遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『親鸞 激動篇』上・下  五木寛之  講談社

2022-04-06 11:08:51 | レビュー
 「承元の法難」と称される念仏禁制の弾圧で、師の法然は讃岐へ。親鸞は藤井善信の俗名を与えられ越後へ流刑となる。この時、自ら愚禿親鸞と名を変え、妻の恵信とともに北国に旅立つ。この「激動篇」は、親鸞が越後の国府の浜に着いた1年後の春から始まる。描き出されるのは、流刑者としての越後での生活、越後で8度目の春を迎えるまで期間の生き様、および常陸の国稲田に移り家族とともに暮らしつつ、専修念仏を布教する時代である。
 師法然から『選択本願念仏集』を授かり、法然の説いた専修念仏の先に独自の歩みを開くため、親鸞は試行錯誤と新たな苦悩の中に踏み出していく。そんな激動期がストーリー化されている。小説『親鸞』として織り込まれたフィクション部分が読者にとって読みやすさに結びついているように思う。

 奥書を読むと、この激動篇は、全国の新聞44紙に、2011年1月1日~同年12月11日の期間連載され、加筆修正して上・下2巻本で2012年1月に刊行された。2013年6月に文庫化されている。

 親鸞が越後に流罪となるのは、承元元年(1207)35歳の時。史実によれば、流罪の罪が解かれたのは、親鸞39歳の11月。このとき恵信は29歳で、信蓮と名付けた男の子を既に授かっていた。親鸞が常陸(茨木県)に移るのは健保2年(1214)である。(笠原一男著『親鸞』講談社学術文庫 p64参照)

 この小説『親鸞 激動篇』を概括して捉えると、上巻では親鸞が流人として越後に着き、2度目の春を迎えようとする時点から、2度目の冬に入って行こうとする時期が濃密に描き込まれる。下巻は越後での2度目の冬から始まる。8度目の春までの期間は親鸞の人生での節目を比較的簡略に描いている。親鸞が関東に移る決断をし、関東での生活と布教がどのように進展していくかに重点が移っていく。フィクションの形ではあるが、親鸞が関東で家族と共にどのような生活を送りつつ、布教活動をどのように広げて行ったのかをイメージしやすくなる。そして、61歳になった親鸞が、関東を離れ京の都に帰る決断をする時点で、この激動篇が終わる。

 上巻は流人親鸞の2年目を描くのだが、ストーリーの山場の作り方が巧みである。
 ストーリーは「ゲドインさま」の行列の描写から始まる。親鸞は外道院金剛大権現と名乗る人物を中心とする勧進の行列に出会う。その行列に親鸞は独特の対応をするところがまずおもしろい。この時、親鸞は、早耳の長次と外道院金剛の参謀的役割を担う彦山房玄海と知り合う。親鸞の人生に、外道院金剛、彦山房玄海、早耳の長次らとの関係が新たに加わり深まっていく。もう一人、越後で親鸞に関わってくるのは、六角数馬である。六角数馬は流れ者であるが、算用の術と天与の能筆を武器として、越後の国の郡司、萩原年景の腹心の部下となっている。流人である親鸞は郡司萩原の管理下に置かれている。彼等がどのように親鸞と絡んでいくか。その経緯が読ませどころになる。

 一つの山場は、鎌倉から赴任してきた守護代戸倉兵衛が越後の郡司萩原の差配する河川の水利権に割り込もうと企てることから始まる騒動の展開。河川の利用には、旅をしてきた外道院金剛の一団も関わっている側面があり、この騒動が様々な人間を捲き込み、大きく変転していく。親鸞は必然的にその渦中に巻き込まれて行く。六角数馬と早耳の長次は親鸞への情報提供者的な役割を担っていく。この騒動は親鸞にとって、越後の実状と人々を熟知する機会となる。親鸞にとって地方の生活と民を知り、専修念仏の考えを深めて行く糧にもなっていく。外道院金剛は親鸞にとって、己を映す鏡のような存在ともなる。 親鸞の思いは、例えば次のように記されている。
「都では親鸞の言葉に真剣に耳をかたむけてくれる人々がいた。有名な法然上人の門弟というだけで、信用されていたのかもしれない。」(上、p164)
「一からはじめなけれならない、と親鸞は思う。この地では、法然上人が切りひらいてくださった広い未知を後からついて歩くことができない。そのためには、この越後の地に生きる人びとと、具体的につながって生きていくことが必要だ。外道院は、念仏者の自分より、はるかに深く人びととつながっている部分がある。」(上、p165)

