アジアを回る・日本を回る

年に1度の海外旅行を楽しみに1年働いています
2016年の夏はカンボジア・シェムリアップに決定
現在工程表作成中

モスクワ空港 1989

2008-07-08 21:39:36 | 1989年8月スイス・ドイツ・パリ
帰りのルフトハンザはフランクフルトからモスクワで給油して成田へ向かった。
行きは直行だったけど・・・
乗客は空港で給油待ちの時間が与えられたのだ。

「モスクワ空港内は写真撮影禁止」
着陸前の機内アナウンスがそう伝えていた。
こっそり機内からピンボケの管制塔の写真を撮ったけど雰囲気は伝わった?

空港内には一応売店はあるのだが、えらく薄暗かった記憶がある。
さらに、銃を持った警官がいて、共産国の現状を体験させてもらった。
危害は加えられないだろうけど陰気な感じがしてお客をもてなす態度ではないな。

そんなモスクワ空港で‘CCCP’のマークの入ったサッカーユニフォームを土産に買った。
ちなみにCCCPは露語でエス・エス・エス・エルと発音するのだよ。
大学時代の第2外国語はロシア語だったのだ。あいさつ以外は話せないけど・・・

空港内は正式にはソ連領ではないんだっけ。
でも、ソ連に行ったことがあるんだぞ~って自慢したくなる。
私たちの新婚旅行は、ソビエト連邦という国がまだあった時の話なのだ。




パリ 1989 その2

2008-07-06 22:03:38 | 1989年8月スイス・ドイツ・パリ
私たちの渡欧した1989年はフランス革命200年の年だった。
フランス革命100年を記念して建てられたエッフェル塔には建立100年を記念して「100ans」の電飾が輝いていた。
お祭り的な催しにも時々遭遇したので結構お得な時期に旅行ができたのではないだろうか。

【続・パリあれこれ】
フレンチカンカンを観るために「ムーランルージュ」に行った。
これはツアーで行ったと思う。
ドレスコードとやらでネクタイ締めて行ったけど、結局背広とネクタイはこのためだけに持って行ったんだ。
テーブルに案内されてショーを観た……はずなんだけどショーはさっぱり覚えてないなぁ。

各テーブルには1本ずつワインがサービスで置いてあった。
5,6人で分けたから各自グラス1杯くらい。
もう少し飲みたかったから、店員に「ワイン追加ない?」と聞いてみた。
店員は予期せぬ質問と言う感じで「○フラン(日本円で3000円位だったかなぁ)だぞ」
まぁそれくらいならいいだろうと思って「OK」と言うとこの店員後ろを向いて大笑いしやがった。
「この日本人、こんな吹っかけた値段でもOKしたぞ」って感じかな。
店内は暗かったけど、あの店員の顔は忘れられない。
ちょっと惨めだった。
悔しかったから灰皿取ってきてやったけど…
やっぱり惨めだった。


『海外では現地食を食べる!!』
せっかく海外に来たのだからと夫婦で交わした約束。
以来、我が家の海外旅行時の家訓になっている。

パリ最後の夜にツアー仲間に食事に誘われた。
「全員で日本レストランに行きましょう」
明後日には日本だし、何を今更と思ったが・・・
人間関係を壊してまで自己主張しない事なかれ主義者だから「いいですよ」と返事した。
何を食べたかも覚えてないけどツアーの仲間(オバちゃん主体)はご満悦だったようだ。
「やっぱり日本食はいいわねぇ」
帰ってから言えよ!と思った。
 
 




パリ 1989

2008-07-04 19:44:07 | 1989年8月スイス・ドイツ・パリ
この12日間のツアーはスイス・ドイツ・パリ12日間というもの。
確かにスイス・ドイツ・フランスではなくパリだなぁ。
パリでの3日間の行動は以下のようです。
1日目:着後、ツアーで市内観光
    ルーブル・ノートルダム寺院・コンコルド広場
2日目:自由行動
    バトームーシュ・シャンゼリゼで買物・クリニャンクールの蚤の市・夜はムーランルージュでフレンチカンカン
3日目:自由行動
    地下鉄でベルサイユ宮殿

【パリあれこれ】
 当時はユーロなんて便利な通貨はなかったのでパリではフランが必要だった。
 3日もパリにいるとフランが底をついて両替が必要になる。
 市内で入った銀行で店員が話すフランス語がさっぱり解らない。
 なんとか英語で聞き返すのだが相手も分かっていないようだ。
 そこで店員はこのフランス語を理解しない東洋人に何をしたかと言うと・・・
 非常に丁寧に、ゆっくりと‘フランス語’で話しかけた。
 でも、解らんて!! 
 フランス人は英語を知っていても話さないよ。って言われていたけど・・・ 
 結局、「レートはこれでいいか」ということを言っていたことが解ったけど列を作ってしまった。  

 シャンゼリゼ通りで買い物をした。
 妻はデパートで一桁違う買い物をしていた。
 私も負けじと一着万単位の絹製の半袖シャツを買った。
 試着もせずにサイズで買ったら欧米サイズだったようでダブダブで着れなかった。
 何年か箪笥の肥やしになっていたけど数年前に処分した。

 同じくデパートで気に入ったダンヒルのセカンドバックを見つけたのこと。
 買うことは決めてあとは小柄なかわいい店員さんにどうやって切り出そうかと思って一瞬顔を見合わせたとき・・・
 「お決まりですか?」と日本語で話しかけられた。
 店員は日本人だった。
 もっと早く言ってよ。

 シャンゼリゼで買い物をした帰り、すごい雨に降られた。
 これも思い出なんだ。

 

 

 


