遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『被匿 刑事・鳴沢了』  堂場瞬一  中公文庫

2016-03-16 18:17:54 | レビュー
 著者は造語が好きなようだ。本書のタイトル「被匿」は国語辞典で「ひとく」を引いても熟語としては出て来ない。少なくとも、広辞苑初版(岩波書店)、日本語大辞典・初版(講談社)、大辞林・初版(三省堂)、現代国語例解辞典・第二版(小学館)にはない。「秘匿」はどれにも載っている。というか、この一語だけである。角川漢和中辞典・初版で「被」「匿」を引いても、熟語としての掲載はない。
 だが、この小説を読み終えると、「被匿」という言葉がまさにピッタリと感じる。角川漢和中辞典によれば、「被」の第一羲は「おおう。かぶせる。おおいかぶせる」の意味であり、第八羲に「る。らる。せられる。される。」とある。一方、「匿」には、第一羲に「かくれる。にげる。ひそむ」。第二羲に「かくす。かくまう」という意味がある。
 つまり、発生した事件の被害者と加害者に関わる関係者がそれぞれの立場で、異なる意図を持ち、事件の真相を己の立場から「おおいかくそう」あるいは「かくれさせよう」と試みる。それぞれの思惑のベールに何重にも覆い隠された状況の中で、原理原則で行動する刑事・鳴沢がどのように捜査を進めていくかが読ませどころになっている。
 
 前作『血烙』で鳴沢はアメリカで研修中であり、勇樹が誘拐される事件に遭遇し、それを究明・解決するというストーリーだった。そして帰国した鳴沢は、警視庁内でさらに伝説の刑事になっている。一方、その行動の結果として西八王子署に異動となる。鳴沢が赴任した前日に、西八王子署管轄内で事件が起こっていた。
 八王子市の地元選出の衆議院議員・畠山祐介が都心での会合を終え、帰宅途中に自宅近くの橋から転落して水死したのである。前日の夕刊第一面を読んでいなかった鳴沢は、刑事課長の金子に、赴任報告をした場で開口一番「一日遅かったな」と言われたのだ。西八王子署では、この事件を酒に酔ったうえでの転落水死として事故死と判断し、処理してしまっていた。
 鳴沢は赴任当日の午後、刑事課のだらけた雰囲気に身を浸すことを避け、管内視察の名目で自分の車で走り回ってみる。そしていつの間にか、畠山が転落死したという橋のたもとに来てしまう。欄干の高さを鳴沢は、「乗り越えるのは難しくないが、何かの拍子で-仮に酔っていたとしても-ここから転落する可能性は少ないよう」(p13)に思う。川の両側には、堤防道路を隔てて民家が立ち並んでいる。午後10時頃なら目撃者がいそうなものと考え、刑事課の連中が聞き込みをきちんとしたのかと考える。そして、偶然にその橋のところで、地元に生まれてそこで生活してきたという老人と知り合う。「多摩歴史研究会 幹事 城所智彦」という名刺を鳴沢に手渡した。少しばかりの会話の中で、城所は鳴沢にこんなことを口にする。「でもね。まあ、事故に遭ってもおかしくないかな。・・・・私の口から無責任なことは言えませんよ。それを調べるのが警察の役目じゃないんですか。でも、事故ということになったら、それ以上は調べないでしょうけどね。・・・」と。城所との短い会話が、鳴沢の心に深い疑問を植えつけることになる。
 鳴沢は独自に聞き込みを始める。橋に近いところから6軒目の「森嶋」という表札がかかった真新しい家の女性が、今日の午前中に東京から話を聞きにきた人がいて、それが鳴沢の質問と同じ事を尋ねたと鳴沢に話をする。鳴沢の頭には警鐘が響き始める。
 だが、金子課長はじめ刑事課の連中は事故死という見立てでこの事件を片付けようとしている。「余計なことはするなよ。あの件は終わっているんだ。変な動きをしたら、死んだ人間にも失礼だぜ」「十分に調べないで封印してしまう方が、よほど失礼じゃないですか」金子課長は、欠伸を噛み殺しながら「ここにはここのやり方がある。勝手なことをするな」と忠告する始末である。
 刑事を辞め静岡の実家に戻り寺の副住職になっている今敬一郎が用事で上京して来ており、多摩センター駅の近くで会い、食事をしながらの会話の中で、疑問を感じるなら捜査すべきと背中を押されることになる。

 翌日、朝から鳴沢は独自の聞き込みを始め、昼前から畠山家の葬儀会場に出向きその様子を観察する。葬儀場でふと強い視線を感じるのだが、そのままで終わる。そして再び、鳴沢は現場の橋に戻ってみる。そこで、東京地検特捜部の野崎順司と出会うことになる。野崎は刑事上がりの検事だった。野崎は鳴沢に「何か分かったら俺にも教えて欲しいな」と投げかけてくる。
 野崎の態度からも鳴沢は一層この事故死扱いの事件に関心を深め、勝手に動き続けることになる。そこから少しずつ、情報が集まっていく。

