遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『どちらかが彼女を殺した』 東野圭吾  講談社文庫

2016-11-16 09:09:54 | レビュー
 主な登場人物はごく限られている。
 第一章の冒頭にまず和泉園子が登場する。彼女は便箋に手紙を書きかけ途中で誤字をしたことから読み直し、書き直そうとするが手紙を書くことをあきらめる。そして兄に電話をする。
 ”「お兄ちゃん以外、誰も信じられなくなった」
  「どういうことなんだ」
  「あたしが死んだら」と少し声をおおきくしていい、
  「きっと一番いいんだろうなと思う」と沈んだ声で続けた。
  「おい」
  「冗談」といって兄に聞こえるように笑い声をあげた。
  「ごめん。ちょっと悪ノリしゃった」”
という会話をし、明日必ず帰って来いよ、と言う兄に、帰れたらね、と園子は言って電話を切る。
 園子は東京にある女子大を卒業後、地元の愛知県に本社がある従業員約300名の電子部品メーカーに入社し、東京支社の販売部に所属するOLである。同期入社の仲間たちが全員退職し、今は販売部の女子社員の大半は彼女よりも年下という状況にある。東京のマンションで一人暮らしをしていた。

 電話を受けた園子の兄は、和泉康正(やすまさ)という。愛知県名古屋在住で、愛知県警に務め、交通課に所属して、特殊なシフト制の勤務についている。
 康正たちの子供のころに父親は脳溢血で死亡、3年前に母親が病気で亡くなり、兄妹だけとなった。名古屋と東京と生活場所が離れ、顔を合わせるのが1年に1度有るか無しになっている状態だった。電話での連絡は絶やさない兄妹だったが、金曜日の園子の電話を康正は異質なものと感じていた。康正は日曜日の朝から月曜日の朝までの当直勤務の折に幾度も電話をしたのだが、園子の応答がない。そのため康正は勤務空けに、東京の園子のマンションへ自家用車で訪ねる決心をした。
 両親を亡くした時に兄妹が決めた約束で、お互いの住まいの合鍵を預かることにしていた。康正は合鍵を使いマンションの園子の部屋に入る。康正の不吉な予感が的中した。
 康正は、胸まで毛布をかぶった園子が死んでいるのを発見する。彼女が名古屋に住んでいた頃から使っていた古いタイマーとその電源コードを利用して、設定時刻になれば電流が心臓を通過し、ショック死するという仕掛けをした形で死んでいた。
 まずすべきことは警察に連絡することなのだが、康正はそうはしなかった。
 電話機を探すために室内を見渡し、何かが心にひっかかったのだ。室内でワインを飲んだ跡がある。ベッドの傍の小さなテーブルの上に、白ワインの入ったワイングラスが載っており、流し台の中にもう一つのワイングラスが立ててある。その他の室内の状況から、園子は自殺したのではないと康正は確信する。園子の死の原因、つまり犯人を自ら追跡して捕らえるという決断をする。
 そこで室内の状況を警察官の目で検分し、捜査に必要な証拠物件を収集することから始める。時間をずらして警察に連絡を入れるためにも、現場を荒らさずに必要と思う証拠を集める必要がある。康正はさらに地元の警察が自殺と判断する方向に導く意図で証拠隠蔽・改竄を加える。己で犯人を突き止めるという目的を遂げるために、康正が現場状況に手をつけていることを悟られないようにカモフラージュしなければならないからだ。
 こんなシーンから、このストーリーが具体的に進展していく。現役警察官が所轄の警察を欺いてまでも、妹を死に至らしめた犯人を糾明するという行動がストーリーとして描きこまれていく。

