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上越の旅 春日山神社~上杉謙信像

2012-01-27 22:04:04 | 2011年 国内の旅

上越春日山神社は、祭神が上杉謙信という神社。

しかしその御霊は、明治になって米沢上杉神社より分霊されたものだ。

意外と新しい神社なのだよ。

しかも、創建には童話作家の小川未明の父や1円切手で有名な前島密がかかわっている。

戦国武将~童話作家~1円切手…

なんとも複雑な組み合わせだ。

  

神社は春日山中腹の高台にある。

土産物屋や食堂がある車止めのスペースには謙信の立像がある。

全国に数ある謙信像のうちでもここの「頭巾に鎧姿」が一番人気があるようだ。

この場所は謙信をしのぶには最高のスポット。

見上げれば居城春日山城が、眼下には城下の街並みが望めるのだ。

ただ、この謙信像とて、昭和44年の建立と新しい。

 ←眼下の街並み

 ←見上げた先は春日山城址

上杉謙信は戦で負けなしという『不敗神話』を持つ。

実際は参加した戦での不敗ではなく、指揮を執った戦での不敗であるそうだが。

それでも『不敗神話』や『勝ち戦』は縁起物ですよ。

ということで、ここで謙信ゆかりのお守りを買おうとしたのですが…

 ←御守り授与所

『御守り授与所』は閉まっている!!

今日は日曜日で観光客も疎らだが、それでも平日より多いのだぞ!!

諦めきれないので、近所のお土産屋で聞いてみたら

「社務所に行ってみたら売ってくれるよ」

 ←社務所

社務所だって閉まっていたから、恐る恐る呼び鈴を押してみた。

ほどなく神主さんが正装で出てきて、何の疑いも無く、玄関で御守りを売ってくれた。

ご利益は大丈夫だろうか。 

ちなみにこの写真は埋蔵文化センターにある謙信の銅像

銅像の向こうに春日山城址が見える。


上越の旅 春日山林泉寺~上杉謙信の墓

2012-01-20 21:14:29 | 2011年 国内の旅

春日山林泉寺は15世紀末、越後守護代長尾氏(のちの上杉氏)の菩提寺として建立された。

上杉謙信ゆかりの寺で、幼名虎千代時代にこの寺に住み学問を学んでいる。

「謙信」という名は、7代住職「宗謙」より一字を貰って付けられたそうだ。

また、山門の『春日山』と本殿の『第一義』とある扁額は謙信の書と言われている。

今掲げられているものはもちろんレプリカだが、本物は宝物殿に今も展示されている。

 

謙信の死後、上杉家が米沢に移封された際、林泉寺も米沢に移転した。

だが、越後の林泉寺はそのまま残され、上杉後もこの地を治めた者の庇護を受け栄えた。

境内の墓地には謙信の墓と言われる墓標があり、それが客寄せの目玉になっているが

川中島の戦いの戦没者や、代々の春日山城主の墓もあるのだよ。

謙信だけでなく、この地を治めた者たちの思いの詰まったお寺だ。

 

  

      

インターネットで『春日山林泉寺』と検索すると米沢の方が多くヒットする。

しかし、系譜的にはこちらが本家のように思えるのだが…

境内の宝物館には先述の謙信直筆と言われる扁額があった。

また、教科書で見たことのある謙信の画もあった。

宝物館の中は撮影禁止で写真が撮れなかったが

話好きな館長さんがいろいろと解説をしてくれた。 

 ←宝物館

 ←惣門

 ←トイレです

 

 

 


