老いて楽しく

余生を楽しむ

酒と煙草どっちが止め易い

2017-06-29 17:20:36 | 日記
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酒と煙草はどちらが止め易いか
 

  人生長い間には色々誘惑が有る、酒 煙草 麻薬 ギャンブル等が有る、特に煙草と麻薬は「百害 有って一利なし」何もいい所が無い、ニコチン中毒から抜け出すには、大変な努力がいる、酒とギャンブルは、程々に嗜しなんで居れば「酒は百薬の長」と云われる、ギャンブルも自分の小遣いの範囲内で楽しんで居れば、時には配当が有り、長く楽しむ事が出来る、たまに大きな配当が入ったのが忘れられず、のめり込む人も多い、借金が積り多重債務に陥り、一家離散、自己破産などになりかねない。

 酒も度が過ぎると、思はぬ失敗や喧嘩も起こしかねない、体の方も肝臓が悲鳴を上げ、γGTPの数値が上がり、飲み続ければ、肝硬変→肝臓癌→肝臓破裂など恐ろしい結末が待っている。

 煙草も難しい商談の合間に一腹、リラックス後商談が進むとか、ふと手持無沙汰の時一腹など気を休める効果はあるかも知れない、だが肺に着実にタールが蓄積され動脈硬化も進む、ひいては肺癌 心筋梗塞 脳梗塞等を起こしかねない。

 酒 煙草 麻薬は体外からから異物を取り入れて、中毒症状が現れる、どれを取っても中毒症状から抜け出すのには大変な苦労と努力が必要だ、ギャンブルは体外から何を取り入れる訳では無いが脳がギャンブル指向になっているので、此れを修正するのは、新聞に出ていたが、大変な時間が必要だ。

 20年程前にタバコを止めようと決意、3日目くらいに吸殻が残って居ないか灰皿を探すあさましい姿が有った、5日目頃にはたばこ自販機の前に立っている自分が居た、意を強くして立ち去る、7日目遂に耐えたれず1箱買って一本吸った、2~3回吸った処、顔から血の気が引くのが分かり頭はくらくら目は回る、20分くらい休んで回復した、暫く吸わないでいた所へ、急にニコチンが入って来たので、血管が急激に収縮して頭に血が回らなくなったのだろう、この気分が悪くなったので決別を決めた、残り19本は即座に捨てた、あの気分の悪さで煙草と決別できた、

 

 毎年人間ドックを受けている、今年は5月に受けた、6月半ばに診断書が届いた、γGTP標準値50が400を越していた、即日断酒と思ったが、診断書が届いた日は、酒が2日分ほど残って居た、無くなったら止めようと、そこが酒飲みの意地の汚さか、酒の無くなった日からぴたりと止めた、夕飯の時飲みたいなとは思ったが、ご飯を食べたら飲みたい気持ちはなくなっていた、酒を止めて半月体の各部も調子いい半月間一滴も飲んでいない。

 小生にしては、煙草より酒の方が簡単に止められた、

アル中になっていたら断酒ももっと苦労したであろう、そうでなくてよかった。

γGTPが標準値に戻ったら、適量飲むことにしよう。

(⌒-⌒).(⌒-⌒).(⌒-⌒).

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

かまくら

2017-06-23 11:18:42 | 日記
 
 今回江の島鎌倉を歩いた、江ノ島は頂上の展望台までは、エスカレーターを3回ばかり乗り継いで行かれるので楽だが、下りエスカレーターはなく階段を徒歩で降りる、坂道や階段は下りの方が膝に応える、江の島の下り階段は比較的緩やかでらくだった、島の裏側の遊覧船乗り場まで下りても足は何ともなかった。

 問題は鎌倉の神社巡りだ、今回は「鎌倉宮」「荏柄天神」「頼朝の墓」「白幡神社」「鶴岡八幡宮」と回った、、山に囲まれた各社、御多分に漏れず、高い階段を控えていた、鎌倉駅から鎌倉宮までバスで行く、鎌倉宮は高い階段で、昇り降りがきつい、
荏柄天神を参拝して下る時には、右脚に筋肉痛を起こしていた、頼朝の墓は50段ほどで比較的緩やかだったが、痛みを起こしたら緩やかも何もない痛い。  

