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赤穂浪士討ち入り

2015-12-13 15:00:41 | 日記
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四十七士討ち入りの日

 日本の歴史の中に3大仇討と云うのがある、1つは親を弓で殺害され、仇 工藤 裕経を富士の巻狩りの時に、曽我の五郎 十郎兄弟が討ちを果たし本懐を遂げた.
 
二つ目は義弟渡辺 数馬の恨みを晴らすベく剣豪、荒木 又衛門が助太刀して、伊賀の国上野 鍵屋の辻で河合 又五郎を討ち果たし遺恨を晴らした、
  三つ目は赤穂浪士の吉良邸討ち入りである、明日がその日になる。

 浅学の小生が三大仇討をうんぬん書くより諸兄姉の方が詳しいと思うので記述は控えるが、討ち入り前日の逸話を書いてみよう。

 四十七士の中に大高 源吾と云う人が居た、この人は俳句を好み、赤穂の時代から俳句を嗜み俳号「子葉」を得ていた。
 松の廊下の事件後、弟大学の擁立もならずお家断絶で浪人になった赤穂浪士、仇討の為浪士四十七人、赤穂から身分を隠し艱難辛苦して東下りして江戸に入った、江戸入府して、討ち入りまでの生活の糧を得る為、四十七人いろいろな職業に身を窶し生活していた、大高源吾も暮れの煤払いの竹を売り歩き生業としていた。

 大高 源吾江戸入府後も俳句の道で、「室井 基角」に師事していた、討ち入り決定の昼間、なりわいの煤払い竹を売りをしている時に、両国橋で師匠の基角にぱったり出会った、師匠の基角が源吾の姿を見て哀れに思い、「年の瀬や 水の流れれと 人の世は」と上の句を源吾に呈した、源吾すかさず「明日待たるる その宝船」と返した、その夜身を賭しての討ち入り決行、覚悟と喜びを表していたが其角若しかして討ち入り前夜と感じたか、その意味分からず、或る大名に話したら討ち入りが有ると話したとか、諸説あるが、室井 其角と大高源吾の両国橋の出会いは真実のようだ。

 因みに浅野内匠頭の辞世の句は「風誘う 花よりも尚我は亦 春の名残ぞ 如何にとやせん」悔しさを強く滲ませている、この主君の悔しさを晴らした赤穂浪士の快挙の日である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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