遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『霖雨』 葉室 麟  PHP

2012-08-06 00:06:04 | レビュー
 本書は九州、豊後の日田に住み私塾咸宜園を主宰した儒者広瀬淡窓と、兄に代わり豆田町の商家広瀬家、即ち日田代官所出入りの御用達商人、博多屋(屋号)の家業を継いだ久兵衛を主人公とする。そして、サブの主人公として、咸宜園に入門する元広島藩士の臼井佳一郎と義姉千世が関わってくる。
 物語は、淡窓52歳の天保4年(1833)癸巳1月9日から始まり、安政2年(1855)に養子や弟子に咸宜園が引き継がれるまでの期間である。咸宜園の入門者は4000人を超え、著名な蘭学者高野長英や長州の大村益次郎なども咸宜園で学んだという。
 本書は、人口に永く膾炙した淡窓の漢詩を末尾に掲げて締めくくっている。

 道うことを休めよ 他苦辛多しと
 同袍友有り 自ら相親しむ
 柴扉暁に出づれば 霜雪の如し
 君は川柳を汲め 我は薪を拾わん

 著者は、「他での勉学は苦労や辛いことが多いと弱音を吐くのは止めにしよう。一枚の綿入れを共有するほどの友と自然に親しくなるものだ。朝早く柴の戸を開けて外に出てみると、降りた霜がまるで雪のようだ。寒い朝だが炊事のため、君は小川の流れで水を汲んできたまえ。わたしは山の中で薪を拾ってこよう」と詠っていると、冒頭の「底霧」に続く「雨、蕭々」の章で説明している。「故郷を遠く離れた地での勉学には苦労も多いが、寮での友達との共同生活も、人生の中で味わい深く楽しいものだ、という詩である」と。咸宜園を主宰した淡窓が塾生に期待していたことの一端が表出されている。

 本書は、江戸時代末期に私塾として定評を得ていた咸宜園に、<官府の難>が襲ってきた時期における広瀬淡窓と久兵衛の対処がテーマとなっている。咸宜園が開かれたのは文化14年(1817)であり、江戸幕府直轄地の天領である日田の代官所に49歳の塩谷大四郎が代官として着任する。そして、38歳の淡窓を塩谷代官が家臣として召し抱えると命ずる。それは、咸宜園をさらに盛んな塾にして、自らの手柄にしたいという魂胆があったからだ。博多屋(広瀬家)は二代目源兵衛の時に代官所に出入りを許され、塩谷代官着任の時点では、淡窓の父三郎右衛門が五代目であり、代官御用達の富商の一軒になっていた。そして、淡窓が学問の道に進むことで、弟の久兵衛が父の死後に博多屋を引き継ぐことになる。 文政4年(1821)に塩谷大四郎は西国郡代に昇格し、咸宜園への干渉を強めて行く。その一方で、久兵衛は、塩谷郡代の命令で、代官所御用達として日田の<小ヶ瀬井出>の開削工事、豊前海岸の新田開発の開拓などの大事業をやり遂げていく。遣り手の為政者としての塩谷郡代は、私利を貪ることはないが業績を残す名声欲、立身出世の野心は強い。それ故に、咸宜園への干渉を強めて行く。そこで、代官所御用達として代官所との関わりが強い久兵衛は、塩谷郡代と兄淡窓の間に立ち、苦慮することになる。
 文政13年(1830)に淡窓は末弟の旭荘に咸宜園の運営を任せ隠退し、講義だけ行うようになる。ところが、天保2年(1831)4月から、塩谷郡代の干渉、介入が激しくなってくるのだ。淡窓に再び執政を執れという。ここから、淡窓の具体的な苦慮の時代が始まっていく。<官府の難>である。塩谷郡代の野望が咸宜園にさまざまに影を投げかけていく。

 <官府の難>は、咸宜園の執政問題、淡窓の作る月旦評の結果に対する干渉という直接的なものや、塾生である宇都宮茂知蔵(塩谷郡代の用人、宇都宮正蔵の子)を介して咸宜園内部での様々に問題事象を発生させるなど、次々と難が降りかかっていく。
 そこに、臼井佳一郎と千世が入門してくる。当初、佳一郎は淡窓に姉弟と自己紹介するのだが、実は義姉であり、その背景には複雑な事情があった。この二人の入門が、<官府の難>において、その難の振幅を広げていくことになるのだった。

