アジアを回る・日本を回る

年に1度の海外旅行を楽しみに1年働いています
2016年の夏はカンボジア・シェムリアップに決定
現在工程表作成中

ジョホールバルあれこれ

2008-02-25 15:00:34 | 1995年3月マレーシア
実は、ジョホールバルという地名は旅行時には知らなかったのだ。
私にとってこの旅行は『マレーシアの弟宅に滞在してシンガポールにも行った』である。
あくまでも弟の家は『マレーシア』だったのだ。

ところがその2年後にサッカー日本代表がワールドカップ初出場を決めたことでジョホールバルは一躍有名になった。
ニュースなどで知るジョホールバルの位置から、私たちが行ったのもその辺りではないか?ということですでに日本勤務になっていた弟に聞いてみたらまさにそのとおりだったのだ。

ジョホールバルでの最後の夜は弟の案内でかなり高級なレストランに行った。
そこで私は初めて『北京ダック』なるものを食べた。
鶏を丸ごと一匹見せられた時はなんて豪勢な!!と思ったな。

給仕の人が肉を切り分ける。
小麦粉の薄皮(これをアヒル餅と言う)を広げそこに肉を置く。
肉と言っても皮の部分がメインだからさっぱり感を足すために葱やキュウリも置く。
そこに甘辛の味噌をつけて巻いていくと出来上がり。

細かい描写は不可能だが確かに美味しかったな。
でも、オドオド食べていたらあっという間に鶏が片付けられてしまった。
2家族6人で1匹だったことは理解できるが、それにしても少なくないかい??
後で聞いたらこの高級料理は皮部分だけ食べて残りの肉は食さないとのこと。
それを聞いた時はなんてもったいない!!と思ったな。

食後はカラオケに行った。
3歳児が2人いたからちょっと場違いな気もした。
やっぱりそこは大人の社交場の雰囲気を感じた。
高級レストラン→カラオケ・・・これって企業の接待コース??

ジョホールバルではデパートのイートインコーナーにも行った。
記憶にあるのは日本円で200円程度の一皿がとても美味しかったということ。
ご飯におかずがかけてあるいわゆる‘ぶっかけ飯’なのだが奥が深いのだ。
高級品をオドオド食べるより庶民の味を腹いっぱい満喫する方が性に合っている。

シンガポールあれこれ

2008-02-19 21:07:23 | 1995年3月マレーシア
シンガポールでは1泊した。それは確かなのだが・・・
10年以上も前のことなので記憶も曖昧だ。
おまけに、写真やビデオも撮ってないので記録は何も残っていない。
微かな記憶にあるのは、
地下鉄で『ニュートンサーカス』に行ったこと。
今はなき『そごう』でウィンドーショッピングをしたこと。
夕食で『鳩料理』を食べたこと、くらい・・・

シンガポールの夕食はホテル最上階のレストランで『鳩料理』を注文した。
他のメニューもあったけど日本ではまずお目にかかれないからトライしたのだ。
鳩料理自体はシンガポール名物というのではないようだ。
おそらく中華料理の流れから普通に見られる料理なのだろう。
食べたお味の記憶は曖昧だが、別段特別な味ではなかったと思う。

食後に散歩がてらニュートンサーカスに行った。地下鉄で行ったと思う。
屋台がいっぱいあったが何せ食後に行ったからほとんどそこでは食べてないのではないか・・・
間違いなく今の私ならホテルで美味くもない鳩料理など食べずにここの屋台街で飲み食いしているだろう。

余談だが、旅行最終日に弟に連れて行ってもらった海浜レストランの料理の味は覚えているぞ。
繊細な味などクソ食らえというように、目の醒めるようなパンチの効いた塩やソースや油の味がぶった切った上海蟹に浸み込んでいる。
見た目も味も豪快なのだ。
これが中華だと初めて感じた瞬間かもしれないな。