上越の旅 五智国分寺

2012-01-07 22:08:07 | 2011年 国内の旅

上越の五智国分寺は、奈良時代に全国に作られた国分寺の一つ。 ↑ 親鸞聖人像

本尊は「大日」「薬師」「宝生」「釈迦」「阿弥陀」の五つの如来像。

この5つの知徳を持つ像が5体あるので五智如来というそうだ。

寺のある上越市五智という地名もここに由来する。

 ←山門

寺の歴史は時代の荒波にもまれ、創建以来盛衰を繰り返す。

鎌倉時代には、越後流刑された親鸞聖人の滞在寺として栄えた。

しかし、15~16世紀には見捨てられた寺となっていたそうだ。

創建時の寺院は大地震で海中に没したという説もある。

 ←三十塔

この寺を再び世に知らしめたのはあの上杉謙信

親鸞聖人ゆかりの寺が荒廃するのを惜しみ、寺を現在の位置に再建した。

謙信の死後も江戸時代には幕府の庇護下に置かれた。

さらに、松尾芭蕉もあの『奥の細道』の道中にこの地を訪れ

薬欄に いづれの花を くさ枕

の句を読んでいる。

↓ 境内には何故か『古池や蛙飛びこむ水の音』の句碑(左)がある

右は『薬欄にいずれの花をくさ枕』の句説明文

 

何度か火災に見舞われて、謙信による再建時の建造物ですら今はない。

江戸期の建屋は「経蔵(1693年)」・「仁王門(1835年)」・「三重塔(1865年)」だけ。

それでも、親鸞聖人 ・ 上杉謙信 ・ 松尾芭蕉 という

時代も活躍分野も違う歴史の偉人がこの地で一体化するのだ。

恐るべきパワースポット。

 ←本堂

12月の初旬の五智国分寺は雪こそなかったが、冷たい雨。

駐車場も10台程度のスペースで人気観光名所ではないようだ。

実際私が訪れた日も、他の参拝者はいなかった。

でも、もっと気候が良い時期ならば訪れる客もいるだろう。

 ←ステンレス製の梵鐘

 

 ↑ 親鸞滞在時の草庵跡の建てられた親鸞庵 

   当時竹林内にあったので竹之内草庵と呼ばれる

  ←本堂内の本尊 


上越の旅 鵜の浜温泉 日本海の日没

2011-12-30 21:57:28 | 2011年 国内の旅

鵜の浜は日本海に面している。

海水浴場からは、夏はほぼ正面に日本海に沈む夕陽が観れるという。

期待して行ったが、天気は雨。

それでも、日没時間にあわせて海岸へ出てみたが…

雨こそ止んでくれたが、雲に覆われて日没は観れなかった。

おまけに、 冬至直前だったから太陽が低い。

日没地点は、水平線を通り過ぎて陸地に上がっていた。 

 

 ↑ 夕陽の森展望台 日没後に行ったから、夕陽は観れず月が見えた。

 

鵜の浜の宿は謳い文句は‘潮風薫る宿’の「みはらし」さん。

日本海に面したロケーションだから、潮の香りどころか、波の音が聞こえる。

波の音だけだったら良かったのだが…

この日は夜から未明にかけて低気圧が通過し、外は台風並の雨風。

風の唸る音と雨が窓を叩く音が夜通し鳴り響いていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

食事のコースは『満腹・満足』というコース。

品数豊富なようでクチコミでは食べきれないという情報もあった。

予約時に『量より質』にアレンジOKだったのでお願いしたのだが…

それでも食べきれないほど出てきた。 ↓ 

   

先付け          アワビ          焼き物は鯛       

  

カニもあります     天ぷら          御造り(出が遅い)

  

一人鍋          松茸ご飯        デザートはチーズケーキ


上越の旅 鵜の浜温泉 人魚伝説

2011-12-29 20:08:35 | 2011年 国内の旅

鵜の浜温泉には『人魚伝説』がある。

要約すると

『鵜の浜に、母と二人で住んでいる若者がいた。

若者には許婚がいたが、ふとしたことから佐渡ヶ島の娘と恋仲になってしまった。

若者は海岸にある常夜灯に献灯し、佐渡の娘はこの灯を頼りに毎日、若者に会いに来ていた。

しかし若者が毎日海岸に行くのを不審に思った母が、「たまには家で許婚と過ごせ」と嘆願し

若者も1日だけならと、常夜灯の献灯を止めて家で過ごした。

翌日、佐渡の娘の水死体が浜に上がり、悲しんだ若者も後を追って入水した。』

という話だ。

町のいたるところに人魚の像がある。

海水浴場の砂浜や日帰り温泉施設・ホテルの玄関など…

さらに、冬の観光行事であるイルミネーションも人魚。

ただ、汚水のマンホールの蓋にある人魚はちょっと可哀想。

ちなみに、小川未明の童話「赤いろうそくと人魚」はこの伝説をもとに書かれた。

 日帰り温泉施設の人魚

 

