遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『信長私記』 花村萬月  講談社

2012-08-19 11:19:47 | レビュー
 花村萬月氏の小説を読むのは初めてである。信長に関心を抱いているので、本書を読む気になった。信長について書かれたものをいろいろ読み継いできている。だが、信長の元服前から尾張統一までという期間に焦点をあてた作品を読むのは、これが初めてだったので、面白く読めた。『信長公記』を見れば、その首巻「是れは信長御入洛無き以前の双紙なり」と記された部分のさらに前半部が対象時期になっている。著者が構想を膨らませ作品化したものと思う。

 作者には3つの視点があるように受け止めた。1つは信長が尾張を統一するまでの思考、戦略および行動という視点。第2は、信長を取り巻く人間関係の視点。第3は信長と女性との関係及び信長のセックスという視点。この3視点が織り込まれながら相互に絡まり合いストーリーが進展していく。
 この作品が面白いのは、信長自身の独白という形式を基軸にして展開されていく構成だ。己がなぜ、そういう行動をとるのか、どう感じたのか。さらに、それを周囲の連中がどう見て、どう受け止め対処しようとしているかについて、信長自身がどう見ているかという風に描かれている。こういうところに、著者の新基軸があるように思う。

 本書の書き出しは「俺は黙読ができる」である。あれっと思ったのだが、ああ、そうか。昔は素読が当たり前だったのだなと思い納得した。「なんとなくできてしまったので、これが当たり前だと思っていた。だが、俺以外の者は音読しかできないことに気付いた。」と著者は語らせている。この言葉ではやくも信長のユニークさが表出される。一方、そういう読書法が理解できない周囲の目は、信長が漠然と書を眺めているだけで、やはり大うつけだと解釈している。もうそのことが信長の戦術に組み込まれている。信長は黙読の速さを使い、大量の書物を無作為に読み続ける。「読んだ事柄を覚えようとするなど愚の骨頂である。忘れてもかまわない。追いつめられれば思い出す。それがわかっているから、俺は読む」。最初の数ページで、信長の思考力のベースが着実に自己鍛錬されていたのだということ、信長のものの見方の基盤が形成されていたことを知ることになる。
 そして、馬に馬具をつけるのを他人任せにせず、馬に入れ込み、馬を疾駆させる信長が描き出される。なぜそうするのかを語らせながら。疾駆させた馬から落馬し、水田で泥まみれになる。見ていた百姓女が信長の茶筅髪のほどけているのを結う羽目になる。その女のでかい胸乳をみたことが、「俺は母の乳房の記憶がない」という思いに繋がる。あばた面の百姓女との会話。女のしたり顔が、その首を刎ねられることになる。それはなぜか。逃げ惑う女の着物が捲れ上がり、臀が露わになり、肉のふくらみのあいだから鶏冠のようなものが見えたから。「この女も女。母上も女」という信長の思い。
 第1章で、信長のプロフィールが鮮やかにイメージ付けられる。さて、どう進展していくのかと引き込まれていく。

 この作品、章立ては数字で示されているだけ。これもちょっとユニークか。

 第1の視点は、信長自身が大うつけを意識的、意図的に演じながら、周囲の情勢、情報を悉に入手していくという信長の戦略思考と行動。13歳の5月に元服し、吉法師から三郎信長になる。初陣は必勝の相手と一戦すべしと、中務丞が選んだのが三河、吉良大浜の一戦である。大うつけ面をして遊び呆けていた時の仲間である百姓の一群を信長は連れて行く。「これからの戦に使える若い、つまり俺と同じ年頃の、しかも能力のある百姓を掌握するために心を砕いてきた。」「誰も気付いていないが、俺は若い百姓を組織している。俺の初陣である。さりげなく奴らを紛れこまして連れてきたのである」(p49) 信長の発想と行動が初陣から形として出てくるのだ。
 父・織田信秀が42歳で死ぬ。葬儀の席で位牌に向けて抹香を投げつけるシーンは有名であるが、冷静に父の死因を考え、さらに葬儀の機会に織田家中の人々の心模様を評価する場として巧みに利用する戦略が描かれる。政略結婚をした道三の娘・濃姫が、葬儀の場で信長の振る舞いをサポートするのもおもしろい。信長がうつけを貫徹したのは、家中の謀叛の裏をとる戦略だった。
 著者は信長の鉄砲に対する見方、またそのためにとった行動を描き込んでいく。鉄砲を買うだけでなく、鉄砲を秘かに作らせるという行動である。古の鍛冶部の末裔といわれる山落、つまり山の民を活用していくのだ。これが史実に基づくのか、著者の創作なのか判断できないが、信長ならやりそうなことと思わせるところが興味深い。納得感がある。
 そして、父の死後に起こる離反や謀叛という内憂内患にどう対処して尾張統一に持ち込んだかが、信長の目を通して語られる。
 家中の小物は、「御家のため、御国のため--。なんでもいいのだが、自分の慾を誤魔化すためのまやかしがほしいのだ」(p170)と冷徹に眺めている。「俺は大慾を抱いている。だが奴らの慾は、ちいさすぎる。奴らに見えているのはせいぜいが尾張一国にすぎぬ」(p170-171)と。
 母・土田御前が贔屓する弟、勘十郎信行が信長(実は仮病)の見舞いとして清洲の城に訪れる。この信行を殺害するシーンで、著者はこの私記を終えている。そこには、第3の視点との繋がりで信長の精神史の区切りとして描かれているからだろう。