 白旗神社では階段の下で待とうとしたが、白旗神社は初めてだし、皆に負けてたまるかと我慢して登り参拝した、白旗神社を降りたらあと鶴岡八幡宮まで坂はない、鶴岡八幡宮の階段が嫌だと思って居たら、誰も本殿へ行こうと云わず助かる、右太ももはかなり悲鳴を上げていた、若宮大路から小町通りへ入り鎌倉駅に着く、鎌倉駅から直通池袋へ乗れてほっとした。 
 

鎌倉宮(大塔宮)
元弘3年(1333)吉野城落城の折り、大塔宮護良親王の危機に、村上義光が親王の鎧に着替え、敵前で「我こそ護良親王なり」と称し割腹自殺した、その間に親王は落ち延びた。
 元弘3年と云えば、新田義貞が鎌倉攻めをした年でもある。

 
正面屋根の下に、樹齢1030年の大欅で彫った「撫で身代わり」が祀られている
 
荏柄天神は 太宰府天満宮 京都の北野天満宮と並び称され、3代天満宮と云われる、鎌倉幕府の鬼門の方角に当たり、厄除けの意味もある
 
厄除けの為か高さ1m以上ある大きな獅子頭
 

 源頼朝の死亡原因は諸説あり、糖尿病 脳卒中 暗殺 など言われているが、比較的信憑性も高く云われているのが落馬により死亡説だ。
 1198年12月27日、家臣の慶事に出席した帰り、稲村ヶ崎で落馬、それが原因で1199年1月13日に死亡した。

 
 墓までの階段は50段程、踏み代も広いがこの時は筋肉痛が響いた
 
 源頼朝を祭神とする社、源氏の旗印 白旗神社、黒漆塗り 極彩色 唐破風が大きく前の迫り出し威容を誇る、本殿は武衛殿と云われ、そこ掛かるる扁額は、島津藩主 島津久光の書と云われる、頼朝没後島津藩が大きく関る
 
歴史ある建造物の案内板、矢張りかまくらならでは
 
普段の日でも賑わう小町通り
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

江ノ島

2017-06-16 11:52:11 | 日記
 
 

 過日 江の島 鎌倉を散策する会に参加させて貰った、この会の会員ではないが気持ち良く参加させて呉れた、一行21人、女性の方が多い。

 65年程前には毎年夏には江の島海岸へ、1~2回海水浴に行っていた、当時板橋に住んでいたが今ほど電車の便が良くない、どんなルートで江の島まで行ったのか記憶が無い、今はとても交通の便が良くなったが、当時満員電車に揺られて江の島まで行った、若かったから満員電車も苦にならなかったのだろう、江の島海岸駅周辺に商店はあったが、猟師の家 民家が点在するくらい、今回行って見たらマンションが建ち並び大変な発展、そうだろう半世紀以上過ぎているのだから。

 当時江の島海岸は、西浜は海の家が建ち並び、大変賑わって居た、一方東浜は人っ子一人いない寂しさ、長い藻が有り泳ぐと体に巻き付き危険を感じた、藻の中を歩くと雲丹を踏みつけ足に棘が刺さった、今程雲丹が珍重されず、拾って持って帰る事も無かった。

 鎌倉は30年程前、毎月のように通い各社寺を回った、その頃はカメラも持たず、各社寺の故事来歴や、庭園を見学した、今の様にデジカメで気楽に映像が残せれば良かったが、その時はフィルム写真でカメラは持っていたが、記録を残そうなんて意欲は全くなかった、何も記録が残って居ないのが残念。
 江の島周辺は大きく変貌したが、鎌倉の社寺は変化が無かった、只平日でも観光客の多さに驚く,

