アジアを回る・日本を回る

年に1度の海外旅行を楽しみに1年働いています
2016年の夏はカンボジア・シェムリアップに決定
現在工程表作成中

白タク初体験その1

2008-01-31 22:16:26 | 1995年3月マレーシア
初日ジョホールバルの弟宅に1泊した私たちは、2日目昼過ぎにシンガポールへ向かった。
弟はこの日仕事があるから私たちには付き合ってもらえない。
まぁ、日本から兄が遊びに来ているからといって何日も仕事を休んでもらっては申し訳ないしね。
だから2日目と3日目を我が家はシンガポールで過ごすことにしたのだ。

シンガポール入りに際し、不慣れな私たちの為に弟から次のようなアドバイス。
① 国境を越えるには普通のタクシーではなく「国際タクシー」に乗る必要がある。
② 普通は拠点地から拠点地までしか行ってくれないが、運転手と交渉しだいで直接ホテルまで連れて行ってもらえる。
③ 相場の値段も教えてもらった。いくらだったかは忘れたけど。
これだけ聞いておけば交渉は楽だと思っていた。
ところがこの後ちょっとした恐怖体験が待っていた。海外をなめていたのだ。

朝、弟を見送り昼過ぎまで子供たちと遊ぶ。
その後、皆で近くのショッピングセンターのフードコートで昼食をとった。
ここでいったん弟一家とはお別れして、タクシーで国際タクシー乗り場まで行く。
この時は弟の嫁さんが運転手に行き先を伝えておいてくれたから問題なし。
問題はまだ先。

タクシーを降りてそれらしきタクシーがある方向に歩いていった。
そしたら・・・途中で運転手らしき兄ちゃんに呼び止められた。
「・・・シンガポール・・・」
‘シンガポール’しか聞き取れなかったけど「シンガポールに行くのかい?」位の意味だとは解った。
解ったというよりそれ以外考えられなかった。
てっきりこれが国際タクシーだと思った私は「How much?」と聞いてみた。
答えは、弟から言われていた額よりは少し高かった。
でも、当時の私は交渉を楽しむ余裕がなく、正直なところ‘メンドクサかった’ので「OK」と言ってしまったのだ。

私より海外旅行の経験があり英語力もある妻は、少し「えっ」という表情をした。
どうやら旦那が話している人は正規のドライバーではないことに彼女は気づいていたようだ。
でも、ここまでだったらまだ問題なし。
問題はこれからだったのだ。





ヤモリのいたレストラン

2008-01-28 23:19:45 | 1995年3月マレーシア
ジョホールバルに着いた夜は弟一家の計らいで我々の歓迎会を地元のレストランで行った。
このレストラン、ヤシ類の植栽とちょっと暗めの照明がなんとも良い雰囲気を出していた。
食卓はと言うと、四方の柱と屋根はあったが開放的なオープンテラス形式の個室。
エアコンのない蒸し暑さも加わって乾杯のビールには最高の演出だったなぁ。

食事は『スチームボード』という鍋料理。
マレーシアに限らず東南アジア一帯のローカルディッシュのようだ。
中央部が盛り上がりドーナツ型のプールのような金属製の鍋に、店員が野菜やつみれを入れてくれた。
さてお味の記憶だが・・・印象の薄い料理だったようで全く思い出せない。 
どうしても思い出せないので、調べてみたら暑い国にしては珍しい?チキン味のスープだったようだ。
そういえば、昨年バンコクで食べた「トムヤンクン魚貝入り」も同じ形の鍋だった。
チキンのスープがトムヤンクンに変わっていただけの違いだがこちらは強烈だったよ。

久しぶりの弟一家との会食は、弟や弟の嫁さんから聞くマレーシアの話で盛り上がった。
まず、マレーシアに着いた頃は現地の衛生面が心配で生ものを食べられなかったそうだ。
生野菜はもちろん、生卵ですら殻が不衛生だからということで食べなかったと言う。
そしたら、野菜欠乏で逆に病気になってしまったんだそうだ。
また、食べ残したおかずをちょっとほおっておいたら巨大なアリに持ってかれたこと。
アリですよアリ。
スチームボードの味は忘れてもこのときに聞いた話の衝撃は忘れない。