翌日はホテルの周りをぶらぶらした。
行く当てがないのでホテルの近くの『そごう』に行った。
惣菜コーナーでは見慣れた日本の食材があったのには新鮮に驚いた。


シンガポール 動物園とラン園

2008-02-15 00:53:58 | 1995年3月マレーシア
帰国する日は弟一家とシンガポール観光をした。
マンダイ蘭園とシンガポール動物園。

私の趣味は蘭栽培です。自宅に温室を持っています。
弟はわざわざこんな私の為に蘭園を本日のコースに入れてくれたのだった。
広大な敷地に蘭がいっぱいに咲き誇っている。
私にとっては垂涎もののスポットなのだが・・・
家族連れにとって主役は子供であり、私は観たいものの半分も見れず後ろ髪を引かれて蘭園を後にした。

その点次に行った動物園は子供たちにとっても見所いっぱいだったようだ。
この動物園はオープン方式(檻に動物を入れずに放し飼い)を売りにしている動物園だ。
また、敷地はとても広大なので園内をトラムが廻っている。
ホワイトタイガーなどの珍獣もいっぱいいたようだが、子供がメインは見所が違う。
遊具のある公園ゾーンと象やアシカのショータイムで大半の時間を使った。

オープン方式を謳って動物との触れ合いを大事にする動物園だからその他のアトラクションも豊富だった。

その1)チンパンジーとの記念撮影
これは我が家の長男が撮影のために横に来たチンパン君にパンチしてしまうハプニングつき。
それでも黙って仕事をこなしたチンパン君の大人ぶりに感動したものだ。

その2)象乗り体験
子供だけでは乗せられないということで私も一緒に乗ったのだが・・・
見た目より、揺れがひどくて不安定。
落とされまいと両足でしっかり象の背を挟んでいたから降りたときは足が震えたよ。

時効だから言いますが・・・
動物園で樹に着生していたデンドロを垂れ下がっていた部分だけいただいてきました。
トランクに忍ばせて持ち帰るときはハラハラドキドキだったなぁ・・・
ヘゴ板に着生させて我が家の温室で10年くらい育っていたけど結局一度も花は咲かなかった。
そのデンドロも、2,3年前に絶えてしまった。


蘭園


蘭園その2


遊具で遊ぶわが子


動物園内の遊具


ボールの海でご満悦・・・


象も悲しんでいます


チンパンジーと記念撮影


恐怖の象乗り体験

シンガポールの街中で・・・

2008-02-10 19:56:20 | 1995年3月マレーシア
シンガポールは刑罰の厳しい国だ。
アメリカの青年がシンガポールで建物に落書きして鞭打ち刑になったと言う話を新聞で読んだ。
確か旅行に行く少し前だったと思う。
今でもそうかは知らないが、「ガムや煙草のポイ捨て」「立小便」は罰金刑だと言われていた。
その時はまだ喫煙者だった私としては立小便やガムは大丈夫としても、煙草は注意が必要だった。

さて、粗末な落ちの「白タク」の話題を3回に分けて引っ張ったのにまた白タクの話です。

車がオーチャードロードに入ったのを確認してやっと我が身の安全を確認できたのもつかの間、
それまで妻に抱かれて眠っていた長男が目を覚ました。
そして、「ママ、おしっこ

今までも、子供連れのドライブでは運転中に「オシッコ」の催促はよくあった。
そんな時は、正直な話、近くにトイレが見つからないときは道端でやらせたこともあった。
でも、ここはシンガポール。立小便で罰金の国だ。しかも町の中心部・・・

まず、運転手に「子供がオシッコって言ってるんだけど」と伝えた。
前の二人は何が起きたか理解したようで、何やら話し始めた。
そして、大通りの交差点で信号待ちで止まった時を見計らって
「ここなら大丈夫だ!」
大通りは片側3車線ほどあり中央分離帯が設けられていた。
運転手は一番中央の車線で止まり、中央分離帯でオシッコさせろという。
確かに車内でお漏らしされてはたまらないだろうが、我が家も罰金は困るし・・・
でも、妻はためらうことなく長男を車から降ろしオシッコさせた。完全な犯罪行為。
運転手の機転?と妻の罰金を恐れぬ素早い行動で、信号が青に変わる前に犯行は終わった。
幸いにも、後ろからパトカーのサイレンも聞こえず、前を警官に遮られることもなかった。
これもある意味白タク内の恐怖体験だった。