写真が多くなり今回は江ノ島に限り、鎌倉は次回に。

 
小田急江ノ島駅ワイド写真、
 
鎌倉に銭洗い弁天がり、お金を洗うと増えると云われているが、江の島の弁財天にも湧水が有り、「銭洗い白竜王」の湧水地が有り、銭洗いが出来る
 
江ノ島弁財天
 
中津宮
 
江ノ島奥津宮
 
江ノ島のシンボル、シーキャンドル、夜は綺麗らしい
 
島の裏側から江の島海岸駅まで行く遊覧船15分程
 
船から見た江の島
鎌倉は次回掲載
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

羽村堰と玉川上水

2017-06-05 08:32:00 | 日記
歩くことは楽しいが疲れた
 

 先日西武線拝島駅から玉川上水添いを、途中社寺 公園等を探索しながら羽村取水堰迄歩いた、上水側道は緑陰と川を渡る風がとても心地よく、暫く行くと「ミズクライド公園」に着く、何とも理解し難い公園名である、公園に着いて看板の漢字を見て、成る程とある程度納得できた、翌日詳細を調べて見た、そうだったのかと頷ける、工事の難しさを知った、それにしても地元の人は上手い地名を付けるものである、水を食ってしまう地層、後に地名ともなる。 

 玉川上水開削も多くの困難が有り、その最大の誤算が「水喰土」の砂利層にぶつかり、水が総て飲み込まれてしまったことだろう、僅か離れた所を新規開削して無事水が通った、水が通らない堀跡が遺構として残った、先人の苦労の跡だ。

 社寺を2~3訪ね、その一つ清岩院は広い境内を有し、素敵な庭園が有る、蒸し暑い日だったが木陰を渡る風は涼しかった。
 上水添いを、羽村取水堰迄歩く、1月末に膝を痛め、その後回復したが、長い距離は歩いていないので少し不安を持って歩いたが、行けも行けども取水堰が来ない、取水堰に着いた時は両足の筋肉に疲労が出ていた、帰り同じ距離を歩くのかと思ったら、少々うんざり、それでも落伍することなく、皆さんと一緒に歩けたのはよかった、青梅街道へ着いた時に、リーダーがあと10分程で福生駅と云う、ほっとしたのは良いが、もう喋る気力もない。

 福生駅を過ぎ少し行った所に、ハム ソーセージ工房がレストランを開いている、1時半と遅くなったが食事を摂る、小生熱中症を警戒して水分を余分に採ったら、歩く度に胃がカッポンカッポン水が揺れる、全く食欲なく食事抜きこんな事ではいけない.膝痛も治った事だし少しずつ足を鍛え直そう。

家に帰った時 万歩計は20,983歩を示していた。

 
拝島の駅から上水側道を歩く、川面を渡る風と新緑の木陰が何とも心地よい
 
 ミズクライド公園、何とも理解し難い公園名、現地で看板の漢字を見て成程と頷けた、この地は下が砂利層なので、水を皆吸い込んでしまう、少し離れた所を新たに開削そちらに水を流して成功、此の水を食ってしまう溝は遺構として今は公園になっている。
 水を食ってしまう土地「水喰土」昔の人は上手い名前を付けるものだ、所沢にも狭山丘陵を源とする「不老川」(年取らず川と読む)細い流れが武蔵野台地の砂地に吸い込まれ、川が無くなってしまう、其れゆえに「末無川」とも呼ばれる、今は新河岸川に繋がっている。
 開削を担当した「庄右衛門 清右衛門」兄弟の苦労は推して知しるべし、のちにその功績を幕府が称え、玉川の姓を与え士分に取り立てられ、明治政府から従五位を賜られる。
 
羽村堰に立つ玉川兄弟銅像、昭和33年9月に東京都知事 安井 誠一郎が功績を称え銅像を建て碑文を嵌め込んでいる
 
昭和33年銅像建立に当時東京都知事だった 安井 誠一郎が碑文を書いている
 
帰途田村酒造に寄る、杉玉が茶色になっているので新酒が出来のだろう、小生疲労困憊、只腰掛で休むのみ、好物の酒の土産も見る気力なし
 
大多摩ハムレストランで食事、厚切りハムに大きなソーセージ旨そう、皆さん食欲旺盛
 
ある人はめんたいスパゲッテイ、結構量が多い、食べられて羨ましい
 
小生水で腹が一杯でもビールは別物、この大ジョッキ一杯が昼飯になる