、開山堂も同様です。

写真11は、鐘楼(重文)です。

写真12は、東方丈(重文)の石庭です。

写真13は、東方丈の庭園です。

写真14は、東方丈です。

写真15は、法堂と左に西方丈(重文)です。

写真16は、大雄寶殿です。本尊は釈迦牟尼佛、両脇侍は迦葉、阿難の二尊者、両脇に十八羅漢像を安置されています。上層の扁額「大雄寶殿」は隠元書、下層の扁額「萬徳尊」は木庵書です。以上で本寺は終わりです。

塔頭宝蔵院に移動し、昼食後、鉄眼版一切経版木(重文)を見学しました。全6956巻の6万枚の版木が保存されています。一枚に版木は縦26cm・横82cm・厚1.8cmで、吉野杉です。鉄眼禅師により延宝6年(1678)に足かけ17年をかけて完成しました。

写真17は、版木と戦前の国定教科書に載せられた鉄眼禅師を示しています。

写真18は、版木とその印刷物です。ご覧のように、現在の明朝体の素となったものです。

写真19は、3階から2階の版木を見たものです。

最後の写真20は、3海にある版木の印刷場です。

(2023.02.12)

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京都寺院巡り(2)天龍寺―歴史雑感〔82〕―

2023年02月10日 16時21分14秒 | 日本史(古代・中世)

023年2月6日(月)午後、臨済宗天龍寺派大本山霊亀山天龍資聖禅寺(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68)を訪れました。本寺は、後醍醐天皇の菩提を弔うために、暦応2年(1339)、足利尊氏を開基、夢窓疎石を開山として、創建され、康永4年(1345)、落慶しました。まず、副住職の御案内で法堂に入り、住職のお話を伺い、その後に加山又造作「八方睨みの龍」の天井画の説明を受けました。次いで、方丈の方へと移動しました。

写真1は、方丈奥に位置する後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂の後醍醐天皇聖廟多宝殿です。

写真2は、方丈裏(西側)の曹源池庭園で、この右側の部分です。夢窓疎石の作庭と伝えられています。

写真3は、曹源池庭園左側部分です。借景に嵐山をえています。

写真4は、曹源池庭園中央奥の龍門の滝です。

真5は、方丈に入り撮った曹源池庭園です。

真6は、大方丈からの曹源池庭園です。

真7は、同じく龍門の滝です。

写真8は、小方丈からの曹源池庭園全景と大方丈です。

真9は、大方丈中央に掲げられた扁額「方丈」で、関牧翁老師(天龍寺第8代管長)筆です。

写真10は、方丈庭園(東側)と奥に中門です。

写真11は、大方丈内を写し込んだ方丈庭園です。

真12は、大方丈玄関前の石庭です。

最後の写真13は、総門です。

(2023.02.10)

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京都寺院巡り(1)臨川寺―歴史雑感〔81〕―

2023年02月09日 16時33分06秒 | 日本史(古代・中世)

2023年2月6日(月)~8日(水)、武蔵野文化協会の2月例会として「京都を巡る」と題して寺院を巡りました。最初は6日午前の霊亀山臨川寺(京都市右京区嵯峨天龍寺造路町33)です。臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の別院です。非公開寺院で、特別に副住職の御案内を受けました。

写真1は、山門です。普段は閉められおり、特別にここより入らせてもらいました。

写真2は、奥の中門への参道です。

写真3は、中門です。この奥に龍華三会の庭と三会院(本堂)です。

写真4は、中門に掲げられている足利義満筆の扁額「三會院」です。

写真5は、手前が龍華三会の庭、奥が三会院です。

写真6は、同じく龍華三会の庭、三会院をより右から少し拡大したものです。院内には中央に本尊の弥勒菩薩、右に世良親王像位牌、左に開山の夢窓疎石木像があります。

写真7は、三会院からの龍華三会の庭です。さらに、奥に中門・参道・山門です。

写真8は、夢窓疎石が埋葬されている開山堂です。三会院の左後方に位置します。床下にある蓮華石の下に埋葬されています、のぞき込めば、石が確認できます

最後の写真9は、世良親王墓のあるところです。本寺の地は亀山天皇の離宮亀山殿の別殿川端殿であり、皇女昭慶門院憙子内親王、後醍醐天皇第二皇子世良親王と相続されました。若くして死去した親王に代わり、父後醍醐天皇が建武2年(1335)に夢窓疎石を開山として川端殿を改めて臨川寺を建立しました。そして、親王の墓地ともなりました。

(2023.02.09)

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2023年三嶋大社初詣

2023年01月03日 15時02分19秒 | 初詣

2023年1月1日(日)、三嶋大社に初詣をしました。写真1は、大鳥居前からのもです。参拝者の列はご覧のように大鳥居から歩道の左側へと50m余も伸びていました。11時31分撮影です。

写真2は、神門手前からのもので、11時49分撮影です。

写真3は、神門を通ったところで、参拝待ちの整理で止まったところです。11時51分撮影です。

最後の写真4は、参拝を終えたところで撮ったものです。11時58分撮影です。

(2023.01.02)