 3日後、現場の橋のところで、再び城所に声を掛けられる。そして、政治家には地盤が一番大事で、「地盤、看板、鞄」の大事さ、畠山家が三代続く政治家の家系であること、死んだ畠山悠介がIT議員と呼ばれ、インターネット普及の旗振り役だったこと、息子に跡を継がせるために引退を示唆していたことなどを知る。
 東日新聞の特ダネとして、「NJテック、献金ばらまき」の記事が載る。そこには、つい最近死去した代議士の事務所の話が載っている。この記事を見た鳴沢はこの代議士が畠山ではないかと推測し、さらに調べ始める。野崎検事の件と結びついていく。野崎は関係があるかどうか、独自入手の情報から探り初めていたのだ。
 鳴沢は聞き込みを続ける中で畠山の後援会に関わる人に出くわし、名簿を入手し、聞き込みの輪を広げていく。そんな最中に、東日記者の長瀬龍一郎が鳴沢の自宅を訪ねてくる。個人的な興味だとして、畠山の件を鳴沢がどう見ているか、探りを入れてくる。勿論、鳴沢はそれに応じない。長瀬の実家が八王子にあるのだということを知る。聞き込み捜査のプロセスで、鳴沢は長瀬の実家がどこにあるかを発見する。勿論、その実家にも聞き込み捜査を行うことになる。それは、鳴沢に長瀬が書いた小説の内容を想起させて行く。
 地道な聞き込み捜査は、遂に目撃者の証言を入手することに繋がる。それも若い夫婦の両方が別個に目撃していたのだ。
 畠山の後援会長だと名乗る権藤建設の会長である権藤が、鳴沢にアプローチしてくる。「畠山さんは多くの功績を残した人だ。そういう人があんな死に方をしたのは、それだけで十分悲劇的じゃないか。これ以上辱めることはないだろう」と。
 目撃した夫妻は当初、証言することを快諾していたのだが、突然それを渋り始め、関わりを回避しようとし始める。明らかにどこからか圧力がかかったのだろう。
 鳴沢の聞き込み捜査が広がるにつれて、様々な関わりが動き出す。背景に地元の人間関係の複雑さが見え始めてくる。そこにまた、新たな関連情報が聞き込みで出てくる。事故死として安易に片付けようとされていた事件の背後には、過去の長い地元の人間関係の歴史が絡んでいたのである。それも政治家としての「地盤、看板、鞄」という城所の示唆との関わりで・・・・・。
 
 この小説の登場人物には、それぞれの立場で「おおいかくして」おきたい思惑があり、一方で「かくまって」おきたい思惑を持つ者もいる。「事故死」と安易に片付けられてしまえば、密かな闇の中に沈んで行ったかもしれない。しかし、鳴沢の動きにより掻き回されて、事件の真相に繋がる様々な事実が見え始めていく。それは複雑な人間関係の構図が暴露されるプロセスにもなるとともに、意外な人の繋がりにも波及していく。

 事故死と安易に決めつけずに、死の原因は究明されねばならない。もし殺人事件ならば、犯人を究明し逮捕して、事件の決着をつけるべきだ。それが刑事の仕事である。鳴沢の原則論が徹底して行動に移されていく。
 この小説は、反面で地元に迎合しだらけきった警察組織という一面の存在に光を当てていることにもなり、興味深い。

 この小説の巻末は、長瀬龍一郎が東日の新聞記者を辞めると鳴沢に告げること。それに対して、長瀬を一人の人間、それも己にとっての「友」と認めた鳴沢がこれから行おうと決めた行為への導入で終わる。
 「・・・・今夜は語るべきだと思った。・・・・・  長い夜が私たちを待っていた。」
 このエンディングは、鳴沢が親子三代にわたる刑事一家という家族のことを、長瀬に初めて語るという場面を予感させる。友が救われるならと・・・・。
 それは鳴沢が己の家族について「被匿」していた思いを明かす夜になるのだろう。これはあくまで、私の読後印象なのだが。

 なぜ鳴沢にそういう思いを抱かせることになるのか、それを理解するためのプロセスがこのストーリーであるともいえる。鳴沢が赴任する前日に発生し、事故死扱いと決まった事件を鳴沢が蒸し、独自捜査を始める。そして、周りを巻き込んで行き、そこに秘められていたおぞましい事実を暴露する。その中に鳴沢の「今夜は語るべきだ」という思いの動因が潜むのである。
 最後は、前作『血烙』とは違う局面ではあるが「家族のこと」という次元に帰着する。

 ご一読ありがとうございます。

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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
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