アジアを回る・日本を回る

年に1度の海外旅行を楽しみに1年働いています
2016年の夏はカンボジア・シェムリアップに決定
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ブラチスラバ ツアーを離れて1日観光

2007-11-28 21:08:43 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
ツアー4日目はウィーン観光の日だったが、キャンセルしてブラチスラバに行ってきた。
海外は久しぶりだったからわざわざツアーにしたのに・・・
まして、自力での国境越えはかなりの冒険だったな。
出発前にネットでブラチスラバの情報はかなり仕入れておいたつもり。
特にスロバキア紹介のHP「Hallo Slovakia」は大変お世話になった。

ブラチスラバ行きのバスはウィーン南駅から出ている。
所要時間は約1時間半。
ウィーン発着の1日エクスカーションとしては適当ではないか。
実際私たちも、行きは9時にウィーンを出てブラチスラバに着いたのが10時30分。
帰りは4時のバスでウィーンに戻らなければいけないので滞在は5時間程度のスロバキアだった。

旅の初心者ゆえ、最初から躓いた。
ウィーン南駅まではタクシーで運んでもらったが、ブラチスラバ行きのバス停が見つからない。
駅前のお巡りさんに聞いてみたが英語が通じない。
駅のインフォメーションで聞いてみたら何とか通じたものの・・・
「ここは鉄道の案内所だからバスのことは知らん!」だって。
ならばと駅前にいたバスの運転手に聞いてやっと見つけたよ。

チケット売り場では「I would like to get・・・」の後に「2 return tickets to Bratislava」と書いた紙を見せた。
売り場のおじさんはとても親切で自販機の買い方まで教えてくれた。


ウィーン~ブラチスラバ間のバス


バスチケット

9時:バス出発(往復16€/1人)
10時20分:ブラチスラバのバスターミナル到着

まずはこの国の通貨をということで、ターミナルビル内で両替(1番窓口)。
残ったらここで換金すればいいやと思いチョット多めに1万円分をSKに換金。
このとき、3,4人の男が「両替しようか」と言ってきた。
キッパリ「No!」と言ったら去っていったが、大柄な男に囲まれて少し緊張した。

次にインフォメーション(9番窓口)で市内までの行き方を聞いた。
「歩けば15分かかるので202番のトロリーバスで行け」と紙に「15,202」と書いてくれた。

早速ビルを出て202番のバス停へ。
発券機がコインしか使えないのでスタンドで水を買って小銭を作った。
トラムに乗ってキエフホテルまで行き、そこから歩いて旧市街観光。
最初に見つけたスーパー(TESCO)で地元ワインに目星つけて露店が並ぶフラヴネー広場へ。
ワクワク冒険が始まった。

 
国境    トラム10分券14SK      発券機



トロリーバス

ウィーン風居酒屋ホイリゲ

2007-11-26 01:13:20 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
3日目はプラハからチェスキー・クルムロフ経由でウィーンまでの大移動日。
長い移動の目的地ウィーンでは「ホイリゲ」での夕食が待っていた。

ホイリゲとはもともとその年の新酒を意味する言葉。
転じて自家製の新酒を出すワイン酒場のことを言うようになった。
本当のホイリゲとは「自家製ワイン」と「簡単な料理」しか出さないという。
最近は仕入れた新酒やワイン以外の飲み物(ビール等)を出して料理を提供するホイリゲ風レストランが多くなったそうだ。

私たちの旅行のパンフレットを見るとウィーンの夕食場所は
ウィーン風居酒屋ホイリゲ
外観も内観もウィーンの雰囲気を十分に出している観光客用ホイリゲ風レストランだ。
アコーデオンの生演奏付きで、白ワインを生ハムとチーズとパンでいただいた。
ストイックに「ホイリゲとは」を論ずる気はない。
私的にはホイリゲ=「新酒が飲める、ウィーンの雰囲気のある酒場」で十分良いよ。
ただ、新酒と言っても11月解禁だから8月のツアーでは前年の‘新酒'だけれど・・・