↑ 町のイルミネーションも人魚                夜間はこうなる ↑

汚水…可哀想 ↓

 

「鵜の浜温泉」は天然ガスの採掘中に副産物として湧出した温泉。

湧出が昭和31年だからけっこう新しい温泉だ。

ホテルの温泉に浸かったが、塩化物泉ゆえちょっとソルティーだった。

   


上越の旅 杜氏の郷

2011-12-24 19:18:36 | 2011年 国内の旅

新潟は米どころ。 当然、酒蔵も多い。

だけど、酒蔵が「道の駅」をつくっちゃった。

それが、『よしかわ 杜氏の郷』。

↑ 四季菜の郷(地産品の販売所)で売っていたマタタビ酒

地産の野菜類も売っているが、メインは酒蔵見学と酒販売所。

しかも、場所は上越市の中心からは外れた田んぼの真ん中にある。

どう見ても、車でしか行けないロケーションなのだ。

観光バスを見込んでいるのかな? 

私は両親を連れての車旅行で、もちろん運転手。

新酒の利き酒コーナーもあったけど…

涙を呑んで回避した。

冬なのにジェラートも売っていたぞ。

『お酒のジェラート』があったから、珍しいものはチャレンジ。

もちろん「お酒のアイスは飲酒運転になりますか?」と聞いたら

「お子様でも食べられます」と返された。

←足湯のコーナーもあった。

 


上越の旅 雁木通り

2011-12-17 12:46:49 | 2011年 国内の旅

『雁木』とは ↑

通りに面した家々の軒を歩道まで伸ばしたもの。

雪が降っても通路を確保するという、豪雪地帯特有の生活の知恵である。

通路と言っても、各家の土地を少しずつ供出したものだから私有地なのだ。

だから、町の人たちの譲り合いや助け合いから生まれた人情味のある光景と言える。

雪国ではよく見られる光景だが、ここ高田の雁木は総延長が16kmもある。

現存する雁木ではダントツの日本一の長さだ。

 ←大町通り

高田の駅前の本町通りと大町通りを歩いた。

どちらも雁木通りに含まれるが、本町通りの雁木は近代的なアーケード。

商店街だからショッピングや食事はできる。

それに対し、大町通りは昔ながらの家屋が残っている。

民家が多いが趣はこちらの方があるようだ。

 ←本町通り


上越の旅 高田城三重櫓

2011-12-15 21:03:40 | 2011年 国内の旅

上越高田城は1614年、あの徳川家康の六男、松平忠輝が築城した。

城下を流れる川を外堀として利用し、石垣築かず土塁で済ました。

また、天守の建築はなされず、櫓(当時は二重)を天守の代用としたという。

防衛上は問題ないそうだが、将軍家系のお城にしては扱いが悪い?ような気が… 

 ←松平忠輝家系図

その後、櫓は1665年の高田地震で倒壊。

三重となって再建されたが、明治維新後の火災で焼け落ちた。

残った建造物も直後に廃城令によって取り壊されて高田城は幕を閉じた。

その後平地になった跡地には陸軍が入り、その際に大量の桜を植栽した。

このおかげで、高田城とその公園は「日本三大夜桜」の名所となっている。

注:「三大夜桜名所」の残りの2箇所は円山公園(京都)と丸山公園(長崎)という説と

弘前公園(青森)と上野恩賜公園(東京)という説がある。

しかしどちらも高田公園は含まれているから大したものだ。

また、城取り壊しで失職した武士が、お堀で蓮根栽培をはじめた。

食用蓮根は普及しなかったが、残った蓮は見事に繁殖し、毎年「蓮祭り」が開かれている。

 ↑ 高田城で買った絵葉書と入場券(200円)  

 ←極楽橋から櫓を見る

12月初旬の高田城は桜も無ければ蓮もない。

紅葉も終わって、訪れる観光客も疎らで、寒々としていた。

1993年に再建された立派な三重櫓は資料展示館になっており

築城当時の絵図面や城主家系図等の他

僅かだが発掘された櫓や橋の瓦や木片が展示されていた。

ただ、それでも展示スペースが余るようで

日本各地の名城の写真も飾ってあったなぁ… …

上越は日本でも有数の豪雪地帯だという。

高田城も、そろそろ雪に埋もれているかもしれない。

 ←展示品

 ←駐車場横の時計

 ←極楽橋

 本丸跡碑

 