 淡窓は入門願いに訪れた二人に会った時、千世を見て、蛾眉青黛ということばを思い浮かべるとともに、懐かしいひとに会ったような気がするのである。22歳で他界した妹の秋子(ときこ)に似ているのだった。
 千世も入門を許されるが、入寮は出来ないので、久兵衛の博多屋を寄宿先とするよう淡窓が世話する。秋子に似ていることを感じた久兵衛は、千世の面倒をみることになる。これがまた、博多屋でさまざまな波紋を引き起こしていく。

 この作品は、儒者淡窓と、兄淡窓に畏敬の念を抱く商人久兵衛の生き様、降りかかってくる課題、難問に苦慮しながらも一つひとつ対応策を見出していく二人の姿を、ある意味淡々と描き出していく。そこに、佳一郎と千世の生き方が併行して広瀬兄弟に関わりを深めていくのである。

 余命いくばくもない病床にある父が淡窓に語ったことばが本書の基調となっている。
 「ひとが生きていくとは、長く降り続く雨の中を歩き続けるのに似ている。しかしな、案じることはないぞ。止まぬ雨はない。いつの日か雨は止んで、晴れた空が見えるものだ」(p89) 淡窓53歳の時に、息子を案じている84歳の父の言葉である。
 著者は、作品の章立てにこの基調を投影している。つまり、
 「底霧」「雨、蕭々」「銀の雨」「小夜時雨」「春驟雨」「降りしきる」「朝霧」
 「恵み雨」「雨、上がる」「天が泣く」
という具合に・・・・。
 「さようですが。粘り強く耐えて、時を待つしかありませぬ。上がらぬ雨は無いと申しますから」(p20) 久兵衛が兄淡窓に慰めるように言う。
 本書のタイトルは「霖雨」。日本語大辞典(講談社)を引くと、「幾日も降り続く雨。梅雨・秋霖・春霖などをいう。なが雨。淫雨」と記されている。まさに、この基調となる部分を端的に表出した言葉のように思う。不勉強でこの熟語を知らなかった。
 本書の最終章「天が泣く」に、淡窓の述懐が出てくる。
 「亡くなられた父上は、止まぬ雨はない、と仰せられたが、止んだ雨はまた降り出しもしようし、そうでなければ作物は育たぬであろう。この世に生まれて霖雨が降り続くような苦難にあうのは、ひととして育まれるための雨に恵まれたと思わねばなるまい」(p304)と。この述懐に、著者が本書を書きたかった動機、本書のストーリーが結実しているのではないだろうか。

 この作品の中で淡窓、久兵衛のそれぞれにとって、大きな難関がある。
 淡窓にとっては、旧門人でいまは大阪にいる松本久蔵が贈ってきた書に対する儒者としての対応だ。それは旧蔵が大阪で入門した私塾の師、大塩平八郎(号は中斎)の著書『洗心洞箚記』である。<知行合一>を説く王陽明の思想を踏まえた論であり、「口先だけで善を説くのではなく、善を実践しなければならない」と中斎は説く。中斎の生き方に感銘を受け、その激しさに羨望すら感じる淡窓は、一方で、中斎に対し「矯激に過ぎはしまいか、敬天の心が薄いようだ」と感じる。
 佳一郎は入塾後、様々な経緯(これはお読み願いたい)の後、<退塾願>の書付を残して姿を消す。彼は、大阪に出て、中斎の洗心洞に入塾する。そして、天保大飢饉のただ中で大塩平八郎は蜂起する。大塩の乱である。佳一郎はその渦中に入ってしまう。かつての門人として、淡窓との繋がりは消すことのできないものとなる。
 大塩の過激な行動に、淡窓は儒者として大きな衝撃を受ける。己の学問の存在価値に関わる自己への問いかけでもある。儒者としての存在価値が問われているともいえる。
 淡窓の対応はどうであったのか。それが、本書の最終ステージでもある。

 一方、久兵衛は、塩谷郡代の命を受け、文政9年(1826)周防灘に面した豊後国国東半島西部の呉崎の埋め立て・新田開発計画に着手する。「これに要した人夫は延べ33万人、費用は3万両にのぼった」が、埋め立て地は塩分の問題ですぐには田畑として使用できなかった。工事金を負担させられた農民の不満が高まる。それは、江戸への農民の訴えとなり、塩谷郡代の江戸召喚へと繋がっていく。直接この事業の当事者となったのは久兵衛である。郡代が江戸へ去った後、郡代と同類とみられた久兵衛は、農民の不満の直接の対象となるのだ。時あたかも、天保の大飢饉(1833~1839年)へと連なっていく。久兵衛にとっての最大の難関となる。さて、どう対応すべきか。もうひとつの最終ステージとなる。