食事中にやってきたアコーデオン楽隊は、我々が日本人だとわかると「上を向いて歩こう」を披露した。
未だに日本人といえば‘スキヤキソング'かよ、と思ったが逆にそれだけ強烈なイメージになったこの曲に敬服した。
宴は進み、飲み口の軽やかな新酒も進んでいったようだ。
アコーデオンの軽快な曲に合わせて踊りだすツアー客もいて宴は盛りあがった。
まだ外は明るいんだけれど・・・

ツアーだったから店の場所も名前もわからない。
ただ、観光客用のホイリゲであるらしくネットの旅行記ではよく見かける。
場所はホイリゲの街、「グリンツィング」であるらしい。
名前はまだわからない。

 
アコーディオンの生演奏        お店の正面


生ハムとチーズの夕食

チェスキー・クルムロフ

2007-11-21 22:35:20 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
チェスキー・クルムロフはボスニアの南部、オーストリアとの国境の近くにある。
モルダウ川が大きくS字に蛇行して流れる中洲に中世の町並みを残したままたたずんでいる。

ツアーバスを降りるとここの現地ガイドに連れられてお城の見学。
ガイドがしきりに説明したのは
ハプスブルク家の歴史や皇帝が使った家具類。
平坦な壁にレンガ跡や窓を画いて立体的に見せる‘騙し絵'や壁に塗った漆喰が乾く前に絵を画いた‘フラスコ画'
どれも見るに値する有名なものなのだが私には城の塔の最上階から見た景色のほうが数倍感動した。
町を囲む小高い丘陵には木々や牧草地の緑が映えている。
その中にオレンジ色のレンガ屋根の町並みがまるでオアシスのようにポッカリ浮かび上がっている。
このコントラストこそが自然と人工物の最高の融合に見えた。

ガイドツアーが終わると昼食。
食べ終わると出発までは30分もない。
石畳の路地や中世の町並み。
モルダウ川で川遊びをする若者や子供たち。
見所は探せばいっぱいある町なのだろう。
せめて半日の自由時間があればもっとこの町の良さを理解できたんだろうな。
ツアー旅行の宿命か、高台からの景色以外はプラハ~ウィーンの中継観光地としての記憶しかない。


チェスキークルムロフの町並み

 
城の中庭の「騙し絵」          聖ビート教会


中央のイケメンは現地ガイドのオトさん


スヴォルノスティ広場

プラハ ボヘミアン

2007-11-18 12:52:53 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
【旧市街区】
大まかに言うとチェコの西半分を『ボヘミア』という。
お土産物でボヘミアグラスは有名だ。
一方、この地方からフランスへ流れていったジプシーが多かったという理由でジプシー的な生き方をする人を『ボヘミアン』というのも事実だ。
彷徨い歩く人・・・ボヘミアン

渡欧の場合、時差の関係で初日はほとんど24時間起きている。
だから現地での最初の朝は寝起きが悪い。
ぐっすり眠って眼が覚めるとそこは夢ののような異国だった・・・という訳にはいかないのだ。
起きても時差ぼけと睡眠不足で感覚は鈍く、ホテルの朝食も詰め込むだけで味気ない。
経験のある方ならお分かりだろう。

最初はぼけていた身体も観光していくうちに起きてきた。
それと同時に身体の中の異変も目を覚ましてきたようだ。
旅行前に前倒ししてきた仕事に無理があったのかもしれない。
行き先がそれほど衛生面で気をつけるような国ではなかったから油断したのかもしれない。
原因は不明だが、カレル橋を渡ってお昼を食べたあたりからお腹に刺すような痛みが始まった。
完璧な‘下痢だ'

昼食後、最初に行ったのがクリスタル店で日本人対応の店だった。
ありがたかったのはその店が日本人対応だったことではなく、そこに無料で清潔なトイレがあったこと。
昨夜からの食べ物(機内も含めて)は水のように流れ腹痛は治まる気配がなかった。