白タク初体験その3

2008-02-05 23:52:11 | 1995年3月マレーシア
ガイド本にあった白タク危険情報にピッタリと合致したシチュエーション。
車中では、自分の行為のあまりのアホさかげんに情けなさを感じていた。
ただただ、「コイツら本当はいい奴らであってくれ~」とすがるような気持ちで祈っていた。

シンガポール入国後、しばらくは郊外の道が続いて山の中へ連れて行かれるのではと思った。
すやすや寝ている長男だけは何としても守らなければいけないなぁと覚悟を決めたんだけど・・・
しかし、車は程なく街中に入り、ビル街も見えてきた。
さらに、車窓から市内中心部にある大通り名が確認も出来たぞ。
着実にホテルに向かっている!?
ひょっとしたらいい人達だったかな?

さらに、共犯者だと思った同乗者が後ろを振り向きさっきのガイド本を見せろと言う。
ホテルの場所を確認するためだった。
日本語の地図を見ながら前の二人はホテルを探してくれた。
少し迷ったけど見つかった時は「あった!あった!!」と振り返って一緒に喜んでくれた。
でも、私たちも喜びはホテルが見つかったことだけではなかったのだよ。
本当にいい奴らだったんだ!
ホテルに着き、契約金額を払うと二人は笑顔で帰っていった。
大丈夫だと解るまで小1時間の恐怖体験。というか思い込み。

翌日迎えに来た弟にこの話をしたら、次のようなことを言った。
マレーシア人のシンガポール入国はチェックが厳しいそうだ。
観光客を乗せて通関すると素通りできることが多いのでその類ではないかとのこと。
よっぽどでない限り大丈夫だけど白タクはやめとけよ、と言われた。
好んで白タクを使ったわけではないのだが・・・でも、こちらから飛び込んだとも言えるな。

国際タクシー乗り場にやってきた私たちは、どう見ても日本からの観光客とわかったことだろう。
さらに、その辺でうろうろしているのは、ほとんどシンガポールに行く人たちでしょう。
冷静に考えれば私が白タクの運転手でもそこで営業しているよ。
とにかく、純粋な気持ちで営業していた白タクでヨカッタ~。




白タク初体験その2

2008-02-03 20:30:55 | 1995年3月マレーシア
私の失敗は、呼び止められた見ず知らずの相手の話に応じてしまったこと。
きっと、妻と子供の前でカッコつけたつもりだったのだろう。
値段交渉も数字の英語くらいなら解るから、少々高かったけどOKしてしまったのだ。
さらにガイド本を見せながら「ここに行ってくれや~」とホテル直行の交渉までしてしまった。
相手は私の言いたいことが解ってくれたようで快くOKしてくれた。
その時の私は、コイツはいいやつだなぁなんて思っていたんだろうなぁ。

さて問題はその後だ。
相手はホテル直行の交渉成立後、ごちゃごちゃ何やら言ってきた。
私は、出来もしない英語が通じたような気になって有頂天になっていた。
勢いで、相手の言っていることが何のことかも解らずに「OK!!」と言ってしまったのだ

運転手は笑顔で‘タクシー’のドアを開けてくれた。
重役気分で乗り込んだ私の横で、妻が顔色変えて小声で言った。
『あの人「together」って言ってたよ!!』
together???
「together」の意味は学校で習ったが、この場面での使い方が解ったのはその直後。
近くで交渉を見ていた運転手の友達と思われるのがニコニコして助手席に乗り込んできた。
運転手は「一緒に(together)コイツも乗ってって良いか?」と聞いていたんだ。
走り出した車には案の定メーターなどなかった。やられた・・・