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中田島砂丘の初日の出

2023年01月02日 16時00分12秒 | 観光(日本)

2023年元旦(日)、静岡県浜松市の中田島砂丘で初日の出を勧賞しました。この写真をお見せします。なお日の出は6時55分頃です。

写真1は、日の出を待つ6時53分の海岸線です。

写真2は、初日の出直後の56分です。海岸線中央に太陽が姿を現しました。

写真3は、はっきりと太陽が姿を現しました。

写真4は、望遠一杯での太陽で58分です。、

写真5は、逆に一杯に引いて撮ったものです。

写真6は、ほぼ上がった太陽です。

写真7は、上がった太陽で、59分です。

最後の写真8は、帰りの砂丘上から上がった太陽を撮ったものです。7時3分です。

(2023.01.02)

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2022年度記事目次

2022年12月31日 09時00分28秒 | 記事目次

壬寅年を終わるに当たって、2022年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、癸卯年がよいお年で。

 

01.06 富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク

01.08 富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮

01.10 富士山と初詣(3)日本平と三保の松原

01.12 富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社

01.14 富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―

02.08 江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

03.10 2022年大倉山の桜

03.14 公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―

04.08 石垣山城遺址―歴史雑感〔73〕―

04.10 後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―

04.12 2022年小田原城の桜

05.06 奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

05.31 伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

06.02 伊勢神宮(2)伊勢神宮外宮・横山展望台

06.04 伊勢神宮内宮・金剛證寺・朝熊山展望台

07.26 北条政子は源頼朝の正室に何時なったのか―歴史雑感〔76〕―

09.10 前期鎌倉幕府における武蔵国支配―〔77〕―

09.26 第三代将軍源実朝の元服式―〔78〕―

10.31 鎌倉上道と武蔵武士史跡(上)―歴史雑感〔79〕―

11.02 鎌倉上道と武蔵武士史跡(下)―歴史雑感〔80〕―

12.08 湯河原・もみじの郷

12.11 2023年の中国の祝日―中国雑感〔55〕―

12.31 2022年度記事目次

(2022.12.31)

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2023年の中国の祝日―中国雑感〔55〕―

2022年12月11日 20時44分11秒 | 中国祝日

明年の祝日(休日)に関して、2022年12月8日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。2021年から12月発表が11月に早まりましたが、今回は12月となったのは元国家主席江沢民死去による追悼大会(6日)を終えてからとしたためでしょう。

一 元旦(1月1日)

12月31日(土)~1月2日(月)の3日間を休日。

二 春節(旧暦元旦 1月22日) 法定休日(旧暦大晦日・元旦・1月2日)

1月21日(土)~27日(金)の7日間を休日。

1月28日(土)〔26日・木〕・1月29日(日)〔27日・金〕振替出勤日。

三 清明節(4月5日)

4月5日(水)の1日間を休日。

四 労働節(5月1日)

4月29日(土)~5月3日(水)の5日間を休日。

4月23日(日)〔2日・火〕・5月6日(土)〔3日・水〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月22日)

6月22日(木)~24日(土)の3日間を休日。

6月25日(日)〔23日・金〕振替出勤日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月29日)・国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

9月29日(金)~10月6日(火)の8日間を休日。

10月7日(土)〔5日・木〕、8日(日)〔6日・金〕振替出勤日。

 

国务院办公厅关于2023年部分节假日安排的通知

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2023年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:2022年12月31日至2023年1月2日放假调休,共3天。

二、春节:1月21日至27日放假调休,共7天。1月28日(星期六)、1月29日(星期日)上班。

三、清明节:4月5日放假,共1天。

四、劳动节:4月29日至5月3日放假调休,共5天。4月23日(星期日)、5月6日(星期六)上班。

五、端午节:6月22日至24日放假调休,共3天。6月25日(星期日)上班。

六、中秋节、国庆节:9月29日至10月6日放假调休,共8天。10月7日(星期六)、10月8日(星期日)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2022年12月8日

(2022.12.11)

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湯河原・もみじの郷

2022年12月08日 19時48分10秒 | 紅葉

2022年12月1日(木)午前、もみじの郷ハイキングコースを歩きました。奥湯河原温泉の池峯橋から出発しました。

まずは上りもみじ山に至ります。写真1~4が、もみじ山の紅葉です。

ここから下りになり、次は写真5・6の、池峯です。

さらに下ると、遊歩道の左右に紅葉が広がります。ここではまだ5・6分咲きぐらいです。写真7~9が、そうです

最後の写真10は、ハイキングコースの終点です。撮影・休みを入れて1時間20分ほどでした。

(2022.12.08)

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鎌倉上道と武蔵武士史跡(下)―歴史雑感〔80〕―

2022年11月02日 20時00分39秒 | 日本史(古代・中世)