それでもツアーは続く。
クリスタル店を出ると旧市街区で解散、自由行動となるが、解散してすぐにインフォメーションの有料トイレに駆け込んだ。
(自由行動中ここを3回も利用した。)
妻には体調の不調を報告して観光前にまずは薬局探しをお願いする。
次の腹痛がくるまでになんとかして下痢止めを手に入れねば・・・。

インフォメーションでもらった地図を頼りに薬局を探して彷徨う。
薬局は程なく見つかり、「I have a stomachache. I want to stop ダイアリア
これが通じたときはうれしかったなぁ。
お水をもらってその場で薬を飲む。
お腹の中の物はほとんど出尽くしていたのかもしれないが薬を飲んでからは腹痛は来なかった。
以来、海外旅行には必ず下痢止めを持っていくことにした。

さて、観光に戻れるかと思ったらそうではない。
実は昨夜現地入りだったので旅装を完全に解いてなかった。
8日間の旅行だからデジカメのSDカードを何枚か持ってきていたが、それがまだホテルに置いてきたトランクの中だったのだ。
プラハ城、カレル橋で何枚か写真を撮ったので、写真を撮るためにはSDカードを買わなければいけない。
さらに重要な情報源の「地球の歩き方」もツアーバスに置いてきてしまった。
薬局の次はカメラ店やデパートを探して彷徨うことに・・・
彷徨い歩く人・・・ボヘミアン
SDカードを求めてさまよっていたら、親切な人が「『KOTVA』と言うデパートに行け。」と教えてくれた。
地図を見ると共和国広場にデパートがあるのを発見。
近代的なデパートで見事SDカード64メガGET!
ただしお値段は949Kc(約4000円弱)。ちょっと高め。

かくして、私たちのプラハ自由行動はトイレ、薬局、SDカードを探して終わってしまった。
気が付けばお土産も買ってない・・・観光もしていない・・・ボヘミアン・・・
旅行前には最大の目的地だったのはプラハだったんだけど。

 





お昼にあれだけひどい下痢をしたにもかかわらず下痢と腹痛が治まれば夜には黒ビール・・・
まだまだタフです。


結局プラハの土産物は‘下痢止め'と‘SDカード'

プラハ ヴルタヴァ川

2007-11-14 23:39:16 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
【カレル橋】
プラハ城を出て坂を下りるとモルダゥ川に出た。
2002年には大洪水を引き起こした大河だ。
現地ガイドはその時のものだといって建物に付いた水の跡を見せる。

カレル橋はモルダゥ川に架かるプラハ城地区と旧市街地区を結ぶ石橋。
小楽隊で演奏を披露しているグループ。
似顔絵や絵葉書やマリオネットを売ってる人たち。
プラハ城の賑わいはそのままここに受け継がれ陽光の元、人々の活気であふれていた。

両側の欄干には15対、合わせて30体の聖人像が並んでいる。
その一つ、城側からみて左側欄干の8対目にある「聖ヤン・ネポムツキー」の像はちょっとした伝説を持っている。

聖ヤン・ネポムツキーという人は14世紀の司祭で、今で言うと王室付きのカウンセラーのようなこともやっていた。
職務上、王妃から不貞の悩みを相談されていたが、国王からどんなに脅されても守秘を通した。
そのために橋から川に落とされて命を落としたが、彼の昇天の際に5つの星が輝いたという。

今ではその5星を頂いた聖人像となってプラハの町を見守っている。
彼の偉業にあやかろうとしたのだろう。
この像のレリーフに触れると幸せになれるということが広まった。
確かにそこの台座は皆が触るのでピカピカに輝いていて、触っているところを写真に撮ろうとする観光客で人だかりが出来ていた。