白タクでぼったくられたり、ひどい時は強盗事件にもなるなんてことは聞いていた。
また、当時は東南アジアで邦人の誘拐事件も頻発していた頃だ。
ガイド本にも、同乗者を装った現地人が運転手とグルになって強盗を働くという白タク被害の基本的な注意事項もあった。
そう、極めて基本的なこと。それが今私たちの目の前で起こっていた。

車を走らせながら運転手は同乗者と話している。
現地語だから解らないが良からぬ相談をしている様に見えた。
現実が飲み込めてからの私は天国から地獄に突き落とされた気分だった。
金目の物を見せるといけないと思い、当時最新式だったビデオはバックの奥に隠した。
ささやかな抵抗だが、彼等の犯罪意欲をかきたてないようにした。かなり真剣だったのだ。
妻は乗る前から事態を飲み込んでいた分、私よりも深刻だったかもしれない。
シンガポール入国時にパスポートを運転手に渡したが、「パスポート取られると大変だから、すぐに返してもらってよ!!」と引きつった顔で私に言った。
長男は・・・何も知らずにすやすやと妻に抱かれて眠っていた。
この子だけは守らねば・・・

注:この話には‘落ち’がありますのでご安心ください。





白タク初体験その1

2008-01-31 22:16:26 | 1995年3月マレーシア
初日ジョホールバルの弟宅に1泊した私たちは、2日目昼過ぎにシンガポールへ向かった。
弟はこの日仕事があるから私たちには付き合ってもらえない。
まぁ、日本から兄が遊びに来ているからといって何日も仕事を休んでもらっては申し訳ないしね。
だから2日目と3日目を我が家はシンガポールで過ごすことにしたのだ。

シンガポール入りに際し、不慣れな私たちの為に弟から次のようなアドバイス。
① 国境を越えるには普通のタクシーではなく「国際タクシー」に乗る必要がある。
② 普通は拠点地から拠点地までしか行ってくれないが、運転手と交渉しだいで直接ホテルまで連れて行ってもらえる。
③ 相場の値段も教えてもらった。いくらだったかは忘れたけど。
これだけ聞いておけば交渉は楽だと思っていた。
ところがこの後ちょっとした恐怖体験が待っていた。海外をなめていたのだ。

朝、弟を見送り昼過ぎまで子供たちと遊ぶ。
その後、皆で近くのショッピングセンターのフードコートで昼食をとった。
ここでいったん弟一家とはお別れして、タクシーで国際タクシー乗り場まで行く。
この時は弟の嫁さんが運転手に行き先を伝えておいてくれたから問題なし。
問題はまだ先。

タクシーを降りてそれらしきタクシーがある方向に歩いていった。
そしたら・・・途中で運転手らしき兄ちゃんに呼び止められた。
「・・・シンガポール・・・」
‘シンガポール’しか聞き取れなかったけど「シンガポールに行くのかい?」位の意味だとは解った。
解ったというよりそれ以外考えられなかった。
てっきりこれが国際タクシーだと思った私は「How much?」と聞いてみた。
答えは、弟から言われていた額よりは少し高かった。
でも、当時の私は交渉を楽しむ余裕がなく、正直なところ‘メンドクサかった’ので「OK」と言ってしまったのだ。

私より海外旅行の経験があり英語力もある妻は、少し「えっ」という表情をした。
どうやら旦那が話している人は正規のドライバーではないことに彼女は気づいていたようだ。
でも、ここまでだったらまだ問題なし。
問題はこれからだったのだ。





ヤモリのいたレストラン

2008-01-28 23:19:45 | 1995年3月マレーシア
ジョホールバルに着いた夜は弟一家の計らいで我々の歓迎会を地元のレストランで行った。
このレストラン、ヤシ類の植栽とちょっと暗めの照明がなんとも良い雰囲気を出していた。
食卓はと言うと、四方の柱と屋根はあったが開放的なオープンテラス形式の個室。
エアコンのない蒸し暑さも加わって乾杯のビールには最高の演出だったなぁ。

