ファン・エイク兄弟《神秘の子羊》の修復調査によると、子羊の上部左寄りに描かれているユトレヒトの「DOM(ドム)塔(Domtoren)」は後筆ではなく元々描かれていたとのこと。
精細画像を拡大して見ると、子羊の上方左寄りに見えるのは、確かにユトレヒトのDOM塔なのだ。
http://legacy.closertovaneyck.be/#viewer/id1=37&id2=0
https://en.wikipedia.org/wiki/Dom_Tower_of_Utrecht
《神秘の子羊》の背景には、エルサレムの尖塔(?)やら、フランドル都市の教会や街並みが描き込まれているようだが、中央寄りの目立つ位置に何故フランドル地方では無いユトレヒトのDOM塔が描かれているのか? それも精霊から放つ光を近くで浴びているし、美術ど素人の私にはちょっと不思議だった。
下記写真は2006年に撮った「ユトレヒトDOM塔」。
去年(2019年)春に再訪した時は、残念ながら尖塔部は修復工事中だった。
DOM塔は1321年から1382年にかけて建設されたと言う。当時からその高さと威容はネーデルラントでも有名だったに違いない。ヤンがハーグでビネンホフ城の仕事をしていた頃、ユトレヒトに行きDOM塔を見て素描した可能性は大いにあると思う。
もしかして、《神秘の子羊》背景を描きながら、空間が空き過ぎてちょっと寂しいなぁ、手持ち素描のユトレヒトDOM塔を入れちゃえ♪ などということがあったかも??と、美術ど素人的に楽しく妄想しているのだが...(;'∀')
ホイジンガの考察は色々な意味で刺激的で、通りがかりの者さんのおっしゃる通り、中世人の感覚は今の私たちとは随分違っていたようですよね。それに、現存するファン・エイク作品が少な過ぎるのも確かなのです。
ちなみに、西洋美術史の京谷啓徳先生の「凱旋門と活人画の風俗史」(講談社)で当時のブルゴーニュ公国の入市式について知り、宮廷出し物の様子も想像され、もしかしてファン・エイク工房なども関わった可能性があるのではないかと思ってしまいました(^^ゞ
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195621
私のド素人目でも、左翼上部磔刑図はヤン筆と思えますし、右翼の多くは(下絵はヤンであっても)工房作のように思えますが、METとしては言えないだろうと思います(^^;
で、おっしゃる通り、ヤンの地獄図である「最後の審判」の作例はこれだけかもしれませんね。なので異質なものを感じるのも確かです。(なんだかボスの先駆的作品のようにも見えました(^^ゞ)
しかし、ホイジンガ「中世の秋」を再読しているのですが、現在残っている作品だけでヤンの仕事を理解したつもりになるのは危険だというようなことが書かれていました。ヤンがもっと多様で異色な作品を制作していた可能性もあるかもしれませんね。
特に当時のユトレヒトDOMは大司教区の司教座教会なので、DOM塔がそのシンボルとして聖霊の鳩に近い位置に描かれるのは「有り」かもしれないなぁと思ってしまいました。
ちなみに、DOM塔見学ですが、実はユトレヒト派カラヴァッジェスキ作品追っかけついでだったのですよ(^^;;