遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『秋萩の散る』  澤田瞳子  徳間書店

2020-06-06 11:30:47 | レビュー
 「問題小説」(2011年7月号)、「読楽}(2013年9月号、2016年5月号)、「小説新潮}(2014年7月号)に短編4作が発表され、これに本書の題名と同じタイトルの短編が書き下ろされて、計5作の短編集が2016年10月に単行本として出版された。2019年10月に文庫化されている。

 奈良時代の歴史事象から題材を得、史実の空隙を著者の創作で紡ぎだされた短編歴史小説と言える。
 「凱風の島」と「南海の桃李」は753年(天平勝宝5)の遣唐使の帰国の状況並びに南海の航路に関係した題材をテーマに取り上げる。「夏芒の庭」は大学寮の学生たちの視点から眺めた757年(天平宝宇元)の橘奈良麻呂の乱を中心に当時の宮廷政治の状況が語られる。「梅一枝」は惠美押勝(=藤原仲麻呂)の乱が制圧された2年後という時期に久世王と称し、亡き首帝(=聖武天皇)の子と自称する人物が現れたことに端を発した顛末記である。「秋萩の散る」は770年(宝亀元)8月、称徳天皇が没し、失脚した道鏡が下津国薬師寺別当という形で配流される。下野で暮らす道鏡が己の心境を語る。
 歴史年表に記された一行の文字列としての史実が、当時の政治状況、社会経済状況のもとで、どのような意味を持っていたのか。血の通ったビビッドでリアルな状況としてその一行の意味に一歩踏み込んでいくのに役立つ短編集である。奈良時代の歴史的事象を歴史年表知識として記憶する次元ではなく、奈良時代の時空に入り込み、その時代の目線で仮想現実感覚を味わえる。短編集である故に比較的気軽に各作品を楽しめる。読者は753年から770年頃という時代の一面を身近に感じることができるだろう。

 それでは各作品をもう少しご紹介してみよう。

 <凱風の島>
 手許の『続日本紀 全現代語訳(中)』(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)巻第十八を調べてみた。孝謙天皇の天平勝宝3年11月7日条に、吉備朝臣真備を遣唐使の副使に任命と記録され、翌4年3月3日に遣唐使らが天皇に拝謁、閏3月9日には、遣唐使の副使以上が内裏に招集され、節刀を与えられた。大使の藤原朝臣清河、副使の大伴宿禰古麻呂はこの時昇進したことが記録されている。吉備真備も副使だから招集の対象だったであろうが、昇進しなかったので記載がないのだろう。一方、「留学生で無位の藤原朝臣刷雄(よしお)に従五位下を授けた」と記されている。そして、この年の夏に、遣唐使船4隻は難波津を発った。この出立の記録はない。
 この短編は天平勝宝5年(753)の遣唐使船の帰国状況を描き出す。11月末日に、一行は阿児奈波(沖縄)に到着。ここで藤原清河の大使としての懊悩が起きる。副使の大伴古麻呂は己の乗る第二船に密かに鑑真一行を乗せてきた。また、第二船には阿倍仲麻呂も乗船していた。清河は第一船であり、これに藤原刷雄が乗船していた。清河は大使として密出国の形になる鑑真を奈良に連れて行けないと言い出す。日本と中国の外交関係の視点からの立場だ。一方、戒律師・鑑真の招聘は首太上天皇(=聖武天皇)の宿願である。清河は二律背反の板挟みで懊悩する。古麻呂は太上天皇の意を重視し、己の責任で清河の反対を押し切って、鑑真一行を連れて帰国すると主張する。藤原刷雄は己の一存で仲麻呂を第一船に乗船させた。そして己は従者とともに古麻呂の第二船に移る。鑑真一行の僧にトラブルが発生し、清河の第一船の出港より、古麻呂の第二船の出港が遅れることになる。
 阿児奈波(沖縄)からの帰国のための出港前の状況がリアルに描き出されていく。清河の心境描写が読ませどころと言える。阿倍仲麻呂が垣間見えるのも興味深い。
 だが、それが帰国の明暗を分ける結果に。第一船は遭難。第二・三・四船は無事帰国した。
 遣唐使派遣がどれほどリスクが大きいものだったかが理解できる。
 「凱風」は「初夏に吹くおだやかな南風」(『新明解国語辞典』三省堂)を意味する。アイロニカルなタイトルになっている。