食事は『スチームボード』という鍋料理。
マレーシアに限らず東南アジア一帯のローカルディッシュのようだ。
中央部が盛り上がりドーナツ型のプールのような金属製の鍋に、店員が野菜やつみれを入れてくれた。
さてお味の記憶だが・・・印象の薄い料理だったようで全く思い出せない。 
どうしても思い出せないので、調べてみたら暑い国にしては珍しい?チキン味のスープだったようだ。
そういえば、昨年バンコクで食べた「トムヤンクン魚貝入り」も同じ形の鍋だった。
チキンのスープがトムヤンクンに変わっていただけの違いだがこちらは強烈だったよ。

久しぶりの弟一家との会食は、弟や弟の嫁さんから聞くマレーシアの話で盛り上がった。
まず、マレーシアに着いた頃は現地の衛生面が心配で生ものを食べられなかったそうだ。
生野菜はもちろん、生卵ですら殻が不衛生だからということで食べなかったと言う。
そしたら、野菜欠乏で逆に病気になってしまったんだそうだ。
また、食べ残したおかずをちょっとほおっておいたら巨大なアリに持ってかれたこと。
アリですよアリ。
スチームボードの味は忘れてもこのときに聞いた話の衝撃は忘れない。

植栽の隙間から覗く外の闇と霞んだようなオレンジ光の照明。
夜だというのに蒸すような暑さと日本では考えられない会話の中身。
現地の規格に自分の身体を馴染ませようと、聞いた話はビールで身体に流し込んだ。
ホンワカと至福を感じる時。

食事も進んでちょっとほろ酔いになってきた頃、食卓の屋根の横壁に異様な物を見つけた。
ヤモリだ!!
いくら半屋外とはいえ、レストランでこの野生生物を発見するとは驚いた。
巨大なアリの話は他人事でも、食事中に現れたヤモリは我が身に起こった実体験。
歓迎会は最後に思いがけない生き物から歓迎を受けた。

付記:
弟が流暢な英語で店員に注文しているのには驚いた。
今でも英会話が苦手な私だが、当時は全く英語が理解できなかった。
ただただ弟が立派に見えてきた場面だ。


注文をとりに来た店員


スチームボード


昨年バンコクで食べた「トムヤンクン魚貝入り」。「スチームボード」と同じ形の鍋だった。

子連れ海外はトラブルで始まった

2008-01-24 00:33:17 | 1995年3月マレーシア
この旅行は航空券の手配も弟にやってもらったし、宿も弟宅に泊まる。
空港までの送迎も弟がやってくれるし休みの日には観光にも付き合ってもくれる。
何から何までマレーシアにいる弟任せの旅行だった。
私には、海外旅行に出かけるという意識はなく、弟の家に遊びに行くんだという気軽な感覚しかなかった。
安心感は気の緩みを生み、気の緩みは行動全体に複雑に作用してしまった。
私達は出発からとてつもない大失敗をしてしまったのだ。それは
飛行機の出発を遅らせてしまった

事の顛末は以下のようだ。
まず、空港まで見送りに来てくれた両親と出発時間ギリギリまでコーヒーを飲んでいたのが一つ目の失敗。
全てがスムーズに行くならばこれでもよかったのだが・・・
両親と別れた後、出国カードの記入がまだしてなかったことに気づいた。(二つ目)
前夜に書いておこうとしたのだが、書き方が解らないところがあったから空港で聞けばいいやと思ってほおっておいたのだった。
慌てて書き出したが、昨夜書けなかった所で結局手間取った。
字もろくに書けない長男に「自著」させる欄をどうするか・・・当時はこれで悩んだのだ。

そうこうしているうちに、私たちを呼び出すアナウンスがあった。

これはいけない!! 
何とか出国カードを書いて審査カウンターに行くと・・・なんと、次の便の客が列を作っていた。
横入りする勇気のない私はしばらく並んでいたが、2回目の呼び出し放送で意を決した。
「すいません。今、放送で呼び出された者です」と言って審査カウンターを通してもらった。