 河川の水利権をめぐる策謀の途中で、もう一つの山場が織り込まれる。それは守護代が策謀絡みで発案した。紆余曲折を経て親鸞は求められた雨乞いの法会を実行することになる。越後で親鸞の弟子になった鉄杖が問いかけた言葉が、親鸞に決断させる契機となる。
 「民、百姓も、役人たちも、みな思いちがいをしているのです。それを根底からくつがえして、本当の念仏の意味を語られるには、まず、こわすことが先。こわして、焼野原になった跡に、小さな問いが生まれてくる。それでは一体、念仏とはなんだろう、という疑問です。それが第一歩ではありませんか。」(上、p226)
 親鸞の挑むこのチャレンジは実に興味深い。
 雨乞いの法会の終了は、外道院金剛との別れ、騒動の終焉にもなっていく。それは親鸞自身の転機にもなる。

 下巻は、親鸞が越後で過ごす2度目の冬から8度目の春を迎えるまでの期間をまず凝縮して描く。恵信の妹鹿野が生み残したもの言わぬ娘小野を恵信が引き取る。親鸞の生活に小野が加わってくる。相変わらず念仏に現世利益を求めて訪れてくる人々。なぜ念仏をするのかの問いかけ。施療を行うという行為を親鸞は決断する。そこにあの法螺坊弁才が来訪し施療所開設に拍車がかかる。親鸞の私生活では、三度目の秋に息子が生まれ、良信と名付ける。5年目の春にはふたたび男の子が生まれ、明信と名付ける。39歳となった親鸞に正式の赦免状がとどく。年が変わり2月には、早耳の長次が法然上人寂滅の知らせをもたらす。親鸞に仕えていた鉄杖が自死する。鎌倉での商いの縁で葛山犬麻呂が親鸞を訪れる。親鸞は犬麻呂の希望を受けとめて長男良信を託す決断をする。
 香原崎浄寬が親鸞に対し関東に来て本当の念仏を伝えてほしいと要望してくる。親鸞が忠範と名乗っていた幼少期に出会った河原坊浄寬、還俗して武士に戻ったその人からの誘いである。
 越後で迎える8度目の春、親鸞は関東に旅立つ決断をする。

 下巻は親鸞の関東時代を描き出していくところに主眼があるといえる。
 香原崎浄寬の配慮もあり、親鸞は善光寺にしばらく滞留する。寺の雑務をつとめつつ、善光寺への参詣者を観察し、人々の願いと思いをつかもうとする。性信房の出迎えと道案内により常陸の国の小島に至る。そこは浄寬が親鸞と家族のために用意した質素な草庵。そこが関東という未知の世界で親鸞が己の念仏の道、本格的な布教に歩み出す第一歩となる。
 親鸞は性信房を弟子とする。ひと月に2度ずつ香原崎浄寬の館にある道場を訪れ、そこに集う人々に念仏と布教を行うことから始めて行く。ここからは親鸞がどのように己の念仏の道を切り開きつつ、布教活動の試行錯誤を試みて行ったか。また、どのようにして己の念仏を深めるために思索と努力を重ねたかが描きだされていく。
 親鸞が道場に集ってきた人々にどのように布教をしていったのかの状況が具体的に描きこまれていく。史実とフィクションがどのように融合され織り込まれているのか私には判断できないが、親鸞の考えや思いを読み取り理解を深めて行くのには分かりやすくてよい。
 親鸞の関東での生活と布教を描く中で、ストーリーにはいくつかの山場が組み込まれていく。
 まず、浄寬は笠間の領主宇都宮頼綱の熱望を受けて親鸞を常陸の国に招いた。浄寬が宇都宮頼綱という人物と関東の情勢を親鸞に明らかにしていく。頼綱の動向が織り込まれて行く。親鸞が布教を広げる上で、国を支配する者にどのように対処していくかという問題に関連していく。親鸞がどう受けとめるか。
 2つめは、親鸞と家族は、小島から稲田の草庵に移る。稲田が親鸞の関東における活動拠点となる。ここで、在地の領主、稲田九郎と親鸞の親交関係が深まっていく。稲田の親鸞の道場での布教状況がわかりやすく具体的に描写されていく。一方で親鸞が己の念仏を極めるために、再び書物の世界に糧を求めていく。それが『顕浄土真実教行証文類』(略称『教行信証』)という親鸞畢生の書に結実していく歩み出しとなる。
 3つめは、やはり、関東から親鸞を排除しようとする動きが生じて来る。念仏ひとつで浄土へいけるという教えは、武士にとって国を害する、秩序を乱す危険な教えだという反撃である。起こるべくして起こる危惧感。塩谷朝業につかえる堀江義成、修験の行者弁円が登場する。
 一方で、親鸞の布教の障壁となる黒念仏の動きも現れる。そこにはあの黒面法師が再び登場して来ることに。親鸞危機という場面に、ツブテの弥七が再登場するのがおもしろい。
 4つ目は、親鸞の家族内での変化の到来。小野が京の都の犬麻呂の許に戻りたいと決意する。さらに時を経て、恵信が越後に戻る決意を親鸞に告げるに至る。さらに時を経て、親鸞は61歳で、京の都に戻る決断をする。この激動篇ではそれぞれの出発が断続的に生じていく。