 第2の視点は、数名の人々に焦点を絞った人間関係である。それが信長の一側面としてストーリーにうまく織り成されていく。まずは、常に信長を擁護した平手中務丞である。『信長公記』は、信秀が吉法師に付けた二長つまり、二番家老と記している。
 「俺はおまえがいるから、息をつくことができる」
 「中務丞とて、いつ吉法師様を裏切るか、わかったものではございませぬぞ」
 「うん。おまえなら、やられてもいい」 (p29)
と信長に言わしめる人物。だが、信秀の病死、葬儀の後に、平手中務丞は切腹する。信長20歳の春である。『信長公記』は「平手中務丞、上総介信長公実目に御座なき様体をくやみ、守り立て験なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候」と記す。だが、著者はこの一文、違った解釈を展開する。なるほど、そうかも・・・・穿った見方である。
 2人目は、竹千代(のちの家康)との関わりである。竹千代は6歳で今川義元に人質に出されるが、今川に運ぶことを請け負った戸田康光が裏切って、永楽銭500貫で織田に売ったのだ。竹千代の命より国の命運を選んだ父にも棄てられることになる。この竹千代に信長はある意味で親近感を持つ。ここには、第3の視点との接点が絡んでいるのではないかと私は思う。信長と竹千代の関係を、著者はかなり具体的に描き込んでいく。またその関わりが、信長にとって大うつけを演じている己の息抜き、本来の信長にもどる機会だったのかもしれない。
 後の家康を彷彿とさせる局面を著者は各所にちりばめる。最初に、信長が竹千代に、領土を得たら、京都ほどの広さの都をどのように作るかという課題を与える場面を描く。信長の条件設定、説明に対する竹千代の回答が実におもしろい。この回答が、後の江戸の町割りに行かされていくのか。実際の江戸の町割りから逆に、著者がこのような問答の創作をしたのか・・・・興味深いところだ。「図抜けて頭がよく、けれどもそうは見えない。得難い才である」(p84)と信長に語らせている。
 3人目は、斎藤道三である。大うつけとして評判だった信長に我が娘・濃姫を政略結婚で嫁がせることを承諾した人物だ。岳父道三が信長に会いたいと申し入れ、信長が承諾する。指定の場所、富田の正徳寺での会見の経緯と会見シーンは、やはりおもしろい一巻の絵巻である。
 さらに、道三の見方を濃姫の口から信長に語らせている。「おそらく、父上は、皆と逆のことを思っているはず。・・・・誰もが大阿房者と吐き棄てるとき、それは決して阿房ではないと考える。そういう御方なのです」(p154)と。
 4人目は、犬千代。後の前田利家である。「犬千代は俺と衆道の仲である」(p136)と。著者はおもしろい一文を記す。「それどころか目を瞑って帰蝶のことを想いながら犬千代の尻をつかうのは、なかなか心地好い」(p136)。そしてさらに加える。 
 帰蝶が耳打ちしてきた。
 「私の尻ではだめなのですか」
 「帰蝶の前門に優るものなし。ゆえに帰蝶の尻は必要なし」
 納得したらしく、帰蝶は犬千代の密偵を勝ち誇った目で見やった。 (p137)
こういう場面を作品に盛り込むところも、信長ものとしてはユニークだと感じる。
かぶき者、前田犬千代を、中務丞もかわいくてならなない人物と見ていたことや、信長の忠犬として活躍するところをエピソード風に描いていく。
 最後の5人目は、信長が山落に鉄砲を作らせるが、山落の集落までの案内人として信長に差し向けられた男として登場する。信長は彼を猿と呼ぶ。藤吉郎である。著者は、藤吉郎を山落の生まれ、つまり山の民として設定している。そして、右手の親指が1本多くて6本あると描写する。この指にまつわる二人の会話がおもしろい。これまた、初めて目にすることだが、著者の創作なのか、事実なのか・・・興味津々でもある。「俺の小者になったことで、天下取りの第一歩がはじまったな」(p209)と信長に言わせていて、これまたたのしい。