 この小説はその筋立てがおもしろいて興味深い。かつ著者から読者への挑戦という謎解き課題を残したストーリーに仕上げられている。以下の点を上げておきたい。

 1.主な登場人物がごく限られた設定になっているのがおもしろい。
  死んだ状況で発見された和泉園子。その死を発見した兄の康正。そこに加わる人々は、第1章の後半に登場する。
  佃潤一(つくだじゅんいち): 園子は一年余前の10月、会社から徒歩10分ほどで開店して日の浅い蕎麦屋に昼食に出かけたおり、蕎麦屋に入る細い通りで、24,5歳に見える一人の青年が絵を売っているのを見かける。園子は並べられた絵の中に、好きな猫の赤ちゃんの絵を目にとめる。それがきっかけとなり、園子と年下と思える佃潤一との交流が始まり、やがて交際へと進展していく。出会いから3ヵ月後には、等々力の高級住宅地の中にある潤一の両親の家を訪れるまでになる。
  弓場佳世子(ゆばかよこ): 園子の高校時代の同級生で、園子が唯一心を許せる友人である。同じ女子大の同じ学部に入学したことから、さらに付き合いが深くなる。園子は潤一との交際が深まった時点で、兄の潤一よりも先に、友人の弓場佳世子を潤一に紹介した。これがその後の流れを変えていくきっかけになる。
  潤一が園子との距離を置くようになり、ついには佳世子とつきあっていることを園子に告げる。
  加賀恭一郎: もちろんこのシリーズの主人公である。彼は康正が警察へ連絡を取った後に、マンションの所在地の所轄が練馬警察署だったことから、練馬署の刑事の一人として現場に現れる。現場では、事件の手順どおり指紋採取や写真撮影といった情報収集から始められていく。加賀は、現場にいても康正には何の質問もせず、手紙類、領収書類をさかんに調べ、流し台を見たり、ゴミ箱を覗き込んだりするだけという行動をとる。康正は質問してきた刑事たちよりも、加賀の行動がむしろ気になるのだった。
 このストーリーは和泉康正、佃潤一、弓場佳世子と加賀恭一郎という主な登場人物を中心に、捜査過程でその周辺の関係者が立ち現れながら展開する。

 2.ストーリーは2つの捜査が同時進行する形で進んで行く。
  一つは現場に工作を加え、重要な証拠物件を確保した和泉康正が、本来の名古屋での警察官業務の休日などを使って、私的に開始した捜査活動プロセスの描写である。事件に関わる刑事という風を装って関係者の糸を辿っていく。上司にも内緒での行動であり、越権行為を犯すので、これが発覚したら警察官の職を失うことにもなる。警察組織を使えない制約の中で、康正は手中にある重要な物的証拠類を分析し推測し仮説を立てていく。康正がどのように捜査を進めて行くか。それへの興味関心が深まっていく。康正の情報収集から園子の周辺事情が明らかになっていく。
  もう一つは、康正により現場は一種の隠蔽工作がされていたのだが、そこに残された現場の状況と遺留物という事実データをもとに、加賀が着実な捜査を推し進めるアプローチである。この事件に関わった他の刑事たちとは距離を置き、加賀は自殺と即断せず、状況証拠や残された物的証拠から他殺の可能性を含めて検証する。彼はその結果他殺の線で捜査を進めていく。警察組織の中で孤立した捜査活動である。康正とは異なり、かなりのハンディを背負った中での推理、と仮説をもとに、捜査を重ねて行く。
 この二人の捜査の交点がどこでできるか。二人がどういう捜査行動を辿って同じ地点に辿りつき、交差する時を迎えるか、その後互いがどういう行動をとるかが読ませどころとなっていく。

 3.捜査活動の結果、容疑者は佃潤一と弓場佳世子に絞り込まれていく。しかし、その二人のアリバイをどう崩せるかがもう一つの読ませどころとなる。
  最後の場面は、マンションの園子の部屋で事件の謎が解き明かされていく。そして加賀と康正にはどちらが犯人なのかについて、同じ結論に達したのである。康正は最後の最後で、何が決め手になるかがわかり、その決め手を実見していたことから論理的にどちらが殺したのかという結論を導き出せたのである。
  康正は加賀の居る前で、最後の復讐という行為に出る。それは意外な結末となる。これがなかなかおもしろい終わり方である。
  一番面白いのは、加賀と康正の達した結論として、犯人が特定されるが、犯人の氏名はこの小説に記されていない。「どちらかが彼女を殺した」という情報はすべて提供済みなので、読者もまた加賀・和泉と同じように犯人を特定できるはずだよ、という著者から読者への挑戦である。この謎解きをどうぞお楽しみくださいというユニークな試みである。こういうスタイルの警察小説を書いている作家は他にもいるのだろうか・・・・。

 文庫本は巻末に西上心太氏による「袋綴じ解説」が付いている。「推理の手引き」と題するもの。助手と教授の対話という形で語られている。助手は言う。「ずいぶんイジワルな作家ですねえ。読者を苦しめてなにが楽しいんやら」と。その後に教授が謎解きの決め手になる部分にふれていく。当然ながら、犯人の特定の仕方を一歩踏み込んでくれているに止まるが、やはりこの踏み込み方が我々凡人の読み手には手助けになる。あとはご自分でお読みいただき、「推理」を積み重ねてみていただきたい。
 凡人読者の苦しみを分かち合いましょうよ。

 ご一読ありがとうございます。

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ふと手に取った作品から私の読書領域の対象に加わってきました。
次の本をまずは読み継いできました。お読みいただけるとうれしいです。
『眠りの森』 講談社文庫
『卒業』  講談社文庫
『新参者』 講談社
『麒麟の翼』  講談社
『プラチナデータ』  幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社


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