植栽の隙間から覗く外の闇と霞んだようなオレンジ光の照明。
夜だというのに蒸すような暑さと日本では考えられない会話の中身。
現地の規格に自分の身体を馴染ませようと、聞いた話はビールで身体に流し込んだ。
ホンワカと至福を感じる時。

食事も進んでちょっとほろ酔いになってきた頃、食卓の屋根の横壁に異様な物を見つけた。
ヤモリだ!!
いくら半屋外とはいえ、レストランでこの野生生物を発見するとは驚いた。
巨大なアリの話は他人事でも、食事中に現れたヤモリは我が身に起こった実体験。
歓迎会は最後に思いがけない生き物から歓迎を受けた。

付記:
弟が流暢な英語で店員に注文しているのには驚いた。
今でも英会話が苦手な私だが、当時は全く英語が理解できなかった。
ただただ弟が立派に見えてきた場面だ。


注文をとりに来た店員


スチームボード


昨年バンコクで食べた「トムヤンクン魚貝入り」。「スチームボード」と同じ形の鍋だった。

子連れ海外はトラブルで始まった

2008-01-24 00:33:17 | 1995年3月マレーシア
この旅行は航空券の手配も弟にやってもらったし、宿も弟宅に泊まる。
空港までの送迎も弟がやってくれるし休みの日には観光にも付き合ってもくれる。
何から何までマレーシアにいる弟任せの旅行だった。
私には、海外旅行に出かけるという意識はなく、弟の家に遊びに行くんだという気軽な感覚しかなかった。
安心感は気の緩みを生み、気の緩みは行動全体に複雑に作用してしまった。
私達は出発からとてつもない大失敗をしてしまったのだ。それは
飛行機の出発を遅らせてしまった

事の顛末は以下のようだ。
まず、空港まで見送りに来てくれた両親と出発時間ギリギリまでコーヒーを飲んでいたのが一つ目の失敗。
全てがスムーズに行くならばこれでもよかったのだが・・・
両親と別れた後、出国カードの記入がまだしてなかったことに気づいた。(二つ目)
前夜に書いておこうとしたのだが、書き方が解らないところがあったから空港で聞けばいいやと思ってほおっておいたのだった。
慌てて書き出したが、昨夜書けなかった所で結局手間取った。
字もろくに書けない長男に「自著」させる欄をどうするか・・・当時はこれで悩んだのだ。

そうこうしているうちに、私たちを呼び出すアナウンスがあった。

これはいけない!! 
何とか出国カードを書いて審査カウンターに行くと・・・なんと、次の便の客が列を作っていた。
横入りする勇気のない私はしばらく並んでいたが、2回目の呼び出し放送で意を決した。
「すいません。今、放送で呼び出された者です」と言って審査カウンターを通してもらった。

審査カウンターを出たら程なく空港職員がやってきた。
トランシーバーで「不明者たちを捕獲した旨」を連絡されていたのは恥ずかしかったなぁ。
結構な距離を走ってゼイゼイ言いながらのバツの悪い機内入りだった。

何とか出発できたのだけど・・・
初めての飛行機で長男は舞い上がったのか???
食後に機内で嘔吐してしまった。
これも余分なトラブルだったなぁ。


今はもうない小牧空港の喫茶店のラウンジ席


13年前の3歳の長男。今は面影もなし・・・


シンガポールの空港

私がマレーシアへ行く理由

2008-01-18 21:24:13 | 1995年3月マレーシア
私の弟はそこそこ有名な電機メーカーに勤務している。
奥さんと娘が一人の3人家族。
1994年は弟にとって念願のマイホームが完成する年だった。
ところが・・・

弟が3年という期限でマレーシアに駐在を命じられたのは、マイホーム着工開始の直前だった。
彼はマイホーム完成を見ることなくまずは単身赴任でマレーシアに旅立った。
奥さんは新居の完成を見届けた後、新居に住むことなく娘と共に彼のいるマレーシアへ行った。
企業って社員に厳しいね。

弟は出向という形の駐在であるにもかかわらず給与は現地会社のベースだった。
破格の待遇だったようで、マレーシアでは家政婦を雇えるほどの高い給与だ。
実際、その3年で家族と海外旅行にも結構行ったようだ。
ただ残念なことに‘現地では’破格だったということだ。
給与は現地の通貨払いで、日本円に換算すると日本でもらっていた額の半分だったのだ。
マイホームはローンを組んで建てたから、当然毎月の返済が来る。それも日本円で。
企業って社員に厳しいね。