 小説『親鸞 激動篇』を通して、親鸞が関東で直接に布教活動をしたプロセスをイメージすることができた。だが、史実レベルでの親鸞の布教活動はそのような状況だったのか。逆にそのこと自体への関心が生まれてきた。

 最後に、著者が親鸞に語らせている言葉で印象に残るものをいくつかご紹介しておきたい。
*鉄杖「すべての命あるものを殺すな、子を欲することも、道づれを求めることもやめよ、犀のごとく独り歩め、でございますね」
 親鸞「そうだ。だが、わたしには、それができない。命あるものを食べる。人とも争う。そして妻もめとった。友もいる。わが子もほしいと思う。わたしはそういう人間なのだ。どうしてあなたなどを恐れることがあるだあろう。あなた以上の悪人がここにいるのだから。それでもよければ、一緒に念仏の道をいこう。釈尊の言葉さえ守れぬ悪人同士として」 (上、p204)
*[親鸞を斬りに現れた山伏、弁円(べんねん)に対する親鸞の言葉]
 「われらがとなえている念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀さま、お救いください、と念仏するのではないのだ」
 「われらの念仏とは、自分がすでにしてすくわれた身だと気づいたとき、思わずしらず口からこぼれでる念仏なのだ。ああ、このようなわが身がたしかに光につつまれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなくそう信じられたとき、人はああ、ありがたい、とつぶやく。そして人びとと共に浄土へいくことを口々によろこびあう。その声こそ、真の念仏なのだ、そなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土に迎えられるのだ。地獄へおちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じとり、ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということなのだ」 (下、p213)
  ⇒ 山伏弁円は実在した人。明法房と改名し、念仏の道を親鸞とともに歩む。
*[真仏、頼重房が、親鸞の書き上げた秘密の文書を見せてほしいと訪ねて来た時]
「わたしが書き上げた文書は、・・・・・『無量寿経』をはじめ多くの浄土の教えの中から、わたしの信心を育ててくれた文章を選び出し抜き写して、それに自分自身の考えを付したものです。わたしはそれを、まず自分のために書いた。人に教えを説くためには、まず自分自身の考えをしっかりまとめ、おのれの信をゆるがぬものにしなければならない。しかし残念なことに、法然上人から手渡された念仏の信念が、これまで幾度となくわたしの中でゆらぐことがあった。・・・・・・易行念仏の教えはやさしいが、真実の信なくしては意味がない。阿弥陀仏を信じ、浄土を信じ、悪人である自分が必ずすくわれる、と固く信じることが大事なのです。・・・・信じたときにそれは真実となる。・・・・わたしはその見えない世界が、たしかにあるということを、自分ではっきりとたしかめるためにその文書を書いたのだ」(下、p301-302)

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
宗祖親鸞聖人 ご生涯 :「お西さん(西本願寺)」
親鸞聖人の生涯  :「東本願寺」
親鸞聖人を訪ねて :「真宗教団連合」
親鸞    :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
親鸞聖人を訪ねて 関東一円での布教  :「真宗教団連合」
親鸞の布教活動:「常総市/デジタルミュージアム」
ともに親鸞 関東の親鸞 ③稲田草庵  :「真宗高田派 専修寺 関東別院」
西念寺 (笠間市)  :ウィキペディア
第9話:親鸞と山伏弁円 :「常陸大宮市 観光ガイド」
第2世 真仏上人 :「真宗高田派本山 専修寺」

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『親鸞』上・下  講談社