 <南海の桃李>
 753年に吉備真備は遣唐使の副使として帰路に阿児奈波の港に着いた。20年前に真備は遣唐使一行に留学生として随行し渡唐し、南海の航路で帰国した。その時の経験を踏まえて、吉備は南島(南西諸島)に嶋牌(しまふだ)を設置するという航海上の提言をしていた。径(たて)伍尺、緯(よこ)弐尺の石を用いた石牌を各島に設置し、それにその島の情報(名称、水場の位置、湊の場所、大隅・薩摩までの距離など)を刻んでおくという工夫である。土木技術系留学生の高橋連牛飼が真備の考えを実行に移す役割を引き受けた。
 だが、阿児奈波の港についた真備は、石牌を見つけることができなかった。さらに、真備の乗る第三船が阿児奈波の港を出て、次に渡った度感の小島にも嶋牌は存在しなかった。ところが牛飼は嵐に遭遇し死ぬ直前に400の建牌を終えた奉文を送っていた。その土地の者は、十数年前に一人の男が木の牌を建てて去ったこととそれが折れて波にさらわれたと言う。
 真備の乗る第三船は漂流の末、紀伊国牟婁崎に着く。藤原仲麻呂の居る都に留まれば命すら危ないと感じる真備は再度の建牌を理由に太宰府の実務長官たる大弐に任じられる。真備は牛飼が石牌を建てなかった理由の解明に立ち向かう。それは牛飼への信と疑の二律背反心理に苦しむプロセスだった。そして、遂に真因に気づく。
 建牌という対策案を雄大な構想の中で語り合う若き真備と牛飼のかつての場面、石牌が存在しない理由を考え苦しむ真備の姿と真因に気づくに至るプロセスという現在の場面が読ませどころである。
 真備による建牌の奏上は、真備の死没から約200年後に施行された法令集「延喜式」に条文が載せられているという。
 上掲の『続日本紀』を調べると、天平勝宝5年(754)の正月17日の条に、前年12月7日に真備の船が屋久島に来着し、その後漂流して紀伊国牟婁崎に着いた旨が太宰府からの上奏という形で記録されている。
 
 <夏芒の庭>
 話の舞台は当時の国立官吏養成校である大学寮。落ちこぼれで16歳の佐伯上信と日向国から入寮した秀才の桑原雄依が主人公。さらに吉田乙継(明経科在籍)と答本古志緒(典薬寮から出向中の医生)が加わる。乙継と古志緒は二人とも15歳。この二人は頻繁に喧嘩をしている。共に渡来民族の家系であり、医学を生業にしていて、微妙な緊張関係にあることが背景の因となっている。古志緒は3年後の遣唐使派遣に医学留学生として加わることが決定している。乙継は三人兄弟の末子なので医学を諦め大学寮に入った気弱な少年。二人の喧嘩を介して、藤原仲麻呂と光明子、阿倍帝(孝謙天皇)の周辺状況が語られる。乙継の叔父、兄人が仲麻呂一家へお追従の往診をするという。一方、古志緒の兄、答本忠節は先帝の没後侍医職を退き、一介の医師になったという。また、喧嘩を介して怪我をさせられた乙継と古志緒の仲は親密になる。上信と雄依もまた、乙継の世話をしつつ、都の政治や日向国の地方政治の状況を語り合う。
 そんな最中に、橘奈良麻呂の目論んだ政変が起こり、藤原仲麻呂に鎮圧されてしまう。そして、小野東人と答本忠節もまた謀反の咎で捕らえられたと伝わってくる。
 大学寮の学生の視点から橘奈良麻呂の乱の状況が描かれて行く。それは乙継と古志緒にも大きく影響していく。その結末が哀しい。
 藤原仲麻呂の存在が間接的描写により、逆にクローズアップされてくるところがおもしろい。