しかも、出向だから会社に籍はあるはずだがその間の3年は退職金の計算に入らないそうだ。
企業って本当に社員に厳しいんだね。


車窓からアブバカールモスクを撮る

新居の件で可哀想と思ったのと子連れの海外生活を心配したのか
海外旅行の経験のない父と母が落ち着いたら顔を見にマレーシアまで行くという。
その前に偵察ということで私たち夫婦が長男を連れて行くことになった。
マレーシアという国はこんなこと(弟の駐在)でもなければ行くことはないだろうし・・・
当時はマジでそう考えていた。

航空券は弟に現地で買ってもらった。(シンガポール航空)
宿泊は基本的に弟宅で途中2泊をシンガポールのホテルにとってもらった。
1995年3月末のことである。


子供と一緒にマレーシア

2008-01-15 20:35:41 | 1995年3月マレーシア
今から10年以上も前の1995年、私は妻と3歳の長男を連れてマレーシアに行った。
私の弟がマレーシアのジョホールバルに家族で駐在していたので遊びに行ったのだ。
私も今ほど海外旅行に興味がなく、どちらかといえば弟一家の陣中見舞いという性格の旅だった。

【行程】
3月26日 小牧空港から昼過ぎ出発。夕刻シンガポール着。マレーシアの弟宅泊
3月27日 昼食後、タクシーでシンガポールへ。シンガポールのホテル泊
3月28日 昼までシンガポール観光。弟に迎えに来てもらいマレーシアへ。弟宅泊
3月29日 シンガポールで蘭園と動物園観光。深夜シンガポール発。
3月30日 早朝帰国

その時連れて行った3歳の長男が今はもう高校生だから、かなりの時間の流れは感じる。
『世紀』の話は今は誰も話題にしないけど、この旅行は20世紀のものだよ。
そんな古い記憶でも何とか掘り起こせば「アジアを回った」という大切な想い出となるだろう。

細かいことなど全て忘れてしまったから旅行記にはならない。
でも、当時印象的だったことは鮮明に覚えている。
ビデオは撮ったが写真もあまり撮ってないので記録は私の頭の中だけ。
旅行記にはならないけれどフラッシュバックした想い出を書き残しておきたい。

なお、写真はビデオ起しだから画質は悪いです。


ジョホールバル水道とその向こうはシンガポール

ブダペシュト アジアを感じる時

2008-01-12 13:14:58 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
中欧4ヶ国をプラハ、ウィーン、ブラチスラバ、ブダペシュトと回ってきた旅行。
言語も通貨も変わる4ヶ国を駆け足で回ってきたつくづくタフなツアーだった。

中欧というカテゴリーでまとめられるこの4カ国。
最後のハンガリーという国はそれまでのチェコやオーストリアと何か異なる趣を感じた。

スラブやゲルマンではない、何となく牧歌的な民族のハンガリー人。
このハンガリーという国に、私はアジア的な匂いを感じた。
牧歌的とかアジア的と言ったのは「ハンガリーがアジア系遊牧民族のマジャール人の国」という先入観もあったと思う。
でも、旅行を振り返ってみるとそれを感じさせてくれる現場がいくつかあった。

まず、ハンガリーに入ってからバス窓から見える家々の様子が確かにそれまでとは変わった。
田園風景はそんなに変わっていないけど民家の造りや屋根の形がチェコやオーストリアのとは違うのだよ。
どこがどう違ったかという細かいことは忘れてしまったが間違いない。
動くバスの中からではピントが合わないから写真に撮れなかったのが残念だ。

また、店でモノを買うときの店員の態度が変わった。
プラハでもブラチスラバでもさすが旧共産圏だ。店員は無愛想だった。
こちらが商品を差し出すまで見向きもしないし、差し出した品物も一応包んではくれるが、ニコリともせず商品とおつりを渡される。
それがハンガリーに入ったとたんに「何をお探しですか」と接客された。
同じ旧共産圏なのにハンガリー人の人懐こさと順応性。
ものを買うときは本来こうなんだよな・・・忘れていたものを思い出した感覚がした。