 第3の視点は、信長と女性の関係。第1は信長の母、土田御前の存在である。この作品の構想の中で、重要な梃子の役割を担っている。母に棄てられたという信長の思いが色濃く反映していくのだ。ある種のマザー・コンプレックスが信長のプロフィール形成に大きく影響していると著者は解しているようだ。母の乳房を知らぬと呟く信長。「勘十郎は吸っていたぞ。いつも吸っていた」(p24)。「母上までもが、産みの母までもが、俺の廃嫡を画策していることだ・・・・俺は母上にかわいがられた記憶がない」(p142)
 そして、それが清洲城での勘十郎信行殺害後に、母・土田御前との最後のシーンとなって終焉する。その裏返しが、大御乳(おおち)さまと呼ばれる乳母との関係である。そして、信長の性に関わりを持つ。
 第2は、勿論政略結婚の相手である濃姫だ。著者は「帰蝶」という名で濃姫を描いている。著者は政略結婚した二人のその夜のやり取り、模様を1章分を使って描いていく。だが、「俺と帰蝶は相思相愛なのに、いくら頑張っても子ができない」(p142)と信長に語らせ、道三との会見の場でも、「-開き直ります。この上総介信長、帰蝶に心底惚れております」(p167)と言わせている。
 第3の女は、織田の血筋、俺の血筋を残さねばならぬ、という側面から登場する。藤吉郎が散歩と称して五月の夜に信長を誘い出す。辿り着くのが馬借の土豪、生駒宗家の屋敷である。そこで、信長は吉乃という女に引き合わされる。夫が4月25日の長山城の戦いで戦死し、未亡人になったばかりの女だった。もともと疎遠で、閨のことを嫌う夫だったという。吉乃は針売りの藤吉郎から信長のことをいろいろ聞かされていたのだ。
 信長は翌朝、藤吉郎の問いに答える。「まず、吉乃に母を見た。・・・目を凝らすと、母上とは似ても似つかぬことがわかった。では大御乳か--。だが、それも違う。しばし思案したが、吉乃は吉乃であった」(p216)吉乃はしばらく後に懐妊する。

 『考証織田信長事典』(西ヶ谷恭弘著)を繙くと、濃姫という道三の女の実名は一切不明であると記されている。濃姫という名づけ自体が不明であり、西ヶ谷氏は小説・講談の世界から名づけられたもので、「美濃の姫」に由来すると推測している。そして、『美濃国諸旧記』には、「帰蝶の方、鷺山殿といった」と紹介する。また『武功夜話』には、「斎藤道三入道の御息女、この人、胡蝶という人なり」とあることも記している。
 なぜ、著者は濃姫を帰蝶と呼ぶわけがこれを読んで氷解した。著者はこんな風に記している。
 美濃からやってきた姫であるから濃姫と称されるわけだが、俺はその呼び名が気に食わぬ。理由は俺のところに嫁いだのであるから美濃とはもはやなんの関係もない。
 (帰蝶に言う)「濃よりも帰蝶のほうが麗しく、おまえにはふさわしい」(p154)と。
 上記『事典』巻末にある「織田信長略年譜」によると、永禄元年(1558)11月弟信勝(信行)誘殺。この時、信長25才。翌永禄2年2月、上洛して将軍義輝に謁す。
 つまり、本書は信長の12歳頃から25歳頃までを描いた作品である。

 数多くの作家が信長に挑んでいる。
 著者の作り上げた信長像、おもしろく、ユニークな一冊が加わった。

ご一読ありがとうございます。

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 本書で関心をいだいた語句をネット検索してみた。一覧をまとめておきたい。

黙読
 黙読の習慣はいつ頃から始まったか? :「OKWave」Q&A
 明治の声の文化  森洋久氏
 音読、朗読そして黙読  高宮利行氏
 なぜ、音読は衰退していったのか?  坂本剛氏 :「共認の輪 るいネット」
天王坊 → 那古野神社(亀尾天王社)
 信長公記 巻首に「御不弁限りなく、天王坊と申す寺ヘ御登山なされ」とありますが...
伍子胥 :ウィキペディア
織田氏 :ウィキペディア
織田信秀 :ウィキペディア
 信秀公墓碑 :「亀嶽林 萬松寺」
織田信行 :ウィキペディア
平手中務丞 → 平手政秀 :ウィキペディア
濃姫   :ウィキペディア
吉乃 → 生駒吉乃 :ウィキペディア
土田御前 :ウィキペディア
 花屋寿栄禅尼 織田信長生母の墓 :「曹洞宗塔世山 四天王寺」
戸田康光 :ウィキペディア
土岐頼芸 :ウィキペディア
斎藤道三 :ウィキペディア
松平広忠 :ウィキペディア
太原雪斎 :ウィキペディア
前田利家 :ウィキペディア
橘屋又三郎 :「戦国日本の津々浦々」
母衣衆 → 母衣 :ウィキペディア
斯波義統 :ウィキペディア
坂井大膳 :ウィキペディア
河尻秀隆 :ウィキペディア

種子島銃 → 火縄銃 :ウィキペディア
国友 :ウィキペディア
 国友鉄砲の里資料館のHP
根来衆 :ウィキペディア
馬借 :ウィキペディア
前門の虎、後門の狼 :「故事ことわざ辞典」
四神相応 :ウィキペディア
塵芥集  :ウィキペディア
富田正徳寺 :「信長生活」

天守 :ウィキペディア

衆道 :ウィキペディア
日本史における衆道 :「HERMITAGE」

ちょっと、脇道に:
『葉隠』における武士の衆道と忠義  頼 菁氏

Homosexuality in ancient Greece :From Wikipedia, the free encyclopedia


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