 さらに、忘れてならないのが、佳一郎、千世の生き方である。佳一郎が幾度も淡窓、久兵衛の禍の種になったのだ。最後まで、淡窓、久兵衛との関わりの中で、二人の生き方が絡んでくる。本書の副主人公と冒頭に述べた由縁でもある。
 千世にとっての霖雨が晴れたのかどうか・・・・・・著者は語ってはいない。

 もう一つ加えるならば、隠れたテーマとして、江戸時代末期における儒者の存在価値の問題があるように思う。儒学思想と行動、政治政策への関わり方がどのような影響を及ぼしたのかである。広瀬淡窓と大塩中斎が、その点を考えるための材料として対照的存在、対比的存在として描かれているように思う。学問と政治の関わりという観点では、現代にも通じる課題ではないだろうか。
 
 最終章で、著者は、淡窓と彼の妻・ななの会話場面を描いている。
 「まことに生きて参るのは、難行でございますね」
 「さようではあるが、一方で天はわれらに楽しみを与えてくれてもおる」
 
 「いか様な楽しみを受けられましたか」
 「苦しみを超えて行き抜く喜びだ。わたしは病弱にて日々、体のことで苦しんで参った。しかし、かように生き抜いてみれば、丈夫なひとよりも多い痛みに打ち克つ強い心を与えられたということになりはせぬか。それが、天からの褒美であろう」

 <官府の難>という霖雨が上がり、やっと晴れ間が見えた。時雨が残る晴れ間であろうが、少しほっとするところで、本書は終わる。読み応えのある作品だ。

ご一読ありがとうございます。

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 本書に出てくる語句を検索してみた。知らないことが数多い。一覧にまとめる。

日田 → 日田天領まつり :日田市のHP

広瀬淡窓 :ウィキペディア
広瀬淡窓「桂林荘雑詠示諸生」 :「小さな資料室」
咸宜園  :ウィキペディア
塩谷大四郎 :コトバンク 朝日日本歴史人物事典
大分県 農業水利施設の礎を造った広瀬久兵衛 :農林省「土地改良偉人伝」

大塩平八郎 :ウィキペディア
大塩の乱関連史料集・目次 :「大塩の乱 資料館」
亀井南冥 :ウィキペディア
亀井昭陽 :ウィキペディア
帆足万里 :ウィキペディア
荻生徂徠 :ウィキペディア
寛政異学の禁 :ウィキペディア
王陽明  :ウィキペディア
陽明学  :ウィキペディア
 陽明学 :「松ちゃんのホームページ」
古賀精里 :「さがの歴史・文化お宝帳」
草場佩川 :「好古齋」
渡辺崋山 :ウィキペディア
陸游   :ウィキペディア

日田金  :「大分歴史事典」
小ヶ瀬井手 ← 小ヶ瀬井路改修碑

江戸三大飢饉 ← 江戸四大飢饉 :ウィキペディア
川路聖謨 :ウィキペディア
 川路聖謨 :「歴誕 歴史人物伝」
羽倉外記 :コトバンク 世界大百科事典
天保の大飢饉 :ウィキペディア

広瀬淡窓が開いた私塾 咸宜園 :「九州旅倶楽部」
遠思楼(えんしろう)廣瀬淡窓の書斎 :「九州旅倶楽部」
広瀬資料館 淡窓の資料と廣瀬家の雛人形 :「九州旅倶楽部」
広瀬資料館 廣瀬家の先哲八人 心高身低 :「九州旅倶楽部」


漢詩・吟詠「淡窓五首の一 」廣瀬淡窓 広瀬淡窓 :YouTube
漢詩・吟詠「江村」廣瀬淡窓 広瀬淡窓 :YouTube
漢詩・吟詠「蘭」廣瀬淡窓 広瀬淡窓 :YouTube
吟詠・廣瀬淡窓 漢詩「即事」広瀬淡窓 :YouTube

漢詩・吟詠「秋夜」廣瀬旭莊 広瀬淡窓 :YouTube



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付記

著者・葉室麟の作品で、その印象記を載せたものをリストにまとめました。

読書記録索引 -2  フィクション :葉室麟・山本兼一・松井今朝子

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