最後はブダペシュト市内観光のとき気が付いた。
ヨーロッパの人たちは日本人より背が高く大柄な人が多い。
プラハやブラチスラバでは180cm以上のスラリとしたそれでいてがっしりともしている大男や大女がウジャウジャいた。
ブダペシュトでももちろん大柄な人も多いのだが・・・
ちらほらと日本人的な身長の人を見かける割合が多くて、何となくホッとしたのだ。

『アジアを回る』というブログタイトルにこじつけるつもりはないけど・・・
この中欧旅行は最後に‘アジア'を回ったんだ。

移動日のバスの旅

2008-01-08 10:54:48 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
プラハ、ウィーン、ブダペストの三都を回る8日間のツアーは売れ筋の商品だ。
この8日間のうち、ヨーロッパへのフライトだから行きで1日を計算する。
ツアー7日目は朝から帰路につき8日目の朝に帰国だったから帰りで2日の計算だ。
実質的に残りの5日間が観光となる。

この5日間は観光日~移動日~観光日~移動日~観光日のローテで過ぎていく。
ツアーの表題である「プラハ」「ウィーン」「ブダペスト」の観光は各1日しかないのだ。
私はこれで十分だけど、これがツアーの裏事情なのだ。

2度ある移動日は国をまたいだ大移動になるからこれが結構大変だ。
ツアー的には大移動の途中にチェスキークルムロフとドナウベントの観光を入れてある。
移動日を感じさせないように、昼食場所に有名な観光地を持ってくる・・・見事な計画だ。

最初の移動日は計8時間、2回目の移動日も計6時間半のバス移動がある。
移動日のバス内は寝て過ごしていたのではもったいない。

ツアーバスの運転手によると、この時期はドイツやフランスから帰省するトルコ人で主な国境が混むそうだ。
時間が大事なツアーだからちょっと田舎の空いていそうな国境を選んでくれた。
だから車窓からの景色は延々と続く田園風景が中心となった。

田園風景といっても日本で見たこともないようなスケールで広がっているので面白い。
牧草地、ひまわり畑、トウモロコシ畑やぶどう園など、とにかく一面にこれが広がるから見ものだ。

また、途中で町を通ることもあった。
その気になって見れば、国境を越えると町並みが趣を変えるのも面白い。
特に、オーストリアからハンガリーに入ったときに家の造りが確かに変わった。

この2日間の移動日はバス窓からの風景観光もその気になって見ていれば面白い発見があるんだよ。

 
国境の町グミュントの検問所


チェコのドライブイン


オーストリアの牧草地


ハンガリーのひまわり畑


ツアーバス


ヨーロッパにもスパがある

ブダペシュト ドナウの真珠

2008-01-04 15:21:12 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
ドナウの真珠と称されるブダペシュト。
○○の真珠と呼ばれる町はたくさんあるがそれらに共通することは美しい町だということ。
ブダペシュトも美しい町だった。

大河ドナウに架かる「鎖橋」。
ブダとペシュトを最初に結んだ橋で正式名称は『セニーチェ橋』という。
どこから見ても美しい橋なのだが、特にお勧めのスポットはゲッレールトの丘から。
王宮地区と市街地をドナウに架かるこの橋が見事に調和させていて、その全景をパノラマで見ることが出来る貴重な場所なのだ。

ハンガリーの夏は日没が遅く8時過ぎてやっと暗くなった。
旅行最後の夕食はドナウ川に浮かぶ船のレストランで川波に揺られてとることにした。
土産を求めて1日中歩き回ったから足は疲れていたが、あまり空腹感はなかった。

冷たい果物のスープとサラダをお決まりのビールで流し込んで川向こうの王宮を見ていた。
夜の闇が深まるにつれ王宮はまばゆさを増してくる。
そしてどっぷりと陽が暮れたとき、川向こうの王宮が見事にライトアップされて浮かび上がった。
息をのむ美しさ。「ドナウの真珠」だ。

眼前を遊覧船が横切った。
夜のドナウの黒い川面に映ったまばゆい王宮や鎖橋がゆらゆらと揺れた。
はかなくも美しい・・・これも「ドナウの真珠」だ。


【鎖橋三景】漁夫の砦から


【鎖橋三景】ゲッレールトの丘から


【鎖橋三景】ペシュト側河畔から


薄暮の鎖橋とブダ王宮

 
冷たい果物のスープ          サラダ


船の上から・・・揺れていたのでピンボケ