ちなみに、私たち日本人にはヤン・ネポムツキーより旧市街側から左岸5対目のフランシスコ・ザビエルのほうが有名だが。

日本に帰ってからスメタナの「モルダゥ」を聞いた。
交響詩『我が祖国』の中の曲で、私でも聞き覚えのあるメロディーだから相当有名なんだろう。
じっくり聞くと、力強さを感じるがどこか物悲しい。

永い歴史の中で自国のアイデンティティをなかなか表現できなかったチェコという国家に生まれた天才だからこそ『祖国』への郷愁をかくも強烈に表現できたのだろう。
『祖国』という感覚があまり馴染みのない日本人にも心に響くいてくるものがある。
これを書きながら鼻歌でメロディーを歌っていたら中学生の娘が「モルダゥだ」と言った。
中学の音楽の授業で習ったそうだ。

   詞:岩河三郎
 なつかしき河よ モルダウの
 清き流れは わが心
 うつくしき河よ モルダウの
 青き水面(みなも)は 今もなお

 流れにやさしく 陽(ひ)はそそぎ
 さざなみはいつも 歌うたい
 岩にあたり しぶきあげて 渦を巻く

ちなみにモルダウはドイツ語読みでチェコの人はヴルタヴァと発音する。
また、私たちが旅行した年の秋にプラハをドナウ流域としたNHKBSの番組があったがヴルタヴァ川はエルベ川の支流だ。



 


プラハ 錬金術師の小路

2007-11-10 09:05:03 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日
【プラハ城】
まだ時差ぼけの残る身体を無理矢理起こしてツアー2日目(実質初日)が始まった。
ツアーバスに乗り最初の観光地となったプラハ城に着く。
朝だというのに各国からの観光客はひっきりなしにやってくる。

私たちは現地ガイドの小太りなおばあさんが持つ「開かずに伸ばした折り畳み傘」を目印にして移動した。
入場券の購入や城内の案内は全てガイドさん任せだったから緊張感に欠けていた。
そのせいもあるだろう、城内での記憶がいまひとつハッキリしていない。
デジカメには残っていても頭の中のデータベースが時差のため本格始動する前だったようだ。
マティアス門、聖ヴィート大聖堂、大統領府など歴史的にも価値のある建物が多かったのに・・・
そういえば、聖ヴィート大聖堂ではこの年から聖堂内撮影禁止になり、警備員が「No Photo!!」を連発していた。
その威嚇するような上背と大声だけはかなりはっきり覚えている。

歩くうちに徐々に身体が起きてきた。

城内観光後半の「黄金の小路」は不思議な空間だった。
それまでの広大なスペースから一転して狭い路地にはいる。
プラハでも夏の直射光は暑くて眩しい。
路地はその直射光を遮り日陰を作る。
日陰は石畳の温度を上げずこの空間を冷んやりした空気で満たす。

かつてこの界隈には錬金術師が住んでいたという。
この路地に並ぶ商売気のない小じんまりした色とりどりの店々はかつての彼らの住居だ。
『錬金術』という科学的には荒唐無稽だけれど夢にあふれたフレーズを聞くと、まるで御伽噺の世界に紛れ込んだような錯覚に陥ってしまう。
近代になり、現実的な街並みになって作家フランツ・カフカもここで執筆活動をしたという。
青い22番のお店はフランツ・カフカが住んでいた家だったそうだ。

  










アジアでないけれど

2007-11-07 22:26:20 | 2004年8月中欧3カ国7泊8日


職場から海外研修という名目のご褒美旅行をいただいた。
この‘海外研修'は、海外であれば「行き先」も自分で決めれるし、「同伴」も誰でも何人でもOK。
上限50万までは無条件で援助してくれるというありがたい制度だ。
もっと羽振りのいいときは100万出してくれていた時もあったというが・・・

毎年2,3人が行かせてもらえるこの研修。
そろそろ自分の順番かな?と数年前から行き先を考えていた。
頭の中で候補地は世界を巡り、結局かねてから興味のあった東欧のチェコに決定。
ツアーを探すとプラハ~ウィーン~ブダペスト8日間でいいのがあった。