審査カウンターを出たら程なく空港職員がやってきた。
トランシーバーで「不明者たちを捕獲した旨」を連絡されていたのは恥ずかしかったなぁ。
結構な距離を走ってゼイゼイ言いながらのバツの悪い機内入りだった。

何とか出発できたのだけど・・・
初めての飛行機で長男は舞い上がったのか???
食後に機内で嘔吐してしまった。
これも余分なトラブルだったなぁ。


今はもうない小牧空港の喫茶店のラウンジ席


13年前の3歳の長男。今は面影もなし・・・


シンガポールの空港

私がマレーシアへ行く理由

2008-01-18 21:24:13 | 1995年3月マレーシア
私の弟はそこそこ有名な電機メーカーに勤務している。
奥さんと娘が一人の3人家族。
1994年は弟にとって念願のマイホームが完成する年だった。
ところが・・・

弟が3年という期限でマレーシアに駐在を命じられたのは、マイホーム着工開始の直前だった。
彼はマイホーム完成を見ることなくまずは単身赴任でマレーシアに旅立った。
奥さんは新居の完成を見届けた後、新居に住むことなく娘と共に彼のいるマレーシアへ行った。
企業って社員に厳しいね。

弟は出向という形の駐在であるにもかかわらず給与は現地会社のベースだった。
破格の待遇だったようで、マレーシアでは家政婦を雇えるほどの高い給与だ。
実際、その3年で家族と海外旅行にも結構行ったようだ。
ただ残念なことに‘現地では’破格だったということだ。
給与は現地の通貨払いで、日本円に換算すると日本でもらっていた額の半分だったのだ。
マイホームはローンを組んで建てたから、当然毎月の返済が来る。それも日本円で。
企業って社員に厳しいね。

しかも、出向だから会社に籍はあるはずだがその間の3年は退職金の計算に入らないそうだ。
企業って本当に社員に厳しいんだね。


車窓からアブバカールモスクを撮る

新居の件で可哀想と思ったのと子連れの海外生活を心配したのか
海外旅行の経験のない父と母が落ち着いたら顔を見にマレーシアまで行くという。
その前に偵察ということで私たち夫婦が長男を連れて行くことになった。
マレーシアという国はこんなこと(弟の駐在)でもなければ行くことはないだろうし・・・
当時はマジでそう考えていた。

航空券は弟に現地で買ってもらった。(シンガポール航空)
宿泊は基本的に弟宅で途中2泊をシンガポールのホテルにとってもらった。
1995年3月末のことである。


子供と一緒にマレーシア

2008-01-15 20:35:41 | 1995年3月マレーシア
今から10年以上も前の1995年、私は妻と3歳の長男を連れてマレーシアに行った。
私の弟がマレーシアのジョホールバルに家族で駐在していたので遊びに行ったのだ。
私も今ほど海外旅行に興味がなく、どちらかといえば弟一家の陣中見舞いという性格の旅だった。

【行程】
3月26日 小牧空港から昼過ぎ出発。夕刻シンガポール着。マレーシアの弟宅泊
3月27日 昼食後、タクシーでシンガポールへ。シンガポールのホテル泊
3月28日 昼までシンガポール観光。弟に迎えに来てもらいマレーシアへ。弟宅泊
3月29日 シンガポールで蘭園と動物園観光。深夜シンガポール発。
3月30日 早朝帰国

その時連れて行った3歳の長男が今はもう高校生だから、かなりの時間の流れは感じる。
『世紀』の話は今は誰も話題にしないけど、この旅行は20世紀のものだよ。
そんな古い記憶でも何とか掘り起こせば「アジアを回った」という大切な想い出となるだろう。

細かいことなど全て忘れてしまったから旅行記にはならない。
でも、当時印象的だったことは鮮明に覚えている。
ビデオは撮ったが写真もあまり撮ってないので記録は私の頭の中だけ。
旅行記にはならないけれどフラッシュバックした想い出を書き残しておきたい。

なお、写真はビデオ起しだから画質は悪いです。


ジョホールバル水道とその向こうはシンガポール