上越の旅 サービスエリアで食事

2011-12-13 20:41:30 | 2011年 国内の旅

ここ何年か、12月初旬に両親を連れて旅行に行っている。

昨年は伊勢、その前は奈良、その前は山梨…

今年は、母が墓参りを兼ねた旅行にしてほしいといってきた。

ということで、行き先は1泊2日の冬の上越と決まった。

 ←駒ケ岳SAの『ソースカツサンド』

それにしても、愛知県から上越までは高速を使っても遠い。

行きは、駒ケ岳SAと妙高SAで休憩を取った。

帰りは、新井PA(ハイウェイオアシス)と梓川SAで休憩した。

1泊2日だから、食事はホテルでとった朝夕の2食以外、行き帰りのSAでとる事になった。

 ←行きの妙高SAで『特大穴子天丼』

帰りの新井PAで『背油ラーメン』→ 


中伊予風鯛めし 高知・松山一人旅

2011-11-29 10:53:09 | 2011年 国内の旅

松山では1泊もしない。

松山城を見て 道後温泉に浸って

その日のうちに夜行バスで帰った。

愛媛で地元飯と言えば『鯛めし』。

お昼は、市内の繁華街で『宇和島風』の鯛めしをいただいた。

道後では、この旅行のシメに『中伊予風』の鯛めしをいただこう。

中伊予風は、鯛を一尾丸ごと乗せた炊き込みご飯。

注文時に店員さんに「20分ほど時間がかかりますよ」と言われた。

大丈夫、1時間でも待てますよ。

だしまき卵をおつまみにお酒を飲みながら待ちました。

炊き上がった鉄鍋を開け、湯気の立つ鯛の身を骨から外していただく。

出汁は少し薄味だったが、その分鯛の旨さがよくわかった。

骨間の身まできれいに取って、尾頭付きの旅行最後の晩餐を締めくくった。

お店は道後温泉の味倉さんです。

TV取材がよくあるようで、タレントのサインが壁に…


道後温泉 高知・松山一人旅

2011-11-16 17:34:24 | 2011年 国内の旅

今回の旅行の目的の一つに 道後温泉 の制覇があった。

本館は、明治建立で国の重要文化財である湯屋。

昼に見ても重厚な湯屋だが、日が落ちて照明が灯された姿はまさに幻想的だった。

世の中に「共同浴場番付」なるものがあるそうだが

それによると、西の横綱に奉られている。(東の横綱は湯田中温泉)

料金設定は、「湯に入るだけ」から「個室でお菓子付き」まで、4段階に分かれている。

私は一番安いコース(400円)で入湯したが…後悔・後悔・後悔

「なんて小さな男なんだろう! 俺って!!」

何度も来れる場所ではないことを承知していたはずなのに…

珍しく、館内も空いていたから「個室お菓子付き(1600円)」にすればよかった。

この個室、普段の休日には順番待ちが出るほどの混雑だそうだ。


俳句の道 高知・松山一人旅

2011-11-09 14:49:45 | 2011年 国内の旅

 