ロマンチック街道 1989

2008-06-30 20:44:47 | 1989年8月スイス・ドイツ・パリ
行程4日目から7日目までは延々とドイツ・ロマンチック街道をバスで北上した。
立ち寄った観光地と宿泊場所は以下のよう

4日目:観光 ノイシュバンシュタイン城
     宿泊 ポストホテル(ガルミッシュ=パルテンキルヒェン)
5日目:観光 ミュンヘン・マリテル広場
         アウグスブルグ(ホリデーイン最上階で昼食)
         ネルトリンゲン 聖ゲオルグ教会の塔
         ディケンスビュール 
     宿泊 アイゼンフート(ローテンブルグ)
6日目:観光 ローテンブルグ 市庁舎
         古城街道
         ハイデルベルグ城 
     宿泊 デア オイロペーイッシュ ホフ ホテル オイローパ(ハイデルベルグ)
7日目:観光 ハイデルベルグ
         ネッカー川のカールテオドール橋
         リューデスハイムでワインテイスト
         ライン下り(リューデスハイム~サンクトゴアハウゼン)
     宿泊 フランクフルトインターコンチネンタル(フランクフルト)

街道こぼれ話

ノイシュバンシュタイン城は入城待ちの長い列が出来ていた。
正直、これだけ待つのなら中に入らなくてもいいと思うほどだった。
添乗員が「日本語ガイドツアーがもうじき出ますから」というようなことを言ってどんどん前へ進んでいった。
我々も後をついていった。
いわゆる‘割り込み’
旅の恥を掻いて捨ててきた。

街全体が歴史保全の関係だろうか?それとも国民性の違いだろうか?
ドイツでは自販機をあまり見かけなかった。
たまに見つけた自販機でタバコを1個買ってみた。
コインを入れて、ボタンを押して・・・
出てきたタバコにはお釣り分のコインが貼ってあった。
シンプルだけど・・・面白かった。

どこかの町でお昼を食べた。
飲み物は自前というのがツアー食。
私はビールを頼み、妻はオレンジジュースを頼んだ。
料金はジュースの方が高い。
聞いてはいたが驚いた。

ラインクルーズの前にリューデスハイムの街で食べたお昼はウインナーとザワークラフト。
このザワークラフトには参った。
単純に「キャベツの酢漬け」なら食べれると思うのだが、これは更に発酵させてあるのではないかと思ったほどだ。
実際そうかもしれないな。
しかも半端な量ではない。
さすがに食べることが出来なかった。
旅行中一番印象に残った食べ物の一つだ。


マリエン橋からノイシュバンシュタイン城を見る ガルミッシュの街

 

ミュンヘン・マリテル広場の仕掛け時計  ミュンヘン・オリンピックスタジアム


アウグスブルグ・ホリデーイン

 
ネルトリンゲン・聖ゲオルグ教会の塔からの眺め


ディケンスビュール・街並み

 
ローテンブルグ・ホテルアイゼンフート ローテンブルグ・市庁舎の仕掛け時計

 
ハイデルベルグ城

 
ネッカー川のカールテオドール橋   ライン下り(リューデスハイム~サンクトゴアハウゼン)

チューリヒ 1989

2008-06-25 22:23:09 | 1989年8月スイス・ドイツ・パリ
1989年8月に新婚旅行でヨーロッパに行った。
夏休みだったこともあり、12日間のツアー代金が一人73万!!
バブルだったこともあるけど、私もお馬鹿だったなぁ。

コースは以下のよう。
2日がかりでフランクフルト経由(1泊)のチューリヒ入り。(チューリヒ2日間)
チューリヒからドイツロマンチック街道を北上しフランクフルトへ戻る。(4日目~7日目)
再びフランクフルトからパリへ行き、パリで3日間というもの。

実は当時チューリヒには私の大学時代の悪友が在住しており、そいつと会うのも目的の一つだった。
ツアー3日目のユングフラウヨッホをキャンセルして悪友と1日チューリヒを楽しんだのだ。

今のようにメールで簡単に海外の友人とやり取り出来る時代ではなかった。
日本での連絡は時差を考えて国際電話で手短に話したものだ。

出発前、悪友の両親に「渡すものがあったら持って行きますよ」と声をかけたら……
週刊誌や日本食など、私たちのトランクの半分が埋まる程の手荷物を持って、空港まで来てくれた。
さすがに、それを見た悪友も「こんなに持たせて悪かったなぁ」と言っていたっけ。
でも、当時はなかなか日本のものが手に入らなかったそうだ。

チューリヒで悪友に連絡を取ろうとしたけど、電話番号のメモを日本に忘れてきてしまった。
ホテルにあった電話帳をダメモトで調べたら、そいつ「茂」という名前だけど確か「SHIGEL?(シーゲル)」という表記で載っていた。
苗字も忠実なローマ字表記でなかったので、はたしてその番号が悪友宅のものか少し不安だったが掛けてみた。
「もしもし」で始めて通じなかったら「Sorry」で切ろうと思ったけど……見事に「もしもし」で返してもらえた。

さて、ツアーを離れて悪友夫婦に連れて行ってもらったのはアーレシュルフト渓谷(Aareschlucht)とピラトス山(Pilatus)
ピラトス山はケーブルカーで山頂まで行ったら雪だった。8月だったんだけど…
懐かしい思い出。

 

山を下りて連れて行ってもらったのは「ルツェルン」という街。
街を流れるロイス川に架かる有名な木の橋の「カペル橋」を散策。
山を下りても寒かった。



その後、悪友宅で食事をご馳走になり、ホテルまで送ってもらった。
その日8月1日はスイスの建国記念日だそうで、夜に花火が打ちあがってほろ酔いがさらに深まった。