 『続日本紀』を読むと、天平宝宇元年(757)秋7月2日の条の末尾に、「小野東人・答本忠節らを追い求め、皆を逮捕させ、左衛士府に禁錮した」と記されている。

 <梅一枝>
 宮城で「文人之首(文人の筆頭)」の名をほしいままにしている石上朝臣宅嗣は、阿倍天皇(孝謙天皇)が造営途中の西大寺に明日3月3日に行幸され、そこで曲水の宴を催されることを前提に詩賦の準備を終えた。そんな矢先に門人の賀陽豊年が思わぬ事を告げに来る。宅嗣の従姉、石上朝臣志斐弖の息子が訪ねて来たというのである。
 宅嗣は久世王と名のる男と対面する。彼は実母と養母である海上女王からある高官の庶子だと聞かされて育ったという。ある高官とは亡き首帝という。ならば阿倍女帝の異母弟となる。そんな人物の存在が認められるはずがない。宅嗣は驚天動地の心境になる。石上氏一族の存続を脅かされかねない疫病神の如きものととらえてしまう。
 宅嗣と久世王が対面して話していた内容を、床下で盗み聞きしていた者が居た。宅嗣はガタッという物音を聞いたのだ。そこから状況が急転回していく。
 これは完全なフィクションなのか・・・・・。『続日本紀』を読むと、久勢王という人が記録されていて、久世王とも記されている。孝謙天皇(=阿倍女帝)の天平宝宇元年(757)5月20日の条には従五位下の久勢王に正五位下を授けられている。さらに、称徳天皇(=阿倍女帝)の天平神護元年(765)正月7日の条には、正五位下の久世王に正五位上を、同様に正五位上の石上朝臣宅嗣に従四位下が授けられたという記録がある。
 『続日本紀』に登場する久勢王=久世王はこの短編の久世王とは偶然の一致なのか・・・・・。そこが歴史小説という想像力を羽ばたかせる領域の面白さなのかもしれない。
 「梅一枝」というタイトルは、久世王が梅の枝を自分の屋敷に持ち帰るというエンディングからとられている。

 <秋萩の散る>
 年表を見ると、淳仁天皇(758-764)の時代、764年9月、惠美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起こる。同月道鏡は大臣禅師となる。翌10月、淳仁は廃帝され淡路島に配流され、孝謙上皇(=阿倍女帝)が重祚する(称徳天皇)。しかし、称徳天皇は770年8月に没した。阿倍女帝が高野山に葬られた4日後、道鏡は突如下野国薬師寺別当に任ぜられる。道鏡は下野国に配流された。
 それとともに、道鏡は帝位を簒奪せんとした妖僧、破戒僧という噂が速やかに流布されていく。道鏡は覚悟をしてはいた。阿倍女帝のすべての罪咎を道鏡一人に負わせるための噂の礫を投げつけたのだと。それを女帝に対する最後の務めと受けとめようと。
 七十の坂を越えている道鏡は、馴れぬ下野国での生活と、覚悟していたとはいえ、世に流布された風評のおぞましさに苦しめられる。己の胸に巣食う憤懣、憎しみと対峙していく姿が道鏡の独白として綴られていく。
 呪詛をした故に京を追われ下野国薬師寺に配流となっている悪僧・行信との関わりが、道鏡にとって己の内奥の憎しみ、荒ぶる思いと真に対峙する契機となる。行信の企みに気づく事によって・・・・・。
 
 手許の『続日本紀』巻三十の称徳天皇、宝亀元年(770)8月21日条を読むと、皇太子が次の令旨を下したとして、以下の文が記録されている。全現代語訳の文を引用する。
 「聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を窺う心を抱いて、久しく日を経ていたという。しかし、山稜の土がまだ乾かぬうちに、悪賢い隠謀は発覚した。これはひとえに天神地祇が守られ、土地と五穀の神がお助けくださったからである。しかし、いま先聖の厚い恩を顧みると、法によって刑罰を加えるのは忍びない。そこで、道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ、派遣することにする。この事情を了解せよ」と。

 一般に流布されている怪僧、悪僧という道鏡像とは全く異なる道鏡像がこの短編で描き出されている。改めて、道鏡とはどのような人物だったのか・・・・に関心を持つ契機になるだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項を一部検索してみた。一覧にしておきたい。
孝謙天皇  :ウィキペディア
孝謙天皇  :「ジャパンナレッジ」
藤原仲麻呂 :「コトバンク」
吉備真備  :ウィキペディア
吉備真備ゆかりの地 :「倉敷観光WEB」
橘奈良麻呂の変  :「コトバンク」
橘宿禰奈良麻呂 :「波流能由伎 大伴家持の世界」
石川宅嗣  :ウィキペディア
久勢王   :ウィキペディア
海上女王  :ウィキペディア
道鏡  :ウィキペディア
道鏡  :「コトバンク」
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」01 :YouTube  八尾市公式チャンネル
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」02 :YouTube  八尾市公式チャンネル
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」03 :YouTube  八尾市公式チャンネル
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」04 :YouTube  八尾市公式チャンネル
淳仁天皇  :ウィキペディア
淳仁天皇  :「コトバンク」
藤原仲麻呂の乱  :ウィキペディア

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店



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