松山は俳句の町。

道後温泉にも道後ゆかりの句碑が並ぶ『俳句の道』がある。

場所は、駅の西を走る県道20号松山北条線の県民文化会館付近の歩道。

道後の中心からはやや距離があるが…

土産店で買った地ビール1本を持って、テクテク歩いてきた。

ただ、車の往来が多い県道だから、雰囲気はなかったなぁ。

せめて道後公園内に作ればよかったのに。

 「ずんぶり 湯の中の顔と 顔笑ふ」 種田山頭火

 「湯の町の 見えて石手へ 遍路道」 柳原極堂

 「湯上りを 暫く冬の 扇かな」 内藤鳴雪

 「いろいろの 歴史道後の 湯はつきず」 前田伍健

 「馬しかる 新酒の酔や 頬冠」 「籾ほすや にわとり遊ふ 門の内」 正岡子規

 「温泉めぐりして 戻りし部屋に 桃の活けてある」 河東碧悟桐

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 にきたつの道の道標と道後地ビール

道後には「俳句の道」の他に「にきたつの道」という通りがある。

「にきたつの道」はアーケード通りの土産物屋の角を西に行く道。

「にきたつ」は「熟田津」と書き、松山の船着き場の名前。

文字通り、昔は船着き場へ通じる道だった。

船で来た湯治の客が通りを行き交い

海からの魚介類と周辺農家の野菜類が持ち寄られ市が開かれたそうだ。

今でも毎月第4日曜はこの道沿いで日曜市が開かれているという。

ただし、それ以外は本当に普通の生活道路だ。

角の土産店で地ビール一本買って、散策開始。

にきたつの道


湯神社 高知・松山一人旅

2011-11-08 20:53:56 | 2011年 国内の旅

 

 

道後温泉には、その守り神の『湯神社』様がある。

宝永4年の大地震~東海、東南海、南海の3連動大地震~

で道後の湯が出なくなった時、出湯祈願をしたら湯が復活したという。

湯を使わせていただく前にお参りした方がよさそうな神社だ。

場所は道後温泉駅から東へ進む道の右手にある石段を登る。

登り切って奥の神社が湯神社だ。

ちなみに手前の神社は『中嶋神社』と言って、商売の神様だそうな。 

中嶋神社

道後の街にはもう一つ、『伊佐爾波神社』という大きな神社がある。

駅から東へ進む道の突き当たりに位置する神社だ。

かなり長い石段を登らないとたどり着けない。

ちなみに『伊佐爾波』は「イサニワ」と読む。

伊佐爾波神社

道後の名物をもう一つ。

『湯釜薬師』は道後公園という小高い丘にある、湯釜跡。

日本最古の湯釜だそうで、期限は奈良時代まで遡る。

湯釜薬師


道後温泉駅 高知・松山一人旅

2011-10-22 11:03:16 | 2011年 国内の旅

3000年の歴史がある道後温泉には

神代の時代、足に傷を負った白鷺がこの地の岩間から湧く温泉で傷が完治した

という、白鷺伝説がある。

そんな神話チックな町に行ってみたかった。

道後温泉の玄関口は路面電車の駅。

駅前には、旅行者をもてなすように「からくり時計」と「足湯」があった。

しばし

「からくり時計」の仕掛けを見て旅の心を和ませ

「足湯」で一服して身体の疲れを癒す

心憎い程のもてなしを受けて町の中へ向かった。

*からくりの上演は8時から午後10時まで、毎時00分スタート。

*足湯の湯釜は以前、道後温泉本館で使用していたものだそうだ。

↑ 句碑 「春風や ふね伊豫に寄りて 道後の湯」 柳原極堂

句碑の説明板にはこうあった。

『「ふね伊豫に寄りて」の中七字の字あまりが伊予のノンビリ感を出している』 

バス停。ここから夜行バスが出る。

コインロッカー。宿泊しない旅人にはなくてはならないもの。


坊ちゃん列車 高知・松山一人旅

2011-10-07 23:07:28 | 2011年 国内の旅

松山市内を走る『坊ちゃん列車』

夏目漱石の小説「坊ちゃん」がこの名の由来。

いちおう、『坊ちゃん』の一説はこうなっている。

     停車場はすぐ知れた。切符(きっぷ)も訳なく買った。

     乗り込んでみると

     マッチ箱のような汽車だ。

     ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。

     道理で切符が安いと思った。

     たった三銭である。

今の列車は、蒸気機関車の格好をしているが、ディーゼル機関車。

ときどき煙突から白煙を吐くが、実は無害な蒸気(湯気)。

路面電車の線路を走るので、駅で何本かの普通列車をやり過ごした。

乗ってみると、子供や子連れの親ばかり。

中年男が一人で乗っている様はカッコの良いものではないようだ。

松山には小説『坊ちゃん』由来の乗り物がもう一つ。

マドンナバス というものがある。  

坊ちゃん列車を待つ間に走っているのを見かけた。

ただ、こちらの方は…

どう見ても、『ちょっと派手な保育園の送迎バス』のように見えるのだ。

←マドンナバス(松山市HPから)

           ↑ 道後温泉駅で ↓