ツアーも決めて行き先の事前調査を始めると、ウィーン観光が引っかかった。
シェーンブルク宮殿やオペラ座は妻が以前行ったことがある。
私も東欧圏は興味があったがウィーンはそれほど興味はない。
ちょうどスロバキアの首都ブラチスラバがウィーンからバスで1時間で行けるので、添乗員に頼んでこの日だけツアーを離れて小旅行に出かけた。
このブラチスラバ行きがその後の私たちの旅行の方向性を決めたんだけど。

夫婦で行くプラハ~ウィーン~ブダペスト+ブラチスラバの8日間ツアー。
子供たちは爺さん婆さんに預けて10ウン年ぶりの‘新婚旅行'となりました。

【行程】
2004年8月5日~2004年8月12日 中欧旅行。
8月5日 午前関空発 ウィーン経由 夕刻プラハ着
8月6日 プラハ市内観光
8月7日 チェスキークルムロフ観光 チェコからバスでオーストリア入り
8月8日 ツアーを離れブラチスラバ観光 夕刻からウィーン市内観光
8月9日 ウィーンからハンガリー入り~エステルゴム観光~センテンドレ観光~ブダペスト
8月10日 ブダペスト観光
8月11日 ブダペスト発

【旅行社】
日本旅行「美しき中欧の古都8日 プラハ・ウィーン・ブダペスト」


屋台は楽し

2007-11-05 22:43:21 | 2006年3月ソウル2泊3日
2日目の早朝の南大門。
まだ完全に起きる前のこの巨大な商店街の一角にトースト屋台を発見。
早速、指で1個注文するとアジュンマは優しく微笑んでくれた。

ここの屋台はネギ入り卵焼きをトーストで巻いた簡易食の屋台。
値段は1個1000wだった。
アジュンマは卵焼きを作っているときに何かを聞いてきた。
韓国語だったから返事が出来ず困っていると片言の日本語で「砂糖入れますか?」。
私はにっこり笑って大きくうなずいた。

ソウルには各種の屋台があった。
スンデ、ホルモン、チジミ、クックァパン(菊花パン)、ホットックは食した。
スンデ、ホルモン、チジミはかなりボラれてしまったが、クックァパン(菊花パン)、ホットックは500w。
これぞまさに、ソウルB級グルメ!!










南大門・東大門市場 買い物編

2007-11-03 12:06:17 | 2006年3月ソウル2泊3日
ソウルでは貪欲に物を売っている。
例えば、結構満員な地下鉄の車内でいきなり音楽が流れて演説が始まった。
宗教か?と思ったらCDの販売員であった。
日本では考えられない。

南大門、東大門両市場でも道の両側だけでなく中央にも店をだしている。
店先の張り紙に日本語が氾濫しているのを見ると日本人観光客目当ての店も多そうだ。

安さで有名なのは「眼鏡」や「印鑑」。
「衣類」「雑貨」「食品」なども山のように積んでおいてある。
珍しい物では「スッポン」や「朝鮮人参」もあった。
特段何を買いたいというものもなかったから「見てるだけ」の観光になった。
そう言えば、「鞄」や「時計」の店先でかけられた呼び込みの言葉は笑えたな。
完璧なニセモノあります









【笑えない実話】を最後に一つ
南大門のある店の前で普通に声をかけられた。
誘われたけど買う気もないから適当に品定めしているふりをしてバイバイした。
どうやら私達はそこの店員達に、逆に‘品定め’されていたようだ。
ブラブラともう一度その店の前を通ったとき、奴らは狙いを定めてきた。
彼らは「安いよ」と言って近づいてきて店に呼び込む振りをして私たちの腕を思い切り引っ張った。
肘か肩を外しに来たようだった。

何でもありか ナンデモン(南大門)