2022年10月29日(土)午後、「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」を続けます。北上した最初の地が笛吹峠(比企郡鳩山町須江)です。正平7年(1352)に宗良親王を奉じた新田義宗が峠に陣して足利尊氏と合戦を行っています。写真1は、戦前に県が立てた「史蹟笛吹峠」石碑です。実際の鎌倉街道上道の峠は道路の東に行った将軍沢の谷間であり、現在は廃道となっています。

さらに北上して、写真2の、大蔵館跡(比企郡嵐山町大蔵522)に至ります。大蔵神社となっています。源義賢の館跡とされており、現存の遺構から東西170m、南北220m、面積4万㎡の規模を持つ土塁と堀を巡らした方形館です。現存する大館と発掘調査で確認された方70mの小館(北西面)からなっています。発掘調査により12~15世紀にかけて活動していたことが確認されます。場所的には東約100mに鎌倉街道が南北に走り、北に都幾川の河川交通の交わる大蔵宿がありました。ここは、久寿2年(1155)8月、源義朝の長男義平が攻撃し、叔父義賢と養君とした秩父重隆を討取った大蔵合戦の地です。これにより義平は悪源太の威名を轟かします。

写真3は、大蔵神社内から見た西南角の土塁跡です。西南角は一段と高く、館の中心と考えられます。

写真4は、大蔵館跡の東に位置する源義賢墓(比企郡嵐山町大蔵66)の五輪塔です。火輪・水輪部のみ現存し、風輪部は欠損し、空輪・地輪部は後から補ったものです。県内最古の部類に属します。コンクリートの覆堂内にあります。左側から撮ったものです。

写真5は、右側上から撮ったものです。

菅谷館跡(比企郡嵐山町菅谷757)へと移動し、写真6は、二郭土塁上にある畠山重忠像です。本館跡は武蔵国最大の武士団である秩父一族の長男流の畠山重忠の居館とされた地です。ただ、発掘調査では鎌倉期の遺構等は確認されておらず、現遺構は戦国時代の城跡といえます。

時間の関係で本郭、一ノ郭、二ノ郭、西ノ郭、南ノ郭からなる館跡全体を見学することはできず、写真7の、本郭のみです。門土橋前から右へと土塁と空堀を撮りました。

写真8は、本郭南部から北へと土塁を撮りました。

次いで、写真9は、三門館跡(比企郡滑川町和泉1237)です。源頼朝の乳母比企尼の夫比企遠宗の館との伝承のある所です。北西と南東を丘陵で囲まれた地で、発掘調査で北西丘陵上に南北に180mの空堀が認められ、北端から東に50mほど延びています。空堀の両側には土塁が認められます。但し、平地ではなく東西の丘陵地に土塁・空堀を設けた館は例がなく、極めて特異な館跡といえます。西の丘陵上で撮ったものです。。

さらに進み、写真10は、曹洞宗扇谷山宗悟寺山門(東松山市大谷400)です。本寺は当地を知行した旗本森川氏の菩提寺です。比企尼の居宅があったとの伝承のある、寺西北の比丘尼山にあった大谷山寿福寺を天正20年(1592)に移転し寺号を変えました。

写真11は、本堂です。

写真11は、源頼家の妾比企能員の娘若狭局が逃れて持ち帰ったと伝承のある源頼家位牌です。本堂本仏の右前脇にあります。3行にわたって、「鎌倉二世源姓頼家」「長福寺殿當寺開基大相国公一品寿福義仁大居士」「元久元年甲子七月一八日」、記されています。明らかに江戸時代のものと思われます。

写真12は、左前脇のある蛇苦止観音像です。若狭局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀ったとの伝承のあるものです。なお、比企尼が若狭局の悲しみを去らせるため、頼家形見の櫛を沼に沈めさせたとの伝承のある串引き沼が本寺の北、比丘尼山の北東に接してあります。

写真13は、本堂左前に立つ「比企一族顕彰碑」です。1994年建立です。

写真14は、宗悟寺に入る道から見た比丘尼山で、右の奥の丘陵です。

坂東十一番札所の吉見観音として親しまれている真言宗智山派岩殿山安楽寺(比企郡吉見町御所374)に移動しました。源範頼が本寺で幼少期を過ごしたとの伝承があります。写真15は、仁王門です。本寺は天文6年(1537)の上杉憲政と北条氏康との松山城合戦で全山消失しています。元禄15年(1703)に再建されました。

写真16は、本堂です。寛文元年(1661)に再建されたものです。本堂と次の三重塔は範頼が建立したと伝えられています。

写真17は、三重塔です。寛永年間(1624~8)の再建で、現存する最も古い建築物で、総高24.3mです。

最後の訪問地は真言宗智山派清月山金剛寺(比企郡川島町中山1198)です。本寺は比企左馬助政員・則員親子が中興しました。則員は比企能員の孫員茂の子孫と称していて、旗本となりました。これによりこの地は比企氏館跡とされています。写真18は、本堂の右に入った所にある比企氏の位牌堂である大日堂です。

最後の写真19は、大日堂の裏にある比企氏の墓地です。左から3番目が比企則員墓(1557~1616)です。

